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レース・イベント

Rest in Peace 埜口遥希
■文・写真:佐藤洋美 ■写真提供:ハルク・プロ、Showa Denki Group、大西としや




 埜口遥希のお別れ会が鈴鹿サーキットのホスピタリティラウンジで開かれた。オフシーズンに鈴鹿に出かけることはあまりなく、早朝に新幹線で名古屋、近鉄で白子駅まで移動し鈴鹿在住のライダーにお願いして一緒に鈴鹿サーキットへと向かった。
 受付で名前を書き、花一輪と写真集を受け取る。献花台があり、そこに花を置くと、後は自由に会場を歩く。この日のために編集された映像が流れていて、埜口選手を支えたスタッフ、切磋琢磨したライバルやライダー仲間がインタビューに答えていた。子供の頃から着用していたツナギが、成長に合わせて大きくなって行く。ヘルメットあり、埜口が駆ったバイク、獲得したトロフィーも美しく展示されていた。埜口へのメッセージを書いて入れるBOXも置かれていた。

 埜口が本格的なレースキャリアをスタートさせたのは56Racingの中野真矢(元MotoGPライダー、若手育成を掲げてレーシングチームを発足した)との出会いからだった。中野は「遥希が乗っていた時のバイクを再現して来ました。あの時のステッカーを同じように貼って準備してきた」と語った。
 この言葉が示すように、この会に関わった人たちは、懸命に埜口の足跡を示そうとしていた。受付や場内の準備などは埜口が育った近畿スポーツランドのスタッフたちが行い、埜口が所属していたSDG MS Harc-Pro. Honda. Phのスタッフはレーシングトラックにマシンを積み込み、鈴鹿へとやって来ていた。

 会場には、全国から集まったライダーたちの顔が見える。埜口が所属していたチームのライダーたちはもちろん、他チームのライダーたちも駆けつけていた。関東のライダーも関西のライダーも九州からのライダーたちも訪れていた。埜口は立命館大学の4年生だったので、同級生であろう若者の姿もあった。
 

 
 埜口は、ミニバイクレースをする父親の影響もあり、5歳からバイクに乗り始める。近畿スポーツランドを中心にレース活動を始め56Racingの中野と出会う。
「速いライダーがいると聞いて、その走りを見てほしいと言われました。その時は転倒しているんですよ。才能がわかったかと問われると困るけど勢いがあって面白いかなと……」と合格をもらい56Racingで走り始めた。
 その埜口の成長を見て来た中野はふり返る。
「ステップワーク、身体の動かし方、使い方が上手い。きっと速くなると思って見ていました。向上心の塊で、いつも僕の横について来て、どうしたらいいですか? と常に聞いてきた。もちろん失敗もあったけど、学んで成長して行った。遥希のレースは予選が悪くても、決勝では飛び出すといった予想外のレースをしてくれるので、ワクワクして楽しかったし、その活躍を見るのが嬉しかった」

 埜口はアジアタレントカップのオーディションに合格、2017年~18年に参戦してランキング2位を獲得している。2018年全日本ロードレース選手権第5戦筑波大会のJ-GP3に56Racingからスポット参戦してレース1では優勝、レース2は2位で表彰台に上がった。いきなりやって来て、あっさりと勝ち、その非凡な才能を示した。このレースは、埜口の中でも印象に残るもので「初参戦初優勝は思い出として残っている」と語っていた。
 

 
 この時、中野監督が埜口を紹介してくれたが、私はアジアタレントカップのコメントをSNSを通じて毎戦もらっていて「いつもありがとうございます」と話しかけたけど埜口は塩対応で、中野やチームスタッフに向ける笑顔とは違っていた。チームのみんなに祝福されて、飛び切りの笑顔を見せて、ちょっとはしゃいでいたのに、面識のない私には愛想がなかった。

 埜口は、2019年はレッドブル・ルーキーズカップでランキング3位を獲得している。現在、世界で活躍している佐々木歩夢や小椋藍に続き、2020年はMoto3参戦かとみられていたが、チャンスを掴んだのは他のライダーで、埜口は2020年帰国し全日本にハルク・プロからST600参戦、苦戦しているように見えた。世界で鍛えた走りは、危ないと囁かれてもいた。その攻撃的な走りが結果に結びつくのは、その後のシーズンになる。前年までレッドブル・ルーキーズカップでバトルをしていたペドロ・アコスタ(来季はMotoGP)ら、共に切磋琢磨していたライダーたちが、チャンスを掴み世界へ飛び出していた。内心は落胆や焦りがあるはずだと思った。

