第18回 冒険の素晴らしさを教えてくれたダカールラリー -浅く永く関わって40年 その2-
【究極の2ストロークエンジンとダカールラリー】
1994年12月、研究所から呼び出しがあり、その内容は「翌年のグラナダ-ダカールラリーの実験研究車クラス(エクスペリメンタルクラス)に2ストロークエンジンのマシンを走らせる。広報部で毎日レポートを作成して報道に送ってほしい。このエンジンは、いずれ市販車にも投入したいと考えている。活動は2年間くらいになるのでよろしく」というものでした。
1995年のグラナダ-ダカールラリーは、研究所から毎日届くレポートを編集して専門誌にFAXで送っていました(まだ電子メールという通信手段が無かった時代です)。マシンの名称は、EXPERIMENTALの2ストロークから「EXP-2」になりました。このマシンには、2ストロークエンジンの弱点である燃費とエミッションを改善できる技術「AR燃焼(Activated Radical Combusion)」が採用されていました。ダカールラリーと言えば、燃費と耐久性に優れた大排気量の4ストロークエンジンが適していますが、あえて2ストローク単気筒400ccのエンジンで挑戦したのです。
EXP-2は、ジャン・ブルシー選手とリシャール・サンクト選手に託されました。この年は、スタートがパリではなくスペインの「グラナダ」に変更されたことから、「グラナダ-ダカールラリー」と呼ばれました。2週間に渡る激戦の結果、ジャン・ブルシー選手が二輪総合5位、エクスペリメンタルクラスと500cc以下クラスで優勝を獲得したのです。
グラナダ-ダカールラリーの結果に基づいて、いよいよAR燃焼技術についての成果を報道関係者にレクチャーする企画が急ピッチで始まりました。2月19日(日)に青山本社のウエルカムプラザ青山で「バイクフォーラム・スペシャル」のトークイベントを行い、その後に報道関係者を対象とした技術プレゼンを行いました。青山には、EXP-2の実車を展示してPRに努めましたが、市販車への採用計画については時期尚早のため「まだ決まったものはありません」という回答になりました。このEXP-2は、同年8月開催の「ネバダラリー」、11月開催の長距離スプリントレース「Baja(バハ)1000」にも出場して、システムの完成度を高めていきました。
そして、翌1996年はいよいよ市販車への採用に向けたPR活動へと進みました。5月、セーフティパーク埼玉(桶川)を会場に、EXP-2の報道試乗会、技術説明会を開催しました。
報道試乗会場には、グラナダ-ダカール、ネバダ、Baja1000各レースに出場した3台のEXP-2が研究所で完璧に仕上げられ用意されました。試乗は、グラナダ-ダカールラリー用のEXP-2で、乾燥重量は155kgとアナウンスされました。
試乗会の天候は大雨。砂漠を制したEXP-2は、1周も走ると泥だらけに。ライダー交代の度に洗車をしてくれる研究所スタッフには頭が下がる思いでした。この頃から、私は「雨男」と呼ばれるようになりました。EXP-2にとっても、大雨の中を走るのは初めての経験だったと思います。軽やかなライディングはできませんでしたが、トラクションの良さは感じていただくことができました。
同年10月、青山本社にて市販車への搭載を前提とした技術発表会を行いました。ラリーという過酷な環境でさまざまな検証が行われ、遂に市販車に搭載できる完成度に達した訳です。
そして、12月に満を持して「CRM250AR」が発表されました。報道試乗会は私の担当でした。福島県いわき市で開催したイベントは、まずまずの天候で安堵しました。研究所で打ち合わせしてからちょうど丸2年が経った時でした。究極の2ストロークエンジンを搭載したCRM250ARでしたが、日本の排出ガス規制に適合させることは困難でした。惜しまれながら短命に終わった名機に関わることができたことは幸運でした。
こういった新製品PRと並行しながら、日本のラリーストやジャーナリストがダカールラリーや海外ラリーに挑戦したいという要望に応えて、広報的な協力をしていました。ホンダのワークス活動は休止状態でしたが、ホンダのバイクで夢の実現に向けて頑張っている人たちの姿が誌面を通して多くの人たちに感動を与えてくれました。
