―まずは、これで最後のレース、と決めたいきさつや理由を教えてください。
「理由? 歳以外の何もないでしょう(笑)。やっぱりね、悲しいかな身体が持たなくなってくるんですよ。トレーニングを重ねていろいろと努力はしてきたけれども、30代後半で一度、身体に変革期が起きるわけです。その後、40を超えると年々、『あれ……』『あれ?』『あれあれ……??』というのが大きくなってくる。気持ちはもちろん10代なんだけど、その頃と同じことをしているとトレーニングで身体を壊すんです。走るとか重いバーベルを持ちあげるとか、同じことをやると肉離れを起こしたり関節を傷めたりするわけですね。パフォーマンスを維持したいけれども維持できないという壁に当たり、40代も後半になってくるとさらに、昔の古傷も邪魔してくる。それを治すのにまた時間がかかったりもして、トレーニングをしようと思ったらトレーニングのベースを作るトレーニングをしてからトレーニングをする(笑)、みたいなね。
だから、2019年に『2020年で辞めよう』と思っていたんです。19年の8耐に出たときは、来年が最後、と決めていた。でも、20年のレースがなくなり21年がなくなり、その間に病気をしたりケガしたりということがあって、そこから復帰しても身体は正直だから、以前の力は出てこない。それをすごく実感しますね。耐久性はまだある程度あるとは思うけど、自分が望むほどタイムを上げられないのは自分がいちばんわかっている」
―8耐がなかったこの二年間に、中咽頭がんの治療や足の粉砕骨折も経験しましたが、その前からやめようと思っていた、ということですか。
「(8耐の参戦カテゴリーを)EWCからSSTにスイッチしても、結局は結果を求めたいんですよ。でも、自分は結果を求めているのに瞬発力には限界があって、タイムが出なくて上位にはいられない。だったらやはり、これ以上は難しいからレースはやめよう、と。2019年の8耐の前に、20年で辞めようと思っていたから、2カ年計画だったんです」
「正直なところ、40を過ぎた頃からいつ辞めてもおかしくなかったんですよ。でも、辞めるタイミングもないし、まだそこそこいけるかなあ、みたいな感触もあった。成績を求めるのではなく趣味としてレースをするのであれば、あと10年くらいはできると思う。それくらいの自信もあるし。でも、僕はオリンピックに出ることに意義があると考えるのではなくて、出る以上は成績を残したい、と考えるタイプなので、自分が成績を望んでいないのであれば身を退くべきだ、と考えていました。おそらく(現役を退く)すべての人に共通しているのは、辛いから続けられない、というのがやはりいちばんだと思いますね」
―それは肉体的に? 精神的に?
「この世界は成績を求めてやってきた人たちばかりだから、成績が出なくなったら精神的にすごく苦痛を感じると思う。オレはそんななかでもダラダラとやってきたほうだと思うけど、周囲の人々のおかげでなんとなくここまでやってこれちゃった、というのはありますよね」
―この質問は妥当かどうかわからないのですが、がんを克服して復帰してきたことは、引退の決意と何か関連していますか?
「正直なところ、克服というおこがましい気持ちは全然なくて、ちょっと辛い風邪をひいたようなものかな、くらいに今は思っているんですよ。でも、じっさいに誰かががんになったと聞くと……。整形外科は今まで何度も入院してきたけど、病棟が明るいんです。治るのがわかってるから。一方で、がん病棟の雰囲気は凄く重くて、もしかしたら治らないかもしれない人たちもそのなかには何分の一かいたりするかもしれない。そんな中で、いい意味でも悪い意味でも自分は前しか見ていなかった。医師のおかげでもういちど元気にバイクに乗ることができて、レースに出られているのは、本当に感謝しかないですね」
―そんな経験を経た宣篤選手がこうやって復活してきたのは、がんを経験した人や今まさに闘病している人たちには励みになりますね。
「直接の面識はないんですが、ある芸人さんがまったく同じ病気になったと聞きました。性格によってすごく落ち込む人も中にはいるかもしれないけれども、自分が克服してレースに出られているのは、人の励みになるのかどうかはともかくとしても、元気な姿を見せなきゃいけねえな、みたいに考えてすごくがんばっていた時期は、今思えばありますね」
―今から振り返ると、人生観が変わったと思うようなことはありましたか?
