第17回 冒険の素晴らしさを教えてくれたダカールラリー -浅く永く関わって40年 その1-
2022年1月14日、世界ラリーレイド選手権の開幕戦にあたるダカールラリーがゴールを迎えました。応援するモンスターエナジー・ホンダチームは、惜しくも2位の成績で3連覇はできませんでした。しかし、4名全員が7位までにフィニッシュしたことはライダーとマシン、チーム運営の総合力が高い次元に達したのだと思います。そして大きな事故なくゴールにたどり着いたことが何よりです。想像を絶する過酷なラリーに出場したライダー全員に拍手を贈りたいと思います。
私とパリ-ダカールラリーとの関わりは、40年前の1982年に遡ります。この年開催の第4回大会で、XR500Rに乗るシリル・ヌブー選手が優勝しました。当時、原宿本社のモーターレクリエーション推進本部(以降モーターレク本部)では
二輪と四輪のあらゆるレース情報を映像化した「HONDA SOUND」の制作と販売を企画していました。通称「ホンダビデオマガジン」と呼んでいました。毎月1回発行し、二輪販売店、四輪販売店の店頭で放映してもらおうというPR治具でもありました。もちろん、一般販売も1982年4月号の創刊号から同時スタートしました。
記念すべき創刊号の編集確認業務を託された私は、赤坂の東北新社のスタジオに向かいました。制作会社はTBS映画社(当時の社名)でしたから、ナレーションはTBSの有名アナウンサーの小島一慶氏が担当されました。冒頭の特集は、パリ-ダカールラリーです。初めて砂漠を超高速で走るラリーを見てただ驚くばかりでした。私はトライアル馬鹿と呼ばれていましたから、全く別世界の映像に見とれているだけで編集確認どころではなかった思い出があります。この時から、ダカールラリーと少しずつ関わっていくことになりました。
※カタログや資料は個人所有につき、汚れなどがあります。ご了承ください。
本社では、ダカールラリー初優勝を記念してポスターやステッカー、そしてHONDA SOUNDなどを販売店に提供して、オフロード車「XLシリーズ」の優秀さを理解してもらう活動を行いました。
当時は、「XL500改」としてPRしましたが、後日に実際のマシンを確認したところ「XR500R」のロゴステッカーが貼ってありました。当時のダカールラリーの写真を検証すると、複数の同系マシンでロゴステッカーにはXLとXRの2タイプがあります。
今となっては詳細不明ですが、XL500とXR500の混合マシンの可能性が大きかったのでは? 欧州と日本でのPR手法に違いがあったのでは? と勝手に想像しています。
そして、早くも半年後の1982年7月には「XL250R パリダカール」が登場します。バリ-ダカールラリー優勝マシンと見間違うようなダイナミックなスタイリングです。トリコロールの21リットルビッグタンクは、街中で強烈な印象を与えていました。レースは速さを求めますが、市販車の開発チームも異常な速さで世に送り出したものだと感心させられました。
そして、パリダカール仕様はXL125Rにも採用され、翌1983年3月に発売になりました。
この頃は、トライアルの普及活動をメインに、「モーターレクリエーションニュース」の企画担当でもありました。毎月4ページ構成のニュースを印刷して社内関係部署や関係会社などに提供していました。そして、二輪専門誌にその内容を公開していました。全国で行われるバイクイベントに直接取材に行き記事作成することもありました。原宿本社には、海外ツーリングに行くための方法を教えて欲しいとか、ツーリングに支援して欲しいといった手紙が度々届きました。その手紙に返信するのが私の担当でした。海外ツーリングに憧れを持っている人達に有益な情報を提供することも仕事でしたから、数名の方にはモーターレクリエーションニュースにツーリングレポートを寄稿していただくことを条件に、補修パーツなどの協力をすることもありました。不定期ですが、海外から届く手紙と写真が楽しみでした。遠い異国の地で困難に立ち向かいながらツーリングを満喫している様子は、私も一緒に旅をしている気分になる時間でした。彼らは、パリ-ダカールラリーと共通の”冒険の扉”を開けた勇者に思えました。
【砂漠の王者ヌブー選手が青山にやってきた】