 当時、埜口はこう語っていた。
「もちろん、残念な気持ちはあります。でも彼らと同じくらい走れるとは思っているから自信は失ってない。現実は現実なので、それを受け入れるしかないです。悲観的になっているわけではなく、ハルクは名門チームで、ここに入ることを目指しているライダーもいる中で、自分が所属させてもらえることは幸運なこと。中野さんが、道を作ってくれ、本田重樹さんが受け入れてくれました。しっかりと結果を残すことを考え、世界への夢を諦めずにいたい」

 そして2021年はST600チャンピオンになった。
 

 
 2022年は新天地となるアジアロードレース選手権(ARRC)ASA1000へと参戦する。世界チャンピオンの青山博一や、現MotoGPライダーの中上貴晶らを育てたことで知られるハルク・プロの本田重樹が付きっ切りで埜口を支えた。スタッフもベテラン日本人で固め、現地スタッフも入れて補強して8名のメンバーが埜口をサポートしていた。
 アジアでは、ハルクが本格的に乗り込んで来たことで戦々恐々としていたはずだ。だがライダーは、全日本チャンピオンとはいえST600ライダーで、1000の経験はなく無名に近い。開幕前に充分なテストが出来ていたわけではなく、ぶっつけ本番に近い状態だった。

 開幕戦はタイのチャンサーキットで開催された。
「埜口? 彼は乗れるのか?」と関係者が見つめる中で、埜口はARRCのトップライダーと遜色のないタイムを記録、決勝でもトップ争いを見せるのだ。レース1で3位表彰台を獲得してしまう。レース2は勝利を狙い鬼門の最終コーナーで仕掛けてコースオフ、4位となった。
「あそこで行かなければ、確実に表彰台だったのに」と聞くと「失敗してしまったけど、勝てるチャンスだったんだから行かなきゃ。でも開幕からトップ争いが出来るとは思っていなかった」
 埜口は自分の力に驚いたように語っていた。

 Honda Asia Dream with SHOWA監督の玉田誠監督(元MotoGPライダー)は「勢いがあって良いね~。いいライダーがARRCに来てくれた。レギュラーライダーたちにとっても刺激になる」と埜口の走りを絶賛した。
 

 
 第2戦はマレーシア・セパンサーキットで行われ、レース1で2位。レース2では遂に初優勝を飾ってしまう。埜口は勢いに乗った。第3戦日本のスポーツランドSUGOではダブルウィンを飾り、ランキング首位に躍り出た。勝利した埜口を歓喜してスタッフが迎えた。日本ラウンドだったこともあり、多くの関係者が埜口を祝福に訪れた。埜口のことが大好きなチームのタイ人トラック運転手がヘルパーまでこなしていて、埜口の汗を拭こうとタオルを差し出し飲み物を持って表彰台からピットに帰る埜口を追い掛けた。アイドルを守るマネージャーのように埜口にまとわりついていた。「何者?」と聞くと「面白いでしょう」と埜口は笑顔を見せていた。埜口はARRCに溶け込み、チームスタッフに大事にされ、伸び伸びと自身の才能を発揮していた。

 SUGOの後には応援に来た家族と松島へ観光に出かけている。その時の写真を送ってくれた。松島と大きく書かれた看板の前で上機嫌の埜口の笑顔が輝いていた。

 第4戦マレーシア・セパンサーキット、レース1はマシントラブルで11位、レース2優勝でランキング首位キープしていた。

 ARRCは年間5戦のシリーズ戦で、決してレース数が多いわけではなくため、キャリアアップしようと埜口は全日本最終戦鈴鹿にワイルドカード参戦することになった。全日本第4戦、SUGOラウンドのST1000クラスにもワイルドカード参戦している。埜口は好調の國峰拓磨とトップ争いを繰り広げ、最終ラップの勝負所に周回遅れが絡んだこともあり勝負しきれずに僅差の2位となっている。
 この時のバトルを國峰は語った。
「お互いに海外のレースを経験しているから、イケイケのバトルが出来て最高に楽しかった」
 

 
 SUGOでのトップ争いを覚えているファンは鈴鹿での勝利を期待していた。しかし、その想いは砕かれる。走行開始早々に後続車に追突されるというアクシデントで、第6胸椎骨折で入院生活を強いられてしまう。