2012年10月、HRCが長い沈黙を破り2013年からダカールラリーに挑戦することを発表し、CRF450 RALLYの写真を公開しました。この時からダカールラリーの広報発信は、若手に担当してもらいました。80年代、90年代とは違い、PR手法はリアルタイムが求められます。私は、ラリーがスタートしたときには、優勝したときに備えてリリースのストーリーを考えておくようにアドバイスしました。
2013年のダカールラリーは、南米が舞台です。HRCとしては、過去のノウハウを活かすことができませんから、ほぼゼロからのスタートになりました。
優勝するまでには、3年はかかるだろうと思っていましたが、8年もかかることになるとは夢にも思いませんでした。ホンダの最高位は、2013年7位、2014年は5位。ステージ優勝も増えて総合でも上位を狙える位置にあり、社内でも盛り上がっていました。そのような中、2014年11月のEICMA(ミラノショー)に突如プロトタイプの「True Adventure(トゥルーアドベンチャー)」を出展することが決まり、私がリリース作成から発信までを担当することになりました。CRF450 RALLYのノウハウが注ぎ込まれたマシンで、いよいよアフリカツインの復活です。
翌2015年5月には、トゥルーアドベンチャー・コンセプトを発展させたCRF1000L Africa Twinを発売するティザーリリースを発行しました。この時に、車名に「Africa Twin(アフリカツイン)」をつけることを正式に発表したのです。
そして7月には、欧州と歩調を合わせて、アフリカツイン正式発表の前に、技術概要リリースを発行しました。このリリースも私が担当しましたが、直前まで大きな勘違いをしていました。
私の頭の中では、アフリカツインは「Vツイン」で固まっていました。新型は「直列2気筒」なのは分かっていましたが、どうしても作成資料には「Vツイン」と書いてしまいます。チェックによって修正しましたが、先入観とは怖いものです。どうしても頭がすっきりしないので、開発者にエンジンレイアウトについて聞いてみました。そうすると、重量配分とか、整備性、最低地上高など様々な点で直列2気筒の方がアドベンチャーモデルには適していることが理解できました。ようやくスッキリ。
私が新型アフリカツインのPRを担当したのはこれが最後になりました。価格と発売日以外はこの技術概要発表で明らかになりました。やっぱりアフリカツインは砂漠が似合います。
2020年、HRCチームは、南米のダカールラリーに復帰して8年目にして総合優勝を獲得しました。そして2021年の連覇の後に、グランプリ出版社から1980年代の4連覇の記録書籍を復刊させたいとの相談を受けました。これは、1989年に発刊された書籍で、HRC開発チームがいかに挑戦して栄光を勝ち取ったのかを、綿密に記録したものです。著者は西巻裕さんです。すでに30年以上が経過していますので、出版社は著者の連絡先や書籍に登場している当時のHRCスタッフの連絡先が分からないという事でした。
私にとってはいとも簡単な事でしたので、連絡役を引き受けました。そして、この書籍に1995年のグラナダ-ダカールラリーと、2013年以降のダカールラリーのリザルトを追加していただくことを提案させていただきました。改めて読み返しますと、西巻さんが粘り強く膨大な時間をかけて取材された様子が分かります。そしてそれに応えたHRCスタッフの努力にも脱帽です。
2021年11月下旬、グランプリ出版社から増補二訂版としてカバーを一新し発刊されました。思えば、1982年にヌブー選手がXR500Rで優勝してから40年になります。
ダカールラリーマシンも、40年で大幅な進化が見られます。しかしながら、大自然を相手に果敢に挑む姿は今も同じです。これからも永く応援していきたいと思います。
了
1955年山形県庄内地方生まれ。1974年本田技研工業入社。狭山工場で四輪車組立に従事した後、本社のモーターレクリエーション推進本部ではトライアルの普及活動などに携わる。1994年から2020年の退職まで二輪車広報活動に従事。中でもスーパーカブやモータースポーツの歴史をPRする業務は25年間に及ぶ。二輪業界でお世話になった人は数知れず。現在は趣味の高山農園で汗を流し、文筆活動もいそしむ晴耕雨読の日々。愛車はホーネット250とスーパーカブ110、リードのホンダ党。