アジアロードレース選手権(ARRC)は、開幕戦となったマレーシアは開催されたが、それ以降のレースは新型コロナウィルスの影響で開催延期となっている。6月開催予定だった第3戦日本も延期となり、現状、9月27日の第6戦マレーシアが予定されている。
昨年の鈴鹿大会で、カワサキの藤原克昭から「カワサキモータースタイランド レーシングチームマネージャー&マーケッティング開発ヘッドセールス&マーケッティング部門」と書かれた名刺を受け取った。
「これまでのすべてのキャリアは、カワサキにとっての宝だ、それをカワサキのために生かして欲しい。そして社員として活躍して欲しい」
そうカワサキから求められた、と藤原は教えてくれた。これまでもチームマネジャーとして手腕を奮って来たが、より役割が増え、大きな視点でレース界を見つめることになった藤原と鈴鹿での再会を楽しみにしていた。
藤原はバイクブームの到来と共にキャリアを積んだ。1983年、ヤマハの平忠彦が、資生堂のCMに起用され、角川映画の「汚れた英雄」の主人公の吹き替えを務め、バイクが一気に市民権を得て世の中に浸透していく。
その追い風の中で、山口県下関で生まれた藤原は、バイク好きの父親の元で、’83年にポケバイに乗り始め91戦88勝と快進撃を続けた。’87年からミニバイクにステップアップし、ここでも201戦191勝を飾り、’89年~’90年とミニバイク耐久チャンピオンに輝き全国区の知名度を得る。’91年からロードレースへとステップアップ、’92年には新人ライダーの登竜門と言われた鈴鹿4時間耐久で優勝を飾る。
’93年には全日本に昇格しGP250参戦を開始するが、プライベートライダーとして苦渋を舐めランキング18位。’94年にはチャンスが来なければレースを諦めようと挑み、市販マシンでワークスを追い回す走りでランキング3位へと急浮上。その走りが認められカワサキワークス入りを果たす。
’95年藤原は250からスーパーバイクへとスイッチ。全日本最高峰開幕戦の菅生、2レース目でルーキー藤原は優勝を飾るのだ。誰もが藤原の才能を目の当たりにし、驚愕した勝利を藤原は「ライダー人生、最も嬉しい勝利」と語った。この年、ランキング3位となりトップライダーへと駆け上がる。このシーズンつけていたゼッケ37番が、藤原の定番ナンバーとなり、藤原を鼓舞し続けることになる。鈴鹿8耐でも3位表彰台へと躍進した。
’96年世界への夢を賭けてスズキに移籍、スポット参戦したロードレース世界選手権(WGP)GP500クラス 日本GPでは世界の強豪を抑え、スタートから数周ではあるがトップを快走する。’97年全日本ランキング2位の活躍を経て、念願のWGP参戦をつかんだのは’98年だったが、ケガで結果が残らず。’99年からロードレース世界選手権(SBK)へとスイッチ。
2001年からスーパーバイクからスーパースポーツ600(WSS)参戦。’03年の鈴鹿8耐では、優勝目前のトラブルという悲劇で、ファンの心に刻まれることになる。’05年にはWSS開幕戦カタールで、最後尾から怒濤の追い上げ優勝として劇的な勝利を飾る。鈴鹿8耐でも2位となった。’09年までWSSでトップ争いを繰り広げ、欧州で13年の長きに渡りスリリングでドラマチックな戦いを続けた。
その藤原に転機が訪れたのが’11年だった。古巣のカワサキから、アジア圏での戦いへの誘いを受けた。バイクブームは日本からアジアへと移っており、メーカーの注目はアジアへと注がれていた。だが、アジアのレースは、未開の地を切り開くことに似ており、サーキットの安全性、オフィシャルの動き、医療体制などが整っているとは言いがたかった。ライダーたちのレベルも、どこに位置しているのか……。トップライダーの藤原が参戦すべき場所なのか、誰もが猜疑的な目で見ていた。
だが、藤原は「求められた仕事をするだけ」とアジアに赴く。荒れた路面を攻め、圧倒的存在感を示してチャンピオンに輝く。
