2024年シーズンオフに、清成龍一の所属するTOHO Racingからのリリースが届いた。そこには、清成はケガの回復に努め復帰の時期については未定、と記されていた。ケガを押しての戦いが続いていたので、しっかり治して、万全の状態で帰ってきて欲しいと願った。
だが、2025年のどこの選手権にも清成の名前はなかった。清成のいない全日本が進み、清成のいない鈴鹿8時間耐久が終わり、全日本も終わった。
- ■文・佐藤洋美 ■写真:赤松 孝
- ■写真協力:清成龍一、チーム高武
- ■撮影協力:桶川スポーツランド
清成龍一は、いったいいつ戻ってくるのだろう?
清成の口から出た言葉は、驚くほどストレートだった。
「引退を決めました。このインタビューで発表とさせてください」
取材させて欲しいと、桶川スポーツランドで待ち合わせ清成家に立ち寄らせてもらった。清成が家族のために建てた家は、150坪の敷地にレンガが印象的な3階建てだ。1階はガレージ、2階は住居で、3階にはトレーニング室がある。ツナギやヘルメットを収める部屋や居候ライダーのための部屋もあり、綺麗好きの清成らしくキレイに整えられている。
以前取材で訪れた時には、トレーニング用のモトクロッサーやバイク数十台が、1階のガレージに整然と並べられていた。清成がコツコツと買い集めたもので、自分だけでなく後輩たちのトレーニング用でもあり、それを整備するのが日本にいる時の日課だった。
だが今は数台のバイクだけで「他は売却した」と言う。ガラーンとしたガレージを見て、清成は本当に引退を決めたのだと思った。
■生い立ち
清成は1982年、5人兄弟の長男として建設業を営む両親の元に生まれた。バイク好きの父に連れられ、父の友人たちと週末はキャンプに出かけた。10家族くらいが集まる賑やかな定例イベントだった。皆でバーベキューをしながら、そばの土手や空き地で子供たちはキッズバイクで遊ぶのが恒例だった。
「キャンプの爽やかなイメージではなく……。どちらかと言うとマッドマックスの世界、荒くれ者たちの集会みたいでした。父親と友人はお酒を飲んで、子供たちがバイクで遊ぶのを見ている。遊びの延長線上にレースがあった」
父親の力は絶大で、幼少期は正座して父の話を聞くのが清成家のルールだった。「ちょっと、来い」と呼ばれ、正座すると「レースをやるから」と言う。バイクに乘ることが嫌だとは言えなかった。父親たちは、子供たちが参戦出来る草レースの情報を集めて、移動用のコースターを購入、3家族が集まり家族でレースを始める。最初はオフロードが中心だった。
「今なら、危ないから走っちゃダメでしょうという声が上がると思いますが、当時は、何でもありで、山の中のコースを走るんですが怖かったです」
小学校低学年から、学校に行く前の朝のランニングを父に課せられる。弟健一と出かけるが、走らずに隠れる場所を探して、時間を過ごして家に戻ることも多かった。時々、さぼっていることがばれて怒られた。「今日はランニングではなくて、学校で懸垂していた」と嘘の言い訳が上手くなった。
小学校高学年になるとプロライダー育成を目的に開設された鈴鹿レーシングスクールジュニア(SRS-J)に入ることを父が決めた。姉も清成を追うように入り、弟健一は自らの意志で入学を決めた。姉はケガをしたことでレースを辞めている。
「SRSに入る前は、夏は海、冬はスキーと家族旅行に出かけていたのに、SRSに入ってからバイクばっかりになった。面白くないですよ。嫌で嫌で仕方がなかった」
実家の近くに桶川スポーツランドがあり、正月の2日から走りに行くようになる。清成の思いとは裏腹に父は本気だった。時間が出来ると桶川に通った。連れて行ってくれる父は、仕事の疲れもあり、車で寝ていることもあったが、休日はバイクに乘ることが当たり前の生活になる。父が同行出来ない時は母が連れて行ってくれた。成長すると送り迎えだけになり、健一と練習に明け暮れた。
