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清成龍一は、レース以外に向き合うべきものがないということがようやく分かった。
「負けたら自分のせいだし、転倒も自分のせい、絶対言い訳しない」と誓った。
このままでいいとは思っていないのは自分だったことに気がつく。やっとレースに向き合う覚悟が出来た。だが2002年、シーズン前のテストで転倒し負傷した。開幕戦は、入院先の病院からサーキットへ向かった。そして──。

■文・佐藤洋美 ■写真:赤松 孝
■写真協力:清成龍一、チーム高武

■2002-ST600チャンピオン

 2002年最初の鈴鹿テストで、清成は見事に吹っ飛んでいる。
「3周くらいで転倒しました。重いし、エンジンブレーキも強いしで乗れずにバイクをぐちゃぐちゃにしてしまい、ケガまでしてしまいました。以前の自分だったら、もう辞めたいと思ったと思いますが、でもこの時は乗れるものは何でも乗って、自分が納得するまで、ちゃんとやらなきゃという気持ちでした」
 今までとは違う清成は復帰を目指す。
 鎖骨を骨折して、そのまま鈴鹿で手術をして入院した。意気込んでいた思いを砕くように、入院生活を強いられた。
「でも、この時間も良かったのかなと思っています。ずっと一人で考えて、気持ちを変えたくらいじゃ速くなるわけない。そんなに甘くない。もっと、生活に磨きをかけなきゃダメだと思いました。トレーニング量を増やすこと、身体作りのための食事を考えるようになりました。レース映像を見る時間を増やして、ただ鑑賞するだけではなく、ライディングのヒントを探すようになりました、自分で納得するまで諦めては駄目だって考えるようになりました」
 そこで気が付いたこと、やろうと思ったことをやり続ける。この時、清成の“核”が出来た。

#清成龍一
#清成龍一
2002年シーズンを共に戦ったTeam高武のメンバー達。

 開幕まで病院で過ごし、病院から開幕戦CP MINE スーパーバイクレースが行われるMINEサーキットに向かった。癒えぬ身体でST600クラス予選に挑み、ポールポジションタイムを叩き出す。その勢いのまま、決勝でも勝った。
「もう頭が真っ白ですよ。夢中で走って奇跡のポールが取れて、決勝でもバトルして勝てた」
 勝利の喜びを清成は初めて知る。
 続く筑波も勝ち2連勝。鈴鹿は2位、オートポリス、ツインリンクもてぎと連勝して、スポーツランドSUGOで4位に入りチャンピオンを決めた。2戦を残しての圧倒的な勝利だった。

 250ccクラスの途中からメカニックを務めた児浪もまた、右も左も分からない新人だった。
「250の時は、よく転んでいました。600に上がっての初戦、自分はまだ何もわかっていなくて、セッティングも出来ず、整備してタイヤを変えて、ガソリンを入れるって感じだった。清成は“自分で何とかします”って、自分で考えて走りを合わせていた。中古タイヤでグルグル回って最後にタイムを出す。開幕のMINEもそんな感じで、ポールタイムを出して勝ってくれた。シーズン途中でチャンピオンが決まり、嬉しかったです。出来ないながらも懸命に挑んだ新米のメカニックに優勝の喜びを清成が教えてくれたんです。このシーズンがあるから、清成がいたから、今もメカニックの仕事を続けていると思う」
 清成も児浪も若くイケメンで、彼らを目当てに女性ファンが急増しファンクラブが出来た。黄色い声援を集め、スター誕生の予感がしていた。

#清成龍一
シーズン前のテストではあれほど苦しみ転倒負傷までしたが、本番が始まると見違えるような圧倒的走りをみせ、ST600クラスでチャンピオンとなった。

 全日本ロードレース選手権の最高クラスはスーパーバイク(SB)、JSB1000、S-NK、プロトタイプ(PT)が混走していた。プロトタイプは開発車でスズキの加賀山就臣がMotoGPマシンGSV-Rを駆った。SBはヤマハYZF-R7を吉川和多留と辻村 猛をが駆る。スズキGSX-R750の渡辺 篤、ホンダVTR1000SPWの玉田 誠らワークスライダーが参戦していた。清成は市販マシンのCBR954RRで西日本のレースに参戦していた。序盤は転倒があり、思うような結果は残らなかった。
 だが、第8戦TI(現・岡山国際サーキット)で清成は時の人となる。

