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伊藤真一の 大きな挑戦。 ── 前編 ──
東北出身の、バイク好き、レース好きの青年が一夜にしてスターになったようなものだった。山本寛斎がデザインしたスポーツブランドがスポンサーとなり、篠山紀信の撮影したポスターが至る所に貼られた。サイン会には長蛇の列が出来た。伊藤真一は正しくシンデレラボーイだった。1988年、伊藤が22歳の時だった。その後、日本だけでなく世界を戦った。彼のキャリアは多くのライダーから尊敬され、レジェンドと言われるに相応しいものだ。伊藤は、ずっと戦ってきた。そして54歳になる今、新たな挑戦が始まった。
■文・佐藤洋美 ■写真:赤松 孝




新型コロナウィルスは、世界的パンデミックを引き起こし、様々なイベントが延期、中止へと追い込まれた。全日本ロードレース選手権も同様で、大幅にスケジュールが変更された。最高峰クラスのJSB1000は、2レース開催ラウンドがあり、全7戦でタイトルを争う。新設されたST1000他、ST600、J-GP3は、全4戦となった。開幕戦は、8月上旬の宮城県スポーツランドSUGOとなり、レジェンドの伊藤真一が監督の「Keihin Honda Dream SI Racing」が始動した。

ロードレース世界選手権(WGP)で活躍、全日本では4度チャンピオンになり、鈴鹿8時間耐久では7度のポールポジション、4度の優勝を飾った伊藤真一が「Keihin Honda Dream SI Racing」の監督となった。ライダーはJSB1000に清成龍一、渡辺一馬を起用、新たに始まるST1000には作本輝介という布陣だ。メカニックはJSB1000担当に、WGPで伝説のライダーたちを手掛けた小原斉。ST1000は、かつて故加藤大治郎、玉田誠、清成らを担当しWGP経験もある柳本慎吾。チーム結成が発表されたのは、ホンダワークスが全日本に復帰して2年で姿を消すことが噂になっていた2019年12月で、そこに代わるビッグチーム誕生に注目が集まった( https://mr-bike.jp/mb/archives/7370 )。

2019年12月に体制が発表された。伊藤真一を中央に、左から作本輝介(ST1000)、渡辺一馬、清成龍一(共にJSB1000)、そして小原斉(メカニック)という陣容だ。

マシンは、ホンダがサーキット最速をめざして開発したCBR1000RR-R。伊藤自身が開発テストに加わった新型マシンだ。当然、ワークスチューンのマシンでの参戦だと多くの関係者は期待したが、それは、スーパーバイク世界選手権(SBK)のワークスチームのみ。今季から念願のSBK参戦を決めた高橋巧も市販キット車だ。伊藤チームも同様で、市販キット車でヤマハファクトリーに対抗しなければならず、伊藤は「大きな挑戦」と語っていた。

コロナ禍にあっていろんなイベントが中止や延期になっていた。待ちに待った8月、いよいよ彼らの“2020年シーズン”が始まった。

エースライダーの清成は、イギリススーパーバイク選手権で3度も王座に輝き、鈴鹿8時間耐久では伊藤と並ぶ4度の優勝を飾る実力者。昨年はSBKに返り咲くも、まったくいい所がなかった。ポイント獲得もままならずランキング19位。鈴鹿8時間耐久でも高橋が「最強のパートナー」と清成と組むことを切望してワークスチームから参戦となったが、ケガの影響で、決勝直前で参戦しないという苦渋の決断をした。高橋/ブラドルで挑み3位となった。表彰台には清成も毅然と登ったが、その心中は穏やかではなかったように思う。
「清成は終わった」と囁く声もあった。「そんなことはない」と証明したくても、清成が納得する体制を得ることは難しく、引退を考えていたが、そこに伊藤から声がかかった。
「中須賀克行(ヤマハファクトリーライダーで9度の全日本王者)と互角に戦えるのは清成しかいない」と清成獲得に動いたのだ。

数々の栄光を手にしてきた清成龍一だが、近年は思うようなレースが出来なかった。それでも伊藤真一は清成のチカラを信じて、チームに招き入れた。

清成は時間が許す限り、レース映像を見ることに没頭している。伊藤のレースも何度も見たと言う。
「伊藤さんのすごさは、レースを見れば分かります。何度も繰り返し伊藤さんのレースを見て、参考にさせてもらい、勉強させてもらった。日本を代表する正真正銘のレジェンド・ライダーです。そんな人から声をかけてもらった。その気持ちに応えたい」
と再起をかけて挑むことを決意したのだ。