1982年9月にホンダ・レーシング(HRC)が設立されると、同年にはトライアル世界チャンピオンを獲得。翌1983年にはWGPロードレースの500ccクラスでチャンピオンを獲得するなど、モトクロス、トライアル、ロードレースの3カテゴリーで強さを発揮していました。残るは、世界選手権ではありませんが、世界で最も過酷なモータースポーツと言われるパリ-ダカールラリーの制覇です。
1986年、急ピッチで開発されたワークスマシン「NXR750」で出場したシリル・ヌブー選手が優勝を獲得してくれました。続く1987年もヌブー選手が2連覇を達成。この年は、青山本社のショールーム「ホンダウエルカムプラザ青山」の企画担当でしたから、パリ-ダカールラリーのコース図と成績ボードに各日の順位を掲示するのが私の役目でした。朝、社員が出社したときに順位がすぐわかるように、ゴールの日まで朝仕事は続きました。優勝の数日後、ヌブー選手を招いて記者会見を行うことが決まり、会場レイアウトとかショールーム内の映像や音響機器の操作は私が担当することになりました。1月22日のゴールからわずか1週間後の1月30日に記者会見は行われました。
ヌブー選手を初めて見た時の印象は、「こんな小柄な人があの怪物のようなマシンを操るとは信じがたい」というものでした。プロフィールには、身長164cmとあります。私も160cmと小さいので、オフロードバイクに乗る時は苦労していました。記者の人たちも同じ印象でしたので、こんな質問が出ました。
「失礼な事をお聞きしますが、ヌブーさんはとても小柄なのですが、マシンをストップさせるときに足が着かないこともあると思います。その時はどうするのでしょう」
『簡単ですよ。リアタイヤを空転させてタイヤを沈めて停まるんです』
なるほど、砂漠の王者ならいとも簡単に行えてしまうと思いました。そして、こんな質問も飛び出しました。
「砂漠には固いところと柔らかいところがあり、判断を誤ると大転倒になりますが、高速で走りながら瞬時に見分けるコツはあるのですか」
ヌブー選手はしばらく遠くを見つめた後に『理論的に説明はできないのですが、感覚でなんとなく分かるのです』というようなコメントをしました。砂漠の王者が語る言葉は、一つ一つが重く感じられました。何といっても、164cmの小柄なライダーが2連覇したのですから、私たちに勇気や希望を与えてくれました。
【アフリカツインの登場】
1988年5月、待望の「アフリカツイン」が登場しました。ワークスマシンNXR750の市販バージョンといっても過言ではありません。威風堂々としたスタイリングに、何といってもアフリカツインという車名がぴったりでした。排気量は647cc、タンク容量は24リットルでした。
私は、ウエルカムプラザ青山の展示車担当でしたから、専用スタンドで固定してまたがれるようにしなければなりません。私にとっては巨大なマシンですから、ひとりで悪戦苦闘しながら準備しました。お客様からはシートが高くて足が着かない。といった苦情をもらいましたが、「164センチのヌブー選手は、もっとシート高が高いワークスマシンで2回も優勝したのです。操安性は抜群です」と、間近に見たことを少し自慢しながら説明していました。アフリカツインの登場は、ダカールファンの拡大にもつながったと思います。
1989年のパリ-ダカールラリーでNXR750は4連覇を達成しました。その後、HRCはこのラリーの活動を休止することになりました。
1990年2月、4連覇のNXR750の技術をフィードバックし排気量を742ccにアップした新型アフリカツインを発表しました。このカタログには、NXR750の4連覇の歴史をまとめた資料が挟み込まれていました。
アフリカツインは、アドベンチャースポーツモデルとして高い評価を得ましたが、1990年代のパリ-ダカールラリーは、ヤマハとカジバの2強の戦いへと移ります。ホンダ4連覇の記憶は次第に薄れていきました。
そのような中、研究所から呼び出しがかかり訪問すると、新たなダカールラリーと関わることになりました。その活動は丸2年に渡ることになります。この展開は次回に紹介させていただきます。
1955年山形県庄内地方生まれ。1974年本田技研工業入社。狭山工場で四輪車組立に従事した後、本社のモーターレクリエーション推進本部ではトライアルの普及活動などに携わる。1994年から2020年の退職まで二輪車広報活動に従事。中でもスーパーカブやモータースポーツの歴史をPRする業務は25年間に及ぶ。二輪業界でお世話になった人は数知れず。現在は趣味の高山農園で汗を流し、文筆活動もいそしむ晴耕雨読の日々。愛車はホーネット250とスーパーカブ110、リードのホンダ党。