 決勝スタート前には雨足が強くなり完全にウェットコンディション。好スタートを見せたのは芹沢太麻樹(ヨシムラ/PT)だったが、1コーナーからの切り返しで清成(ホンダ/JSB)がトップに立つと、そのままリードを広げていく。JSB1000クラスのマシンがトップを走るのはこれが初めてだった。清成は同じくウェットコンディションとなった予選2回目でもトップタイムをマークし雨の速さは秀でていた。
 その速さは決勝でも変わらない。清成はオープニングラップをトップで戻ってくると、1周につき1秒から2秒もの差をつけ独走体制を築いていく。2番手には唯一MotoGPマシンを駆る加賀山就臣(スズキ/PT)がつけるが、清成との差は開いて行く。3番手に玉田 誠(ホンダ/SB)がつけ、芹沢、武田雄一(ホンダ/SB)、北川圭一(スズキ/PT)、吉川和多留(ヤマハ/SB)、山口辰也(ホンダ/JSB)と続く。
 トップを走る清成は、まさに別次元の走りを見せ独走でチェッカーフラッグを受け、全日本スーパーバイククラスで初優勝を飾った。もちろんJSB1000クラスのライダーがトップでゴールしたのは初めてのことだ。このマシンを開発したHondaスタッフは雨に濡れるのも構わずにチェッカー後の清成の元に駆け寄り驚喜した。2番手でゴールした加賀山に52秒252もの差をつける圧勝だった。3位に玉田が入りチェッカーを受けた。
 この劇的な勝利は、多くの関係者が「清成と言えば」と、このレースを上げる。

#清成龍一
全日本ロードレース選手権第8戦TIスーパーバイクレースにエントリー。スズキのMotoGPマシンGSV-Rを駆る加賀山就臣、ヤマハからはYZF-R7の吉川和多留と辻村 猛。スズキGSX-R750の渡辺 篤、ホンダVTR1000SPWの玉田 誠らワークスライダーが参戦していた。その中に市販マシンCBR954RRに乗る清成龍一がいた。
#清成龍一
決勝は雨のウエットコンディション。いくら雨が得意とは言え、オープニングラップをトップで戻って来た。その後は周回毎に1〜2秒の差をつけ独走となった。ワークスがしのぎを削るクラスでJSB1000クラスのマシンとライダーがトップでゴールした。チームメンバーは雨の中、歓喜した。

 加賀山も絶賛する。
「清成は、玉田が可愛がっていて連れまわしていたけど、無口で大人しい子という印象。その子にMotoGPマシンに乗ったバリバリのワークスライダーの自分が1分近く差をつけられた。ホンダワークスの玉田、ヤマハファクトリーの吉川を押さえた。普通、最高峰クラスで入賞もしたことのない奴が、レースを引っ張って、ぶっちぎるってなんて出来ない。速さがあったとしてもメンタルが追いつかない、トップに出て5秒も差をつけたら、後ろを振り返ってペースを考えてしまう。最後まで新人は引っ張れず、精神的に崩れて行く。だが、清成は振り向かなかった。後ろとの差じゃなくて、自分と戦っていたのだと思う。自分と戦えるライダーなんだな。メンタルの強い子なんだなと思った」
 もちろん玉田もこのレースは印象的に覚えていて「俺、キヨに負けたんだよ」と自嘲気味に語った。
 表彰台の真ん中に優勝した清成、2位加賀山、3位玉田が並んだ。
 清成が振り返る。
「宝くじが当たったような優勝。2番手以下にものすごい差があったから、嘘だろうって……。皆も、まさかって思っていたんじゃないかな。完走したのはこのレースだけで、他のJSB1000のレースは木端微塵だった」
 打ち上げ花火のような鮮やかな優勝だったが、清成の中に芽生えた勝利への強い思いは、彼を押し上げて行く。
「勝ちたい、それしかなかった。だからサーキットでは、怖い顔をしていたと思う。周りに舐められたくなくて、グリッドでも不愛想でした。今、思うとめちゃくちゃ恥ずかしいんですけど」

#清成龍一
「宝くじに当たったような優勝」と清成は言うが、この勝利で勝つ事への強い思いが芽生えたのかもしれない。
#清成龍一
MotoGPマシンに乗る加賀山就臣、ワークスライダーの玉田 誠を従えての完全な勝利だった。

 最終戦鈴鹿はスタート直後に転倒、そこで出たオイルにタイトル争いをしていた玉田がのって転倒してしまう。
「玉田さんがチャンピオンになれなかったのは僕のせいです。でも、そこを走っていた玉田さんもダメですよね……」
 この年、ST600クラスチャンピオンに輝き、SB/JSB1000/S-NK/ Prototypeの総合ランキングはTIだけの優勝で12位となり、シーズンを終えた。