SRSにはモリワキエンジニアリング創業者の森脇 護氏の長男尚護もいた。清成と年が近いこともあり、一緒に過ごすことが多く、鈴鹿の森脇家に泊めてもらい、尚護とは兄弟のように過ごした。
■1996~1999
1996年には筑波選手権、鈴鹿選手権GP80でチャンピオンとなり、1997年には筑波選手権GP125Bクラスチャンピオンとなり、1998年は全日本に昇格する。1998年SRS-J期待のライダー澤田 令選手が全日本筑波の事故で亡くなる。同チームに所属していた16歳の清成にとっては衝撃的な出来事だった。
「他に覚えていることは、雨のレースでシールドが曇るからマスクをするってことを知らなくて……。ヘルメットサービスに出かけて購入したいとお願いしたけど、販売店ではないから売れないと断られ、マスク無しでレースに出たら、前が見えなくて……。予選落ちして先生に怒られたこと。良いことは何もなくて、レースもバイクも好きになれなかった」
1999年も全日本に参戦するが、結果は残らなかった。
だが、ロードレース世界選手権(WGP)の映像や雑誌は見ていた。幼少期から自宅には父が購入したレース専門誌が山のように積まれ、レースのDVDもあった。
清成は「坂田和人さんが、WGP125で活躍していて、すごいバトルをしていたので、超すげぇ~、面白いなぁ~」と楽しんでいたと言う。ここから数年後には、誰よりも熱心に映像を見て研究するようになるのだが、この時はそれを自分の走りに生かそうとか、学ぼうという意識はなかった。
「バイクは、怖いし、うるさいし、夏は暑いし、冬は寒いし、転んだら痛いし、何が楽しいんだって感じでしたね。でも、あ~、勝つと嬉しいし、楽しいなとは少しは思いましたけど、何の努力もしていないので、負けて悔しいとも思わなかった。全日本に参戦した2年間は、一桁入賞したのは1回か2回くらいで、少しの楽しみもなかった」
1998年ランキング26位、1999年ランキング23位だった。
■Team高武-2000
SRS-Jチームは、澤田の事故からチームを立て直すため、清成の受け入れ先を探していて、1998年のオフにチーム高武に「清成を走らせてくれないか」と連絡が入る。
チーム高武は九州熊本にあるホンダの二輪と四輪のレースに参戦した高武富久美が設立したホンダ系の有力サテライトチーム。四輪やオフもやっていたが、ロードでは、宇川 徹、柳川 明、加藤大治郎、玉田 誠、中冨伸一らがいた。清成と同世代では徳留和樹、森脇尚護らが所属することになる。
チーム高武のメカニックである柳本眞吾は「清成を預かってくれないかと打診があった。チームには玉田、中冨が絶賛成長真最中で、他のライダーを見る余裕がなかった。それで、社長にメカニックを増やしても良いか?と打診したら、いいと言われて、その時、入ったのが整備学校を卒業したばかりの児浪 大で、児浪が清成の担当になった」と言う。
清成は、チーム高武入りを親から告げられると「レース雑誌を読んでいたので、流石に高武の名前は知っていて、そんなすごいとこに行くのかと思った」と言う。父親からは、自分で電話をして「お世話になります」と挨拶を命じられる。緊張して電話した。実際にチーム高武に出向く日は、電車に乗り遅れ、当然、飛行機にも乗り遅れ、昼の約束は過ぎ到着は夕方で、高武社長を待たせた。
それでも、無事、迎えられた清成は全日本250に参戦する。この時はまだ埼玉在住の実家住まいで、高武に通いながらの全日本参戦だった。だがランキングは20位と浮上の兆しはなかった。それでも鈴鹿8時間耐久では桜井ホンダから参戦して9位に入賞している。
柳本の目には地元の友達と遊び、その合間にレースをしているように見えた。柳本は「まだ17歳で危機感がないのは仕方がないが、何をしたいのかよくわからない」とオフに清成宅を訪ね「九州に出て来ないなら、もう面倒は見られない」と伝えた。見捨てても良かったのかもしれないが、何かひっかかるものがあった。
「雨が速かったんですよ。晴れだとポイントも取れないのに、雨だと6番手位を走ったりする。癖が強かったから、何か持っているものがあるんだろうな」