渡辺はチームグリーンのエースライダーとして活躍したが、今季はチームが参戦しないため移籍した。
「伊藤さんは、僕にとっては、雲の上の、そのさらに上の存在。ST600のチャンピオンになった2013年、伊藤さんに多くのアドバイスをもらいました。そのおかげでタイトルが取れたと言ってもいいくらいです。鈴鹿8時間でも組ませてもらったし、ボルドール24時間耐久も一緒に走りました。伊藤さんからは、学ぶことばかり」
と渡辺は語る。

カワサキのエースライダーだった渡辺一馬(写真右)。伊藤とは鈴鹿8耐やボルドール24時間耐久を一緒に走った仲だ。明るい性格で、すぐにチームに溶け込んだ。ちなみに写真中央は、伊藤の盟友である佐藤正治で、ボルドールでは伊藤のヘルパーを担当。今年もスタッフとしてチームを支える。

伊藤は2012年からホンダのライダーのアドバイザーを務め、作本が全日本昇格してから、ずっと作本を見守ってきた。昨年は共に鈴鹿8時間耐久をプライベートチームの桜井ホンダから参戦し、濱原颯道と3人で組み10位入賞を果たしている。
「子供の頃のスターライダーで、憧れしかないです。そんな伊藤さんと鈴鹿8耐を走ることが出来たことは夢のようでした。全日本に上がってからは、ずっと、アドバイスしてもらい、今年は、チームに入れてもらえたことは光栄だと思っています」
作本は少しはにかみながら言った。

「将来ホンダのワークスライダーになるだろう」と、伊藤が期待する作本輝介。2019年の鈴鹿8耐を、伊藤、濱原颯道と共に戦った。身長160cmの小柄な男がST1000に挑む。

「日本人ライダーの中で1番の能力を持つ清成、これからまだまだ伸び代がある渡辺、今後への期待が高い作本。最高のラインナップ。さらに、小原さん、柳本さんの助けを借りて、勝利を目指す」
と伊藤は決意を表す。

伊藤は、宮城県角田市出身。四方を山に囲まれた地で、特に蔵王連峰は雄大で広い空に気高くそびえ、その美しさを誇る。その心が洗われるような景色は、今も伊藤の脳裏に刻み付けられている。
まだ、バイクと出会う前の少年時代、伊藤はのどかな田舎道を自転車で走るのが好きだった。小学生時代は柔道を習い、中学ではテニス部に所属し、個人、団体で優勝、町では有名人だった。高校でもテニス部に所属するが、運動神経の良さと強靭な肩を持つことから、陸上部、野球部と助人を頼まれ、様々な大会に顔を出した。ファンクラブもあり、少女漫画の憧れの君を地で行くような青春時代を送る。

そして、当然のようにバイクと出会う。日本は空前のバイクブームが起きていた。1982年ヤマハの平忠彦が吹き替えを務めた『汚れた英雄』(角川映画)が公開され、WGPの熱戦が伝えられ、バイク雑誌が次々と創刊された。その熱波は伊藤にも届き、地元のバイク屋が少年たちのたまり場となる。
伊藤は新聞配達で貯めたお金で念願のバイクを手に入れると、バイクで走り回るのが日課となる。朝早く起きて峠に出かけ朝練、学校が終わると、またバイクにまたがった。弁当代としてもらう500円をガソリン代に充て、昼食は食べず、ひたすら走ることに夢中だった。峠では負け知らずとなり、伊藤の存在はバイク乗りの中でも知られるようになる。
最も近いサーキットがスポーツランドSUGOだった。伊藤はサーキットを走り始め、その才能を示し始める。非力なマシン、レースのノウハウを知らない若者が1984年、デビューレースで3位と表彰台に登る。ノービス、ジュニアと昇格、全国を回るようになる。そして、借金も増えていった。ラストシーズンと言い聞かせた1987年、勝つか転ぶかの派手なレースがホンダの目に留まる。