■2003 WGPへ

 Team高武の先輩である加藤大治郎は、2001年ロードレース世界選手権(WGP)GP250チャンピオンとなり、2002年にはMotoGP参戦しルーキーオブザイヤーを獲得。2003年はホンダRC211V(テレフォニカ・モビスター・ホンダ)を駆りMotoGPタイトルを狙うライダーとして注目を集めていた。世界最高峰クラスのチャンピオン獲得となるのではと期待される逸材だった。
 だが4月、桜満開の日本GPのアクシデントで病院に運ばれ生死を彷徨い、帰らぬ人となる。
 世界中のレースファンが大治郎の生還を願っている時、加藤のメカニックとしてWGPに帯同していた柳本が「日本人で加藤の代役を務められる若手ライダーはいないか?」とチームマネージャーから問われた。
「若手なら清成龍一というライダーがいるが、国際レースの経験がない」

 代役を務めるためには、国際レースの実績が必要だった。清成はスポーツランドSUGOで開催されたスーパースポーツ世界選手権にCBR600RRを駆りスポット参戦の計画があった。
 事前に行われたメーカーテストでは非公式だがレコードタイムを記録し、ロングランも出来て、本番への手応えは大きかった。だが開発マシンであったことで、本番にはテスト同様のマシンは届かず、用意されたマシンはフィーリングが大きく変わった。予選で転倒があり13番手、4列目グリッドとなる。Team Alstare Suzukiの藤原克昭(GSX-R600)がPPを獲得する。
「ライバルとは口を利かないとルールを決めていたので、藤原さんとも口を利かなかった。でも僕が転倒して医務室に運ばれる時に“大丈夫?”って声をかけてくれて……、めちゃくちゃ優しくていい人で“大丈夫です”って答えてしまった」
 決勝では追い上げた清成が序盤からレースをリードするが、最終ラップでクルスチャン・ケスナー(ヤマハYZF-R6)が逆転し優勝、2位に清成。3位にステファン・シャンボン(スズキGSX-R600)が入った。清成は勝てなかった悔しさを抱えて表彰台に登った。この時は、この結果が自分の運命を大きく変えることになるなど考えもしなかった。
 柳本は断言する。
「世界選手権での実績が出来たことで、代役の条件をクリアして、清成は大治郎の代役としてMotoGPに行くことになった。チーム高武としてプッシュしたとか、自分が推したということではなかった」

#清成龍一

 運命の悪戯か、宿命か──、清成は最高峰MotoGPへと向かうことになるのだ。
 清成はWSS参戦の翌日に高武社長から呼ばれる。
「MotoGPに出ないか?」と聞かれる。
 清成は、何を言っているのか理解できなかった。
「加藤大治郎さんの代役、MotoGPに自分が……。突然過ぎて“うそぉだろ”って驚きました。ライダーにとってMotoGPは、究極の目標じゃないですか? そこを皆が目指している。この話を聞いてから2日くらいは、眠れなかった。高武の外階段に座って、ロッシに勝ったらどうしようって……。妄想が膨らみすぎて、妄想が妄想を呼んでどうにかなりそうでした。ST600のチャンピオンになって、JSBで勝って、WSSで2位になって、もうそれだけで、大興奮なのに、今度はMotoGPって……。でも、気持ちは決まっていました。絶対に行くと……」

 柳本も背中を押した。とにかく「行く」と答えろと……。
 行くことは決まったが、清成はパスポートの用意がなく、申請には時間がかかると大問題になる。だが役所の申請係の人がレースを理解してくれ、迅速に対応してくれたことで、欧州へと向かうことが出来た。柳本はPCを購入し、清成にメールのやり方を教えて、これで連絡が取れるから渡した。
 飛行機に乗ろうとしたら、荷物が重量オーバーで、ついて来てくれた柳本がスーツケースを空けて「これもこれも、いらないだろ。帰ったら返す」と重量調整してくれた。本人は「絶対、嘘、捨てられる」と思ったと笑う。そして渡されたのは、大治郎が使っていたイタリア語の会話本だった。大治郎がいたグレッシーニチームは、イタリアのチームだった。
 清成はその本を見て、ここで初めて日本語が通じないのだと理解する。

 送り出してから、柳本は「よく行くって言ったな」と内心驚いていた。児浪も「本当に行くんだ」と思った。高武の先輩である、宇川 徹、玉田 誠がMotoGPに参戦していた。宇川は「大抜擢に驚いた」と語る。加賀山は「あの経験値で、いきなり世界グランプリ、大治郎の代役なんて、普通の人間じゃできない。正直、可愛そうだなと思った」と言う。
 ライダーにとったら願ってもないチャンスだが、天才ライダー加藤大治郎の代役、乗ったこともない、見たこともないMotoGPを駆る世界最高峰の戦いに、若干20歳、真剣にレースに向き合って間もない青年が、夢だけを抱いて旅立ったのだ。誰もが「無謀な挑戦」と危惧した。(続く)


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2025/12/22掲載