●第1回「1枚のリーフレットと浅間にまつわる物語 Honda 250フォアのデビュー」
私のバイクとの関わりは、10歳の時に友達の家の広大な庭で走らせた「スーパーカブC100」から始まりました。中学2年生の時に友人の影響を受けてバイクの世界にどっぷり浸るようになりました。高校生の時は、憧れのバイク通学も経験できました。
縁あって、1974年に本田技研工業に入社し、2020年に65歳で退社するまでのほとんどの期間を、バイクの魅力を伝える仕事に従事してきました。
諸先輩たちが奮闘努力して築いてきたホンダの歩みを紹介する仕事では、事あるごとに本田宗一郎とマン島TTレースや浅間火山レースなどのモータースポーツが話題に上がりました。そのような歴史を間近に感じられたのは、幸せな時間でもありました。
まだまだ若輩の身ですが、仕事や趣味を通じて感動したり苦悩したりのバイクよもやま話を綴っていきたいと思います。
1955年に初めて開催された第一回浅間高原レース(全日本オートバイ耐久レース)は、私が生まれた年と同じですから、何か因縁のようなものを感じます。
私の手元には、1959年の第三回浅間火山レースの会場で配布された「ホンダレーサー RC160」のリーフレットがあります。
RC160は、4ストロークDOHC 4気筒250ccという超高性能エンジンを搭載したワークスマシンで、このレースにデビューさせるために開発されたホンダの秘密兵器です。デビュー記念として来場者に配布されたようですが、ホンダの並々ならぬ意気込みが感じられます。そしてこのレースの表彰台を独占する強さを見せました。
カタログマニアの私ですが、ワークスマシンのリーフレットなど、今まで聞いたことがありません。このリーフレットは、私の友人が遺した資料の一つです。友人は、当時のホンダワークスライダーの谷口尚己氏と文通をしていましたので、谷口氏からいただいたものと思われます。
驚くことに、諸元表にはワークスマシンとして機密に値するであろう、ボア・ストローク値や、機関整備重量(エンジン単体の重量)なども記載されています。
そして、この年に初参戦したマン島TTレースで堂々のチーム優勝を獲得したことと、「ファンの夢」と題し、翌年のマン島TTレースにこのマシンで出場する宣言もしています。単なるマシン紹介にとどまらず、メーカーの姿勢も織り込んだ内容となっています。この頁の最後には、「尚この四気筒車は現在のところ実用車としては考えておりません。」と説明しています。MotoGPのRC213Vに、この表現を使ったら面白いでしょうね。
マシンの開発と製作も急ピッチで進められましたが、このリーフレットも同じく急遽作成が決まったものと思われます。
本来DOHCと記載すべきところをOHCと記載しています。チェックミスなのか、意図的にOHCと間違った情報を流したものかは、今となっては不明です。
当時の担当者が、写真の撮影やデザイン、コピーなどに悪戦苦闘しながらこのリーフレットを作ったのではないか。と、考えながら見ると一層味わい深い印象を受けます。
2006年に私の愛車に加わった「ホーネット(250)」のルーツは、1959年浅間火山レースでデビューしたRC160だと勝手に思っています。RC160は、250ccで4ストロークDOHC4気筒という衝撃的なメカニズムで登場しました。1960年代のホンダのレースマシンは、多気筒化による高回転・高出力により、2ストロークマシンに対抗して数々の栄冠を獲得しました。
私の「浅間記念館・詣で」の相棒は、もちろんホーネットです。浅間山を望むかつてのコース付近にホーネットの甲高い4気筒サウンドを轟かせると、当時の歓声が聞こえてくるようです。
1955年 山形県庄内地方の片田舎に生まれ、1974年に本田技研工業に入社。狭山工場で四輪車組立に従事した後、本社のモーターレクリエーション推進本部ではトライアルの普及活動などに携わる。
1994年から2020年の退職まで二輪車の広報活動に従事。中でもスーパーカブやモータースポーツの歴史をPRする業務は25年間に及ぶ。二輪業界でお世話になった人は数知れず。現在は趣味の高山農園で汗を流し、文筆活動もいそしむ。晴耕雨読の日々。愛車はホーネット250とスーパーカブ110、リードというもちろんホンダ党。トライアルにも造詣が深い。
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