ベテランメカニックはそう感じていた。
■2001──全日本
2001年から清成はチーム高武のバイクショップの2階で暮らすようになる。店の裏手に鉄製の階段があり、それを上がると整備待ちのバイクが雑然と並んでいる。その奥の仕切りのあるスペースには小さなキッチンと小型の冷蔵庫があり、たたきを上がると8畳ほどの部屋があった。ここで入れ替わりはあるがチーム員数人が常に暮らしていた。古いエアコンとTVがあった。トイレと、時々お湯が出なくなるシャワーは外だった。
「1年目は通っていたので、住むところがあることは知らなくて、2年目から暮らすようになるんですが、僕のスペースは2畳あったかなって感じで……、5人~6人くらいが暮らしていました。かなり綺麗好きなので、辛かったです」
柳本は「けっして良い環境じゃないです。でも、ここを早く出て一人前のライダーになるという思いが強くなる」と、劣悪な環境から飛び出す闘志を磨けば良いと言う。実際、レースは資金がかかる。プロフェッショナルライダーを志す無名ライダーに贅沢な住環境は二の次だ。
反抗期真っ盛りの清成は、高武社長を始めとする年上のスタッフには、生活態度やレースに向き合う姿勢を叱責されても「何とも思わなかった」と振り返る。
ここには2000年全日本スーパーバイクランキング3位の玉田。2000年全日本250チャンピオンの中冨がいた。
中冨は後輩ライダーとして同クラスに参戦する清成に「コースを先導しようか? 何かあれば聞いて」と声をかけた。
「ついてくれば良いのに、絶対一緒にコースインしなかった。最初から自分をライバル視しているのを感じていました。そういった意味では、芯がある奴という印象でした」
負けん気の強い清成のことを覚えている。
玉田は「初めて会った時は、子供だった。まだ、16~17歳でしょう。先輩らしいことは何もしていなくて、バイトが終わると、メカニックの児浪もつるんで、原稿には残せないような悪い事ばっかりを一緒にやっていました」と振り返る。
玉田と中冨は1~2年間を清成と一緒に過ごし、玉田はホンダワークスへ、そして中冨はヤマハファクトリーへと巣立って行った。
高武の2階にあるエアコンを清成がつけっぱなしにしてしまったことが、高武社長の逆鱗に触れ、連帯責任で、そこに住んでいた全員が追い出される事件が起きた。
清成はアパートを探し一人暮らしを始めるが、その部屋はすぐに同世代の友人たちのたまり場となる。何もかも中途半場な清成だったが、アルバイト先のガソリンスタンドの店長が可愛がってくれていた。
レースはいまいちだが、アルバイト生活も一人暮らしも、実に快適だった。
だが、店長から、「お前、このままでいいのかよ」と問いかけられた。
レース結果は残らず、そこにフォーカスしきれない自分を持て余していた時期だった。
「自分のせいで、高武で暮らせなくなってしまった人のことや、2年も鳴かず飛ばずで、それなのに皆、諦めないで怒ってくれていた。親も資金援助してくれていた。自分って一体なんなのだろうと思っていた時に、店長が“生活の乱れは心の乱れだぞ”って……」
その言葉が清成の胸に刺さった。生活を一新して、言葉使いも生活態度も変えた。
清成は自ら高武社長に頭を下げて、高武の2階へと戻る。アパートにたむろする友人たちとの縁を切った。
「負けたら自分のせいだし、転倒も自分のせい、絶対言い訳しないと誓った」
自分はレース以外に、向き合うべきものがないということをやっと認めた。このままでいいとは思っていないのは自分だったことに気がつく。やっとレースに向き合う覚悟が出来た。
しかし柳本は、清成の親からもう援助は難しいと相談されていた。
柳本は「アイツは4ストが乗れるんじゃないのか」と考えた。高武社長も「4ストの方が合う」と後押ししてくれた。ST600(CBR600F4i)なら支援者がいると清成の参戦を、柳本は親と相談して決めた。
清成に異論はなかった。(続く)
