第8回 元気がもらえるお気に入りの場所 -Honda コレクションホール 四輪車編-
5月30日(日)、快調なスーパーカブ110のエンジン音を聞きながら、一路ツインリンクもてぎに向けて北上しました。トライアル全日本選手権の応援と、歴代シビックを一堂に展示した「シビック ワールド」の見学が目的です。
これまで、Honda コレクションホールには報道関係者の撮影やイベント対応などで100回は訪問していると思いますが、プライベートでは数回に留まっていました。いつもは、四輪コーナーは足早に通り過ぎるのですが、この日は違いました。
シビックをはじめとする展示車達は、私がホンダに憧れ入社してから生産に従事した思い入れのある製品です。一瞬で、45年も前にタイムスリップするのですから、なんとも不思議な展示空間です。来場者は、若い人から高齢者(私もその一人)までさまざまな人達がいますから、思い入れはそれぞれ違っています。
「これでいろんな所に行ったもんだ。よく走ったなぁ」
「やべぇ。これいい!!」
「お父さん、これに乗っていたよね」
「あっ。知ってる。テレビコマーシャルで見たことがある」
「エアコンが無かった時代だけど、それほど辛くなかったね」
「今も乗れたら楽しいだろうね」
では、私にとって特別な存在の四輪車達と思い入れを紹介させていただきます。
【生産に従事したクルマたち】
Honda コレクションホールのホームページもご参照ください
https://www.twinring.jp/collection-hall/
本田宗一郎氏こだわりの空冷エンジン。右はセダンタイプの1300 99。中学生の時に、山形県で行われたホンダ大試乗会で乗せてもらった憧れのクルマ。絶対に買えるはずもない中学生のグループは、後部座席でちょっとしたドライブを楽しむことができました。あの時の担当営業マンに感謝、感謝です。
四輪では「ホンダ1300」が、二輪ではCB750FOURが登場し大きな話題となりました。中学2年生でバイクに興味を持ちだした頃です。
私がホンダに入社したのは1974年。埼玉県の狭山工場では、このシビックが生産されていました。工場の壁面には、巨大な「CVCC」の看板が掲げられていました。世界に認められた低公害エンジンCVCCを搭載したシビックの車体組立ラインには、毎日のように見学者が訪れていました。狭山工場では花形の生産ラインでしたので、見学者がやってくると少し緊張しました。
シビックのスポーティモデルは、造っていても誇らしく思いました。バンパーに取り付けられたゴムを、我々は「かつお節」と呼んでいました。アメリカ仕様シビックは、衝撃対策としてバンパーが前後に張り出していて、恰好良かったです。我々は左ハンドルの輸出車を「Lハン」といって日本仕様と区別して呼んでいました。「あと10台でLハンに変わるぞ」という班長の声が聞こえると、部品の配置を変えるとか、誤って部品を取りつけないように注意する必要がありました。アメリカ向けは、連日増産、増産で休日も駆り出されましたから、給料は通常の1.5倍になる月もありました。でもこのシビックは、入社2年の若造には手の届かない
存在でした。
私のホンダ入社時の原点ともいうべき2台が揃って展示されています。1974年に配属された狭山工場の車体組立課で最初に携わったのが、ライフでした。小柄な体格でしたから、車内に乗り込んでペダル類を取り付ける作業です。大きな人だと上手くいかないのです。最初の2週間は足腰が立たないほどの過酷な作業でした。1年後にシビックのラインに移ったときもペダル取り付け係でしたが、室内が広いので別世界でした。
入社2年目の1975年、中古のZのオーナーになりました。展示車と同じ水冷エンジンです。ボディカラーはグリーン。山形への帰省は、片道500キロを12時間かけて走りましたが、あまり疲れなかったことを覚えています。もちろん一般道路だけです。FFでしたから雪道もすいすい。本当に良く走るクルマでした。
狭山工場に待望の高級車がやってきました。当時のホンダにとっては、1600ccでも高級感が漂っていました。私は、憧れの「黄ペンチェック」と呼ばれるトルクチェックの担当になりました。ブレーキ関係のボルトやナットをトルクレンチでカチカチと締めて、黄色のペンキを塗布するのです。この展示車も私が担当した一台かもしれません。そんな風に考えますと、見ている時間が長くなってしまいます。
我々は、「川越ベンツ」と呼んでいました。なぜか「狭山ベンツ」とは言いませんでした。たぶん、狭山市よりも隣の川越市の方が有名だったからかもしれません。高級サルーンカーとして、内外装の組立作業には最新の注意が払われていました。私は、電動アンテナの取り付けなどを担当。窓を開けて右手を伸ばしてアンテナを引き伸ばす必要が無いのです。電動ウィンドゥなど先進装備が満載で、当時のフラッグシップモデルでした。
1974年から1978年までの4年間、狭山工場では一番小さなライフから一番大きなアコード サルーンまで担当することができました。
Hondaコレクションホールを訪れる人たちは、「かつてのホンダ車オーナー」が多いと思います。私は、「かつてのホンダ車生産従事者」として思いを馳せることが多いのです。
【これは欠かせないクルマたち】
何といっても流麗なスタイリングと鮮烈なレッドが映えます。右は1964年に鈴鹿サーキットで開催されたロードレース世界選手権日本GPのプログラムに掲載された広告です。ホンダレンタカーが扱うのはS500。広告の写真には圧倒されます。
F1世界選手権で16戦15勝という圧倒的な強さでチャンピオンを獲得したマシン。ドライバーはアイルトン・セナです。私は、このマシンが一番美しいF1マシンだと思っています。当時の私は、青山本社のショールーム「ホンダウエルカムプラザ青山」でF1の展示やトークショーなどの企画を担当していました。鈴鹿サーキットでもセナ選手を応援するなど、毎日がF1で染まっていた気がします。
今年は、ホンダにとってF1活動の最終年になりますが、このマシンは形は変わってもチャレンジングスピリットの大切さを訴えかけているようです。
【創業者からのメッセージ】
1階の「Honda夢と挑戦の軌跡」展示ゾーンでは、本田宗一郎氏と試作車RA270のパネルと、創業者である本田宗一郎氏、藤沢武夫氏のメッセージを映像で見ることができます。お二人の共通点は、「有言実行」だと思っています。「人間尊重」を基本理念として、さまざまな困難に立ち向かって解決してきました。この生きざまは今の時代でも変わらぬ輝きを放っています。
Hondaコレクションホールで製品や展示物に接していますと、気持ちが若返ると同時に、「ここで立ち止まってはならない」と未来に向けて挑戦することの大切さを教えられます。私にとって「お気に入りの場所」で、元気がもらえる場所にもなっているのです。
1955年山形県庄内地方生まれ。1974年本田技研工業入社。狭山工場で四輪車組立に従事した後、本社のモーターレクリエーション推進本部ではトライアルの普及活動などに携わる。1994年から2020年の退職まで二輪車広報活動に従事。中でもスーパーカブやモータースポーツの歴史をPRする業務は25年間に及ぶ。二輪業界でお世話になった人は数知れず。現在は趣味の高山農園で汗を流し、文筆活動もいそしむ晴耕雨読の日々。愛車はホーネット250とスーパーカブ110、リードのホンダ党。