 埜口はARRC最終戦タイ・チャンインターナショナルサーキットでのレースは欠場となる。レース2は路面コンデションがウェットからドライと変わる難しい路面となりタイトル争いは混沌とする。埜口とタイトルを争うザクワン・ザイディの順位如何では、埜口は欠場のままチャンピオンの可能性があった。荒れたレースの中で、ザクワンの変動する順位を見つめることになる。5位でザクワンがチェッカーを受けるが、ポイント計算が追いつかず、ザクワンチームの玉田監督は「喜んでいいのか……と、タイムラグがあった」と振り返った。最終的にザクワンがタイトルを獲得、3ポイント差で埜口はランキング2位となった。
 ARRCデビューシーズンでランキング2位は評価されるものだが、チャンピオンの可能性が大きかっただけに、もらい事故でレース参戦出来ずに戦わずに逃したタイトルの悔しさだけが残った。埜口はケガの回復に努めてオフを過ごす。
 

 
 シーズンイン前に全日本テストに顔を出した埜口と会った。
「今年こそは、チャンピンを取って、世界に出るチャンスが来ると良いね」と聞いた。
「そんなに簡単に世界なんて行けないですよ。もちろん、目指している気持ちは変わらずにあるけど、そんなに楽天家ではないから……」と少し遠い目をした。
「まだ、ケガは痛む」と聞くと「痛いです。まだ完璧ではないけど、もう大丈夫としておいて下さい」と言った。

 2023年開幕戦タイ・チャンインターナショナルサーキット。レース1、2と勝利、ダブルウィンを飾る。2022年開幕戦で苦戦した最終コーナーを勝負所として攻めて、綺麗に立ち上がっていく埜口のライディングに思わずため息がもれた。しっかりとした成長を示して、今年こそタイトルを獲得してくれるのだろうと誰もが思ったはずだ。

 第2戦のマレーシア・セパンサーキットは4位&2位。悔しさを抱える。第3戦日本はスポーツランドSUGOで行われた。鮮やかな逆転を決めてポールポジションを獲得するが、レース1はウェットからドライへと変わる路面となり7位、レース2はリタイヤとなった。埜口は「ここから巻き返すしかない」と決意していた。
 

 
 その後、鈴鹿8時間耐久のレースウィークに突然の代役で鈴鹿8時間耐久に参戦することになる。大排気量クラスに参戦するようになり、鈴鹿8耐は挑戦したいレースだと語っていたが、ARRCチャンピオン獲得が至上命題であり、なかなかチームの許可が下りなかったが、代役として合流することになった。先輩である名越哲平、スペイン選手権の浦本修充と組んだ。埜口は初めての参戦で鈴鹿8耐名物のトップ10トライアルにも走行し、決勝でもチームを表彰台へと導く走りを見せ、そのポテンシャルを遺憾なく発揮し関係者を驚かせた。

「鈴鹿8耐では、良い経験をさせてもらいました。今は、ARRCに集中します」
 埜口は鈴鹿8耐の1週間後に開催されたARRC第4戦インドネシアのマンダリカサーキットへと向かった。
 このレースが終わった後にインタビューの約束をしていた。
 

 
 レース1を4位で終え、レース2の4周目に多重クラッシュが起きて埜口は病院へと運ばれた。レースは赤旗中断し再開されることはなかった。

 この日、ARRC SS600に参戦している南本宗一郎が初勝利を飾った。南本は埜口のトレーニング仲間であり、幼少期からの友人でもあった。
「多重クラッシュで転倒したライダーはチームメイトだったのですが、ピットで号泣していた。もうレースを辞めると叫んでいた。何が起きたのかわからなくて、ただただ心配だった。俺のアジアでの初優勝を喜んでほしかった。おめでとうって、言ってくれるはずなのに……。病院なんかに行っているんじゃないよ。何をやっているんだよって……」

 埜口の生還を祈る日々が始まった。だが、その願いは届くことなく8月16日に22歳の若さで埜口は逝った。その悲しい知らせを伝えるリリースに両親は、こう記している。
「5歳からオートバイに乗り始め、私たち家族に多くの感動と喜びを当ててくれました。今まで遥希を支え成長させてくれた多くの仲間やチーム、応援して頂いた皆様に感謝申し上げます」
 

 
 アジア各国のメディアは、埜口の悲報を大々的に伝えた。ARRCが生んだスター選手の死を悼んだ。
 X(旧Twitter)では、埜口遥希の名前がトレンド上位に記された。SNSで追悼コメントが多数上がった。全日本ロードレース2&4もてぎ戦で、埜口追悼の黙とうが行われた。ハルク・プロの本田光太郎代表は「まだ、受け止め切れていない。でも、レースをしないことを埜口は望んでいないと思い参戦を決めた」と語った。

