高山さんのバイク承前啓後 第64回 「50年続くモトクロスのホンダレッド物語 =モトクロスの祭典レッドホンダミーティングへの道=」
1976年1月に発売されたエルシノアCR125M-Ⅱが、Hondaの市販モトクロスマシンとして初めて全身にレッドを採用し、ここからモトクロスのレッドホンダがスタートしました。
このマシンのPRとして、同年1月に埼玉県のモトクロス場 セーフティパーク埼玉で開催。デモンストレーションレースにゲストとして招聘されたのが、アメリカンホンダ契約のマーティ・スミス選手でした。スミス選手は、このマシンで全米チャンピオンにふさわしいダイナミックな走りを披露しました。
当時の私は、本田技研の狭山工場に勤務していました。工場の壁新聞にはマーティ・スミス選手が来日することがPRされていました。狭山工場は、シビックの増産体制のため、デモ走行が行われる1月17日の土曜日は休日買上げで、私の有休申請は却下されました。憧れのスミス選手を見ることが叶わず、落胆した思い出があります。
マーティ・スミス選手は、同年から世界選手権125ccに挑戦することになります。
1977年11月、125ccに1年以上遅れましたが、全身レッドのエルシノアCR250Rが発売されました。このCRは、エンジンまでレッドに染められた衝撃的なカラーリングになりました。
1978年3月、モデルチェンジしたエルシノアCR125M-Ⅲが発売されました。カタログには「赤は自信だ。」のコピーがあります。1978年のモトクロスシーズンは、125cc、250ccともにレッドホンダのマシンが各地のレース場で見られました。
【世界選手権に挑戦】
1976年、Hondaは世界最高峰の500ccクラスへの挑戦を本格的に開始します。マシンは2ストロークエンジンを搭載したワークスマシンRC500です。アメリカでは、250と125で全米チャンピオンを獲得していましたが、500ccとなると未知の世界でした。当時は、スズキに乗るロジャー・デ・コスタ選手が圧倒的な強さを見せていました。
Hondaの500ccマシンは、苦戦続きの2シーズンを経て、1978年にはアメリカンホンダ契約のブラッド・ラッキー選手が4勝しランキング2位を獲得。若きグラハム・ノイス選手とアンドレ・マラーベ選手も上位に食い込むなど、マシン、ライダーともにチャンピオンに手が届く位置まで達してきました。
一方、1978年の日本では、思うような戦績を残すことができず、CRをベースとした無限製のマシンを駆る鈴木秀明選手が、セニア125と250でともにランキング6位がHonda勢最上位でした。ヤマハが圧倒的な強さで両クラスを制したシーズンとなりました。
市販モトクロスマシンでは、11月にフロントに23インチ大径タイヤを採用したCR125Rを発売。CR250Rは、前年モデルのエンジン出力特性を高めて戦闘力の向上を図りました。
【1979年 勝利の体制を固めレッドホンダミーティングを開催】
1979年、Hondaのモトクロス活動は、国内、海外ともに頂点を目指した体制を整えていきます。
国内レースでは、前年ヤマハで125ccのチャンピオンを獲得した瀬尾勝彦選手、同2位の杉尾良文選手がHonda陣営に加入しました。
世界選手権500ccには、伸び盛りのグラハム・ノイス、アンドレ・マラーベ両選手でチャンピオンを目指す体制を整えました。
この意欲的なシーズンを沢山のファンに知ってもらい、Hondaファンの拡大を目指したイベントが「レッドホンダミーティング」と名付けたモトクロスの祭典で、Hondaを代表するモトクロスライダーによる、一大デモンストレーションレースです。会場は、埼玉県桶川市のセーフティパーク埼玉。入場料は無料で開催しました。
主催は、本田技研のモーターレクリエーション推進本部。私は本部の要員としてホンダの各事業所を回って集客に努めました。入場無料といっても、Hondaライダーのみの参加ですから、一抹の不安はありました。
招待ライダーは、海外勢のノイス選手、マラーベ選手を含め、総勢26名のHondaライダーによるワンメイクのデモンストレーションレースです。好天に恵まれた2月11日、会場には予想を上回る12,000名の観客が来場しました。当時のモトクロス人気がうかがえます。CR250Rによって行われたメインイベントのデモレースでは、グラハム・ノイス選手が優勝し、世界の実力を日本のモトクロスファンの前で披露しました。
【1979年 Honda初の500ccタイトルを獲得】
第1回目のレッドホンダミーティングが盛況に開催された1979年シーズンは、世界選手権500ccクラスにおいて、グラハム・ノイス選手がチャンピオンを獲得。Hondaの世界頂点を目指した活動は、デビューから4年目で目的を達成することになりました。
【第2回目のレッドホンダミーティングは2会場で開催】
1980年の第2回目となるレッドホンダミーティングは、セーフティパーク埼玉と鈴鹿サーキットの2会場で開催されました。2会場合わせて40,000人のファンが駆けつけてくれました。
ビッグニュースは、モトクロスの神様と呼ばれ、500ccクラスで5回のチャンピオンを獲得したロジャー・デ・コスタ選手がHonda陣営に新加入したことでした。前年チャンピオンのノイス選手は都合により来日できませんでしたが、新進気鋭のマラーベ選手とデ・コスタ選手という超豪華メンバーが参加してくれたのです。
日本ライダーは、このシーズンから福本敏夫選手が新たに加わり、レッドホンダミーティングでファンとの交流を深めました。
世界選手権500ccクラスは、デ・コスタ選手の加入により、より強固な体制になりました。
HondaのRC500は、1979年、1980年と2年連続してライダーとメーカーチャンピオンを獲得するなど、圧倒的な強さを発揮しました。
【1980年のHondaは技術革新を実行】
1973年、ヤマハはモノショックタイプのモノクロスサスペンションをワークスマシンに採用し、世界チャンピオンを獲得。そのサスペンションは、「空飛ぶサスペンション」とも呼ばれ、特にジャンプの着地で優れた衝撃吸収性を発揮したのです。モトクロスで勝つためには、このモノクロスサスペンションに匹敵する技術を確立する必要がありました。
苦難の研究開発を経て、1979年の全日本選手権最終戦にRC250Mにモノショックタイプのプロリンクサスペンションを搭載し参戦しました。250ccクラスでは鈴木秀明選手のライディングによりヒート1で優勝し、高いポテンシャルを実証しました。
翌年の1980年シーズンは、このプロリンクサスペンションを搭載した水冷エンジンのRC250Mが杉尾良文選手によってチャンピオンを獲得。RC125Mは、福本敏夫選手がランキング2位を獲得するなど、性能の高さを証明しました。
そして、ワークスマシンに採用した水冷エンジンとプロリンクサスペンションの先進技術を市販車にも投入し、来る1981年シーズンに向けて万全の体制を築きました。
プロリンクサスペンションの投入などによって、モトクロスの人気はますます高まっていきます。
1981年の第3回レッドホンダミーティングは、これまで以上の盛り上がりをみせる大会となりました。
次回は、1981年シーズンのレッドホンダ旋風を紹介いたします。
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