「(長考、沈黙)。人生観、ねえ……。今までずっと好きなことをやってきたけれども、もっと重い病気がいつ自分の身に起こるかもしれないと思うと、やりたいことはやっておいたほうがいいなと、あらためてすごく強く思ったかな。2ヶ月半入院していたときには、日に日に弱っていく人を目の当たりにしたし、自分自身も10kg痩せたんですよ」
―絞りに絞ったアスリートの体型で10kg痩せるというと……。
「筋肉しか落ちるところがなくて、みごとにすとんと落ちました。今はだいぶいいけれども、抗がん剤と放射線治療の副作用もあって、味覚がないんですよ。徐々に良くなってきているけど、甘みは今もない。砂糖を舐めても『ん?』って感じで、どんなにコーヒーに砂糖を入れても、甘さを全然感じない。いちばんは、唾液が出ないんです。喉のあたりを放射線で灼くので、その辺りの組織がぜんぶやられちゃうらしいですね。だから、5周くらい走ると口の中がカラカラになる。まさにハイドレーション命、です」
―それで8耐を走るのはたいへんですね。
「ハイドレーションで口が湿っていればOKですけどね」
―さきほど、「みなさんのおかげでここまでやってくることができた」とおっしゃいましたが、だいぶ昔に「青木三兄弟の中ではオレがいちばん才能がないと思っている」と言っていた記憶があります。現在はどう思っていますか。
「今でもそう思ってますよ。だって、成績を見れば一目瞭然で、治親は世界タイトルを2回獲っているし、拓磨も2回、全日本のチャンピオンになってWGP500でもいきなり表彰台だったしね。ということを考えれば、3人の中で才能ないのはオレだよなあ、と思っていて、『でも、お兄ちゃんだから負けちゃいけねえな』という気持ちもあった。下から突き上げられるプレッシャーは正直、ずっとありましたね」
―典型的な長男タイプかもしれない。
「ね。その当時は長男ってどういうタイプかよくわからなかったけど、今、自分が50歳になって思うのは、世の中の長男を見渡してみると、オレも長男タイプだなあ、と(笑)。派手なことはせず、いわれたことをコツコツしていく、というかんじだよね」
―では、その長い活動歴を振り返って、自分ではどの程度満足していますか。やり残したと思うことなどはありますか?
「やり残したこと、かあ……。ま、もうちょっと欲を言うなら、もう何回か表彰台に上がりたかったなあとか、できればチャンピオンを獲りたかったなあとか、思うことはあるけれどもね。
でも、グランプリを回っていた頃は哲ちゃん(原田哲也)と仲良くさせてもらっていて、その当時はそんなに思わなかったけど、今から考えれば哲ちゃんはやっぱり芯が強かった。もちろん自分も上へ上へと求めてきたつもりだけど、哲ちゃんは勝つことに対する貪欲さがもっと上だった。ではその貪欲さがあれば自分も勝てていたのか、というと、またそうではなかったりもするんですけどね。それまでのいろんなプロセスの積み重ねがあって準備もして、あそこまで行った人だから。自分にはそういうところが足りなかったのだろうし、じゃあその真似をすればできたのか、というとそうでもなかっただろうし。
その一方で、自分は500ccクラスでいいところを走れていた時間は長かったし、その意味ではがむしゃらに100%やってきたつもりです」
―もしも、過去に戻って一日だけやり直せるとすれば、どの日をやりなおしたいですか?
「やっぱり、スズキで一度は表彰台に立ちたかった。それだけは心残りですね」
―では、いい意味でも悪い意味でも印象に残っているレースをひとつずつ挙げるとすれば?
「そうだなあ……。拓磨と一緒に表彰台に上がったイモラ(1997年シティオブイモラGP)。それがいちばんのハイライトだと思います。いちばん最悪だったのは……、いっぱいありすぎるな(笑)。最近でいちばんの大失敗は、ケビンと辻本さんとのレジェンドチームだなあ」
―雨の8耐(2014年)。
「そうそう」
―左手を骨折して手術したとき。
「そうそう。あのときもね、正直言えばあのチーム構成でさえ、オレは勝とうとしていたんですよ。でも、冷静に考えれば、完走すればよかったんですよ」
―でも、ライダーなら走る以上は勝利を目指すものでしょう。
「そうだけど、その切り替えをオレはできないんだよね。今でもできない」
―宣篤選手の長いレースキャリアを振り返ると、それこそ全日本のカップヌードルホンダ時代からWGP250へ参戦してマレーシアでいきなり勝ち、500ccにはホンダで昇格。その後スズキに行って、プロトンKRへ移り、スズキのテストライダー、そして現在に至る、というじつに長いキャリアですが、自分のアイデンティティはどこにあると考えていますか?