 中野真矢監督の育成チーム・56Racingの先輩でもあり、チームメイトでもある名越哲平は「本当の兄弟のような付き合いだった。なんでも話し合って、相談しあって、本音で話せる大事な弟がいなくなったことを認めたくない。だから、SNSに発信できずにいる。何か伝えなれけばと思うけど、何も言えない」とうなだれた。埜口のステッカーが配られ、多くのライダーがそのステッカーをヘルメットやマシンに貼りレース参戦、追悼の気持ちを現した。

 埜口のお別れ会のために、撮影スタッフ、写真集作成のスタッフはARRC第5戦中国、珠海国際サーキットへと向かった。様々な人々へのインタビュー、取材が行われた。

 写真集を制作した川上滋人氏は言う。
「SDGの柏木社長からは、超絶カッコいいものを! ご両親が見て『自分の息子はこんなにカッコいいレーシングライダーだったんだ』と、ずっと思える本を作ってくれ、と言われました。多くのカメラマンの方々に協力を頂き、短い制作時間の中で最善を尽くしました」
 写真集は、来場者に配られ500冊があっと言う間になくなった。会場では映像が繰り返し流され、埜口の非凡さ、人間的な魅力を関わった人たちが語り続けた。
 

 
 SDG柏木社長はふり返る。
「埜口のレースはハラハラドキドキする。それは、見ている人全員が感じるものだと思う。私の妻は、日本GPに連れて行ってもレースに興味が沸かなかったのが、去年のARRC開幕戦に来てくれピットで一緒に観戦してから埜口のファンになった。レースに興味を持って応援してくれるようになった。そんなふうに、人を強く惹きつけるライダーだった。たくさんの人が埜口のファンになり、会社の名前をアジアでしっかりと広げてくれた。プロフェッショナルライダーとしての役割を果たしてくれていた」
 柏木社長は、埜口の夢であり、目標である「世界」への参戦に向け、本田監督と動き出していた。2024年はMoto2に参戦させるために、ヨーロッパに出かけてチームと交渉し、現実的に実現できるところまで話をまとめていた。
「その参戦費用が必要なくなったから……。どんなに費用がかかっても良いから、このお別れ会を、しっかりとやって、送りたいと思った」

 埜口の才能を信じてARRCを共に戦った本田重樹監督は無念さを抱えていた。
「中上貴晶は一度世界に出て、全日本に戻り、そこから再び世界に出た。埜口もリスタートしてほしいと願っていた。世界にもう一度、押し上げようとしていた。世界で活躍して諦めなければ願いが叶うことを示してほしかった。残念でならない」

 今季限りで引退を決めたチームメイトの榎戸は落胆を隠さない。
「遥希は、すごい負けず嫌いでしょう。俺の方が年上なのに、なんでも対抗してくる、レースでも、トレーニングでも絶対に負けないって……。そういうところは、本当に嫌いだったけど、だからすごく可愛い奴で、才能があって、速くて、すごいポテンシャルがあったのに……。なのに、いなくなってしまった」
 

 
 全日本の伊達悠太もトレーニング仲間であり仲の良い友人だった。
「自分も埜口選手と同じようにアジアタレントカップから世界から戻って来た。全日本で活躍することで、もう一度、世界に出るチャンスを探していて、同じ目標を持つ仲間として特別な存在だった。強いライダーだから、アクシデントがあっても戻って来てくれると信じていた」
 全日本の井手翔太は、埜口の死の後から、スマホ待ち受け画面やSNSのアイコンを埜口とのツーショット写真へと変えた。
「昔から仲が良くて、プライベートでもトレーニングでも一緒にいて、いい所も悪い所も知っているかけがえのない友達でした。彼の生き方をすごく尊敬していたし、誰よりも身近な目標でした。ロック画面にしたのは、あいつに勝ちたい、頑張ろうって気持ちをいつも思い出せるようしたいから……」
 夜行バスで関東からやってきた阿部恵斗は全日本とARRC参戦している。
「埜口選手は、尊敬するライダーで……。あの時、自分もインドネシアにいたけど……。亡くなってしまったことを、今でも信じられない。きっと誰も信じたくないと思っていると思う。本人も気が付いていないと思う」

 2024年Moto2の舞台で、かつて世界で切磋琢磨したライダーたちと戦う埜口の姿を見ることは出来ない。しかし、世界の扉はなかなか開かないと言っていた埜口が、その才能で扉をこじ開け、諦めなければ夢が叶うこと、掴み取れることを示してくれたことを忘れたくないと思った。

 彼は懸命にレースに挑み、勝利を求め続け、その姿に多くの人が歓喜した。
(文・写真:佐藤洋美、写真提供:ハルク・プロ、Showa Denki Group、大西としや)
 

 





2024/01/12掲載