1988年、ホンダのワークスライダーとなる。前年ジュニア250の年間ランキング5位の青年が、いきなりワークス入りしたのだった。

角田までホンダのスカウトがやって来た。半信半疑だった伊藤だが、1988年からホンダのワークスライダーとなり、ジュニアライダーだった伊藤が、いきなりGP500にまたがるのだ。この夢物語でシンデレラボーイと騒がれることになる。無謀な決断のように思うが、伊藤の存在感は、そのビッグチャレンジを、誰もが当然のように受け止め、異を唱える者はいなかったように思う。山本寛斎デザインのシード(スポーツブランド)がスポンサーとなり、篠山紀信撮影のポスターが渋谷の街の至る所に貼られ、サイン会には幾重もの人垣がビルを囲んだ。方言を気にして無口で寡黙なスターライダー伊藤の誕生だった。

1988年シーズン、NSR500を駆りGP500クラスを戦った。ルーキーながら年間ランキング2位となる。

この年、WGP日本ラウンド鈴鹿に伊藤は参戦、転倒に終わるが、互角の走りを見せ、世界へと、その存在を示す。全日本でも、デビューシーズンからタイトル争いを繰り広げ、ヤマハの藤原儀彦のライバルとして、レース界を盛り上げた。1990年に全日本チャンピオンとなり、鈴鹿8時間耐久にも参戦、1992年には辻本聡と組んで、優勝目前まで迫るが、暗闇の中で転倒してしまう。
悲劇のヒーローとして、伊藤人気が過熱した。1993年にはジャパンドリーム構想が動きだし、WGP500に伊藤、GP250に岡田忠之、ヤマハの原田哲也が参戦を決めた。GP125にはプライベート参戦のライダーたちが参戦し、続々と世界を目指した。

1993年から1996年までの4年間はワールドGPを走る。写真は1993年の第3戦日本GP(鈴鹿サーキット)でのカット。4位と、惜しくも表彰台を逃した。

最高峰クラスに参戦する伊藤の注目度は高く、第6戦ドイツではポールポジションを獲得し、3位となり初表彰台をゲッド。最終戦スペインではトップを快走した。トラブルで転倒となってしまうが、その力を示す。1994年には第2戦マレーシア、第3戦日本と3位表彰台、第11戦チェコでは2位となりランキング7位。1995年には第4戦ドイツ3位。最終戦カタルニアでは手を負傷しながらマシンを膝で抑え2位表彰台へと駆け上がりランキング5位へと躍進する。開発の責務を抱えながらの戦いだった。ホンダとは3年の約束だった。そして4年目、伊藤はWGPに留まることを決め、市販を前提に開発されたマシンで挑み、ランキング12位で世界の戦いを終えた。

伊藤真一と言えばスズカ8耐のイメージが強い。実に23回もの出場を誇り、優勝は4回。初めて優勝したのが、1997年。ホリプロ・ホンダwith HARTからエントリーし、宇川徹とのコンビで、マシンはRVF/RC45だった。

だが、さらに伊藤の凄みが発揮されたのは、1997年の帰国後だったように思う。
ホンダからの依頼は「鈴鹿8耐制覇」だった。8耐の結果がバイクの販売に影響することもあり、鈴鹿8耐勝利は世界チャンピオンに匹敵すると言われていた。伊藤は新たな挑戦を開始した。宇川徹と組み日本人ペア初優勝を成し遂げる(大雨によって時間短縮され6時間耐久となった1982年大会を除いて)。1998年にも宇川と2連覇を成し遂げ、海外勢に頼っていた鈴鹿8耐勝利を、実力ある日本人なら可能であることを示した。この年、全日本でもタイトルを得て、その力がトップクラスにあることを知らしめた。

翌1998年も、宇川徹と組み連続優勝(ラッキーストライク・ホンダ)した。外国人ライダーに頼ることの多くなっていた8耐で、日本人ペアが2連勝を飾ったのだ。

2000年を限りにライダーとしてのホンダとの契約が切れたが、伊藤は開発ライダーとして、MotoGPマシンを手掛ける。2002年MotoGP元年、伊藤はワイルドカードで日本GP参戦4位を得ている。MotoGPに乗り出すことを決めたブリヂストンタイヤの開発にも尽力、小原メカと働き、ライダーから求められるタイヤ開発を成し遂げ、ブリヂストンタイヤワンメークというWGPの歴史的出来事を影で支えたのだった。(後編へ続く)

2002年、ワイルドカードでMotoGP第1戦の日本GPを走り、4位を獲得した。

 


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2020/10/12掲載