「MotoGP関連だと、ホントにゼロから作り始めたものが三つあるんですよ。ケニーのところの5気筒(プロトンKR・4ストローク990ccマシン)、BSのMotoGPタイヤ、そしてスズキのGSX-RR。この三つだけはオレは本当に誇りに思うし、ゼロから作り上げていったことで、『こんなことやってるヤツは他には絶対にいない』というくらい、オートバイへの理解を突き詰めさせてもらうことにもなった。そのおかげで、バイクのいいところも悪いところもわかっちゃうようになったんだけど(笑)」
「んー……(長考)。スズキなのかなあ、やっぱり。GSV-Rの後半からGSX-RRへ変わる過渡期の3~4年は、非常に濃密な開発をさせてもらった。電子制御の草創期でフレームがどんどん変わっていく変革期でもあったし、それをピンピンの最先端でやらせてもらったので、スズキのエンジニアたちも大変だったと思うけど、毎週毎週良くなっていくプロセスはすごく愉しかったですね」
―プロトン時代はどうでしたか? あの頃はピットにいる時間が長くて、レースウィークという意味では苦しい辛い時間が多かったようにも見えました。しかし後から考えれば、すごく充実していた時間だったのではないかとも思います。
「たとえば日本のメーカーだと、バイクを作り、エンジンを設計していく過程で、最低半年から一年くらい時間をかけて耐久性やドライバビリティを確認していくじゃないですか。でも、プロトンKRの場合は、『できました!』『エンジン回りました!』で、ちっちゃい空港に行って、ばーって10往復くらいして『よーし、OKだあ』って。で、そのままルマンに持って行くから、『え、ホントに本番で走らしちゃうの……』みたいな。それでまともに走るわけがないんですよ(笑)。
今でも憶えているのは、今ならほとんどのバイクがそうかもしれないんですが、エンジンがツインインジェクターだったんですよ。下側にインジェクターがひとつあって、上側に高速回転側がある。プログラムを見ると、下が噴射している時間があって、次に上が噴く時間がある。でも、加速していくと途中でエンジンが一瞬、息をつくんです。『息をつくんだけど……』と言うと、『そんなことはない。上と下はスムーズにつながっているから、ギャップはない』とエンジニアは言うんだけど、でも走らせると実際に息をついている。
要はこういうことなんですよ。下のインジェクターが噴いています。で、理論的には切り替わって上が噴きます、と。でも、下が停まって次に上が噴くまでに、ふたつのインジェクターの1センチ分のタイムラグがあるんですよ。それが息をつく原因だったんですね。じゃあ、ということで下の噴射が停まって上が吹き始めるのをちょっとだけオーバーラップさせてみたら、すーっと息継ぎがなくスムーズにつながっていった。つまり、ごくわずかだけど、エンジンの中でガソリンが到達していないところがあったんですね。プログラム上では下のインジェクターから上のインジェクターへスムーズに切り替わっているんだけど、物理的にはガソリンがエンジン内に届いていなくて、その1センチ分のタイムラグが息をつく原因だった。そうやってひとつずつ突き止めていったんだけど、そういうときにはじめて、『そうなのか。インジェクターってふたつついてるんだ』とライダーは知るわけですよ(笑)。
僕らは感覚でしか症状を言わないんだけど、それをエンジニアにどう伝えるか次第で開発期間ってぐっと縮まるんですね。その経験が、スズキに行ったときの開発の肥やしにすごくなった。いかにエンジニア寄りの言葉で説明するか、コメントするかで、開発期間がぐっと詰まる。それがわかってきたときはすごく愉しかったですね」
―どうやって「ロストイントランスレーション」をなくすか、ということですね。
「そうなんですよ。スズキでは毎週竜洋でテストしていたんですが、乗ったままの『ライダー言葉』でコメントすると、その翻訳に時間がかかって、そこでタイムラグが生まれるわけです。だから、日曜にテストして月曜にすぐエンジニアたちが開発に着手できるように、タイムラグをなくすことがすごく重要になるんですよ。それを心がけると、エンジニアとのコミュニケーションや連携がすごくスムーズに行って、開発スピードがものすごく早くなりましたね」
―プロトン時代のチームメイトはジェレミー・マクウィリアムス氏でしたね。彼のインプレッションやレビューはどうだったんでしょうかね?