アジアロードレース選手権(ARRC)は、SNSや映像に力を入れており、マレーシア、インドネシア、中国、台湾、カタールなど、アジア全土にレース映像が流れた。金髪にサングラスの藤原が、ポールポジショングリッドで、ハンドルに足を乗せ、スタートを待つ。表彰台の真ん中で大きな日の丸国旗を巻き、天を仰ぐ。その藤原に憧れ、アジアを走るライダーたちは、自国の国旗を巻き表彰台へ登り、サングラスも髪型も藤原の真似をした。藤原は、一気にアジアのスターライダーへと駆け上がり、レースブームを牽引する。ホンダもヤマハもスズキも藤原の後を追うようにARRCに実力ある日本人ライダーを送り込み、ARRCは激戦区へと変貌。貪欲なアジア圏の人たちは、日本人ライダーやメカニックから多くを学び、急成長を見せて行くのだ。その中心に常に藤原がいた。
まだ、トップライダーとしてタイトル争いをする実力をもちながら、’14年限りで引退。アジアのチームをまとめることになる。アジア人ライダーのチャンピオンを送り出す側へと変わった。’15年にはアジアと全日本のカワサキチームのアドバイザー兼レーシングコーチと多忙な日々を送る。
’17年のARRC最終戦は、タイのチャーン・インターナショナル・サーキットで開催された。ランキング争いはザクワン・ザイディ(ホンダ・マレーシア)がトップ、4ポイント(P)差で伊藤勇樹(ヤマハ)と羽田太河(ホンダ)で同率2位、4位にアズラン・シャー・カマルザマン(カワサキ・マレーシア)が10P差でつけていた。ARRCは、2レース開催のため、両レース勝てば50P加算される。
藤原は「10P差なんて、ないようなもの」と逆転チャンピオンを狙った。だが、10P差は、歴然とした差で、上位にいる3人の力量を考えれば、この差を覆すのは難しい。さらに、ワイルドカード参戦の地元ライダーが上位へ食い込み、タイトル争いを予測不能にしていた。だが、藤原は参戦するカワサキを駆るチームを回り、アズランがタイトルを取ることが、カワサキにとって、アジアのレースにとって重要であることを伝えた。自己主張の強いアジアライダーたちを根気よく説得し、オールカワサキとして戦う心構えを浸透させているのだ。
レース1でアズランが5位、羽田が9位、ザクワンが10位、伊藤は転倒してしまう。タイトルへの重圧が、その主役たちに襲いかかり、本来の力を封印してしまう、その中で、アズランは追い風を受けるように浮上して行くのだ。ランキングトップはザイディ、2位に羽田で、その差は3P。3位はアズランとなり5P差、4位伊藤で10P差と変化。レース2で、アズランは渾身の走りを見せ3位に入り、ザクワン7位、羽田8位、伊藤は9位でアズランの劇的なタイトル決定となった。
アズランは「信じられない」と歓喜し表彰台へと登り、その傍らに藤原の姿があった。アズランは藤原に感謝の言葉を伝えている。アズランのチャンピオンの喜びはカワサキを駆る、すべてのライダー、携わるスタッフへと広がる最高のチャンピオン決定となった。藤原の手腕が遺憾なく発揮された。
’19年から正式にタイカワサキの社員となった藤原はタイへと赴く。バンコックにあるオフィスに午前8時前には出社。様々な会議をこなし、パソコンと向き合う。ライダー時代ともレースアドバイザー時代とも違う生活となった。
「学ぶことばかり」と向き合っている。年4回行われるモーターショーを始め、アジアの各国内のレースも管轄、エンデューロや、カワサキのワンメークレースを含め、20戦のレースを見る。パーツ管理やライダー契約と多忙を極める。
この年、鈴鹿8耐ではカワサキは勝ちを狙いワークスチームとして参戦する戦いとなり、SBKのギム・ロダ監督を呼び、ライダーはSBKの絶対王者ジョナサン・レイ(イギリス)を筆頭にレオン・ハスラム(イギリス)、トプラック・ラズガットリグル(トルコ)を擁した。藤原は助監督として、SBKチームと日本のスタッフを繋ぎ、きめ細やかな対応でライダーたちをサポートし続けた。そして、カワサキは首位を走った。だが、白煙を出したマシンが映し出され、大粒の雨が落ち、赤旗が提示された直後、ラスト1分半でジョナサンが暗闇の中で転倒してしまう。優勝はヤマハ、とアナウンスされた。たが、赤旗の1周前の順位が適応され、カワサキにとって26年ぶりの勝利達成となった。