「彼は100%感覚の人。秋吉系というか。プロトンで4ストロークができたのはさっきも言ったとおり(シーズン開幕後の)ルマンで、それまで僕らは2スト500ccで走ってたんですよ。
『ルマンで(4ストローク990ccを)走らせるぞ』と言っていきなり走らせたけど、『やっぱダメだったから午後は2ストね』って言われて、『え?』って。次の日の土曜は、『とりあえず直したんで午前中は4ストに乗って』って言われてそれで走ると、『やっぱりダメだから午後は2ストに乗って』というような状況。普通だったらそんなのあり得ないですよ。でも、ジェレミーは2ストだろうが4ストだろうが関係なく走っちゃってたんです。だから、こっちも言い訳ができなくて、『何だよこれ……』って涙を流しながら走ってました(笑)。
だから、あの人は生粋のレーシングライダーです。セッティングもオレはチマチマ詰めていくほうだけど、ジェレミーは『ばん、ばん、ばーん』みたいな。しかも朝のウォームアップが終わってレースの前にピボットを変えちゃう、というようなことを平気でやってしまう人で、真似をするとだいたい痛いめにあうんですよ(笑)。『すごいなー……』と思う半面、でもチームメイトとしては負けちゃいられない。あの時期は、『考えるよりもタイムを出しに行け』という根性を凄く鍛えられた3年間でもありました」
「だから、ジェレミーですよ(笑)。他の誰よりも」
―子供の頃に憧れたライダーではなく……。
「子供の頃は平忠彦さんを見て『すごいなー』と思ったし、ワイン・ガードナーを見て『すげえ走りをするなあ、この人』と思いましたけれども、あの人たちみたいになりたいとは、じつは全然思わなかった」
―それにしても、青木宣篤選手の長い長い現役生活で、最も影響を受けた人物が他の誰でもなくジェレミー・マクウィリアムス氏、というのは意外ですね。
「(笑)。あとはやっぱり、同じ時代に走っていた岡田(忠之)さんと哲ちゃん。当時はあの2人しか自分の視野にいなかった」
―当時の全日本は、今の時代から考えられないようなピリピリした緊張関係だったようですね。
「そう。あのふたりに負けちゃいけないと思ってずっとやっていた。でも、後に哲ちゃんは世界チャンピオンになったし、岡田さんは年間ランキング2位まで行った。つまり、彼らは日本のロードレース史の最高峰にいるわけです。その人たちの背中にオレはついて行っちゃった」
―それにしても、自分が50歳までレースを続けると思っていましたか?
「思ってないですよ。だって自分たちの現役時代って、『この人、30歳なのにまだレースしてるよ』って言われるような時代でしたからね」
―当時の50歳よりも今の50歳のほうが若いですけどね。
「やっぱり、トレーニングが寿命を延ばしているんだと思います」
―現代のトレーニングは科学的になっていますからね。
「それまでは走るとか重いウェイトを持つくらいしか方法がなく、何が正解かもわからないまま言われたことをただやる、というようなトレーニングでした。けれども、いろんな世界のトレーニングを学んで取り入れると、身体能力はある程度落ちるものの、その落ち方がだいぶ緩やかになってきた、という印象はすごくありますね」
―スズキが今年限りでMotoGPと世界耐久選手権から撤退すると発表したことについては、どう受け止めましたか? スズキに長く貢献してきた青木宣篤選手としては、様々な思いがあると思うのですが。
「とにかく、本当に残念でしかたない。『スズキのレース活動とは、一部の役員の意志で決まってしまうような軽いものだったんですね』という毒を吐きたいくらいの気分です。今までスズキを一所懸命応援してきた人たちの気持ちに、泥をかけるようなことだと思うんですよ、この辞めかたは。MotoGPに憧れて、ヨシムラに憧れて、スズキのバイクを皆さんが買ってくださっていた。なのに、会社の数字的な都合で辞めるのは、本当に残念でしかたがないですね」
―スズキが長年のレース活動で培ってきた様々なあれこれは、財務情報に現れないかもしれませんが、だからこそこんなに貴重な財産はない、ともいえます。
「そうですね。レースって、費用対効果がいちばん見えにくいじゃないですか。たとえば、日本のマーケットだけを見れば、たしかに二輪は二輪、四輪は四輪、ということなのかもしれない。でもこれが一歩、日本から外に出れば、『これってMotoGPに出てる会社の車だろ?』と言われるわけですよ。なのに、辞めてしまったら、今後は他の様々なブランドと一緒になっちゃうわけです。ここから5年10年先くらいはまだ大丈夫でしょう。でも、そこから先はスズキのアイデンティティがまったくなくなってしまう。そうなったときは、苦しくなると思う。スズキを応援してくれる人たちは、『こんなに小さな規模でやっているのにホンダを倒せるんだ』というところに共感してくれていたわけですから」
―最後に、レース引退後の今後の活動について、簡単に教えてください。
「多くの人たちに、オートバイを愉しんでほしい。だから、キッズバイクを10年以上続けているんです。僕らくらいの年齢の人たちに、末永く安全にスーパースポーツを愉しんでもらうレッスンも、広めていきたい。サイドスタンドプロジェクトもそうだしミニバイクレースもそうだし、たくさんの人に末永く広くオートバイを愉しんでもらえるコンテンツを、これからも続けていきたいと思います」
日曜の決勝、第43回鈴鹿8時間耐久ロードレースでTERAMOTO@J-TRIP Racingは18位(SSTクラス4位)に入り、青木宣篤は現役最後のレースを終えた。