藤原は鈴鹿サーキットに掛け合い表彰台に登る承諾を得る。この時、鈴鹿から2本のシャンパンを手渡された。鈴鹿8耐のチェッカーは午後7時30分、カワサキの表彰台が実現したのは11時過ぎだった。スタッフ全員が表彰台に登り、1本のシャンパンを開けた。そして残った1本のシャンパンを藤原はギム監督に渡すが、ギムは「これは藤原のもの」と藤原に預けた。ライダーたちも異存がなく、そのシャンパンを持った藤原と、笑顔のライダーたちとの記念写真が残っている。
「ライダーとして2位、3位を経験し表彰台に登ったけど、現役以上の喜びがあった。関わったすべての人たちの勝利だった」
’19年にARRCは、アジアスーパーバイク(ASB)1000が600に変わって最高峰として始まった。カワサキは、ティティポン・ワロコーン(タイ)を送り込んだ。開幕戦を両レースで2位に入るが、SBKにスポット参戦し大けがで3戦をキャンセル。それでも、復帰2戦目には2位に入り、ランキング6位でシーズンを終える。今季は、ティティポンに加え、岩戸京介を加えての戦いとなる。開幕戦となったマレーシア、セパンはティティポンが9位&5位、岩戸は10位&7位と、思うような結果は残っていないが、ここからの巻き返しに注目が集まっている。ティティポンが、SBKのワイルドカード参戦するなど、アジアから世界へと夢を繋げてる。
AP250は、藤原の管轄を今年は離れたが、昨年はムハマド・ファドリがタイトルを獲得、今季もファドリと藤原がチャンスを与えた井吉亜衣稀がカワサキを駆り、引き続き参戦している。開幕戦では井吉が連続2位を獲得、ファドリはレース2で勝利している。また、いち早く、カワサキは鈴鹿8耐のワークス参戦継続を発表しており、新型コロナウィルスが終息し、レース再開が待たれている。
藤原は、勤務地のタイから日本に戻ることなく従事している。アジアのバイクの売り上げ拡大を目指しマーケティン会議を重ね、商品を開発し流通へと乗せている。
「バイク部門での売り上げがベースとなり、レースが出来ることにつながる」と真摯に仕事に向き合い、ライダーたちの夢を守るために奮闘し続けている。
(取材・文:佐藤洋美)
※追記:藤原は、飛び抜けた才能で誰もが望む以上のレースをし続け、間違いなく世界で活躍するライダーとしての資質を持ち合わせていた。藤原がいると、その場が華やぐ、持って生まれたスター性と才能で、早々にWGPデビューを掴んだ。だが、たった1度のクラッシュで、その場を奪われてしまう。SBKでも、その速さは誰もが認めていたが、2年でSS600へのスイッチとなる。海外チームに所属し、人種の壁、言葉の壁、足りないものばかりの戦いの中で、這い上がり、その力を示し続けた。
「レースはコンマの戦い、たった一つのミスで負けることもある。準備に準備を重ねても満足出来るレベルには届かない」と緻密なマシンセッティングのこだわりから開発能力の高さでも知られている。世界のトップを走れる逸材であり続けていたことは、鈴鹿8耐のトップを激走したことで示された。それでも、再びWGP、WSBのチャンスは巡ってこなかった。
藤原に「悔しかったでしょう」と聞いたら「悔し涙なら何千万回流したかわからない」と笑った。そして命じられたアジアで、その才能を示す。走りだけでなく、そのカリスマ性とパフォーマンスでアジアの人々の心を捉えた。藤原のアジアでの人気は想像以上に高い。サポート役となり、タイトルを引き寄せ、昨年の鈴鹿8耐勝利は藤原の存在なくてはなしえなかったものだと思う。
天才ライダーなのに、気使いが出来、サービス精神旺盛で、それは、私たち報道陣に対しても変わらずで、ファンが多い。そのすべてのキャリアを「宝だ」と言ったカワサキの心意気が嬉しい。その宝を武器にカワサキは、さらにファンを獲得して行くのだろうと思う。
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