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かつて60台の予選通過台数に、600台オーバーのエントリーがあったレース、ご存知ですか? 覚えています? 「ノービスライダーたちの甲子園」といわれた鈴鹿4時間耐久――通称ヨンタイです。1980年にスタートしたそのヨンタイが、2024年を最後に終了してしまいました。最高で88年に619台のエントリーがあったヨンタイは、最後の24年大会のエントリーが60台。その前の22~23年は、コロナ禍明けということもあってか、40台以下という台数でした。

■文・写真:中村浩史 ■写真提供:ブリヂストン

ノービスライダー救済のためにスタートした4耐

 1980年の第1回大会は73台のエントリーで始まりました。そもそもヨンタイは、78年からスタートした鈴鹿8耐が、80年から世界選手権格式となることに決まって、78~79年に出場していたノービス&ジュニアライセンスのライダーが出場できなくなってしまった、と始まったレースでした。
 スタートは、ノービスとジュニアライセンスのライダーのためのレース。ノービスは250ccまでの市販レーサーかTT-F3車、ひとつ上のライセンスであるジュニアは125ccの市販レーサーのみ出場OK、というレギュレーション。ホンダの125cc市販レーサーMT125RやヤマハTZ250、Z400FXやGSX400Eなんてバイクが走っていた混走レースだったんです。
 3クラス混走となった第1回ヨンタイは決勝が雨となって、のちに世界グランプリ参戦をスタートした福田照男さんが、森長達也さんとのコンビで優勝。ちなみにノービスクラスのポールポジションは、故・堀ひろ子さんと今里峰子さんのコンビ。マシンはドクターSUDA製のGSX400Eで、残念ながらスタートしてすぐ、他マシンの転倒で流出したオイルに乗って転倒、マシンが炎上してしまいました。

#SUZUKA 4H
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左は76年に発売された、ホンダの初代125cc市販ロードレーサーMT125R。当時の2ストモトクロッサーCR125Mをベースに開発された市販レーサーで、後のRS125のベースとなった。右は右は80年発売のヤマハ市販250cc市販ロードレーサー、TZ250。こんなレーシングマシンと、市販空冷4気筒のZ400FXやGSX400Eが同じ土俵で戦っていたのだ。

#SUZUKA 4H
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第1回のTT-F3クラスポールシッターの堀ひろ子さん/今里峰子さん組がライディングしたGSX400E。80年大会は他マシンのオイルに乗って早々と転倒、写真は第2回大会にリベンジ出場した時のマシンで、スズキ協力のもと組まれたGSX400E。エンジンはヨシムラチューン! 右は、24年大会のオープニングセレモニーで、23年にレストアされた実車そのもので走行した。今里さん(旧姓で、今は腰山さん)が東コースを全開走行した。始動補助は、このセレモニーを企画発案したJ-TRIPの森代表。

 81年の第2回大会は、ジュニアライセンスが国際B級と改称されての一戦。エントリーは、第1回大会から倍増の150台! 125ccクラスは、残念ながらつい先日お亡くなりになった井形マリさんが竹村浩生さんとのコンビでポールポジションを獲得。決勝レースでは、今やグランプリジャーナリストの第一人者である、あの遠藤智さんが、石川了次さんとのコンビで優勝。マシンはTZ250でした。

 82年からはレーサーの出場は不可となって、新たにSS400クラスが成立。SS=スーパーストリートの略で、ホンダがCBX400Fを発売したことをきっかけに作られた新クラスですね。このSS400クラス新設がきっかけで、エントリーはさらに増えて192台! 
 TT-F3クラスのポールポジションは、後にHRCワークスライダーとなる三浦昇さんと石倉裕二さんのコンビで、2番手に宮城光さん、福本忠さんのモリワキコンビ。この年、八代俊二さんも松野鈴一さんとエントリー、予選はSS400クラス6番手、決勝はリタイアでした。
 決勝レースでは、三浦/石倉組が追い上げて優勝! と思いきや、三浦選手が全体の60%以上走った、というレギュレーション違反のペナルティで脱落。優勝はチーム38のZ400GPを駆った岡正弘さん/新谷永喜さんコンビでした。

 この年、予選2番手の宮城さん/福本さんコンビは、エンジントラブルで13周リタイア。その雪辱を果たすように、このコンビが83年大会で優勝。この年は、実は予選で宮城さんの走行時間に電気系トラブルがあって、福本さんが予選通過ギリギリのタイム、60台中34番手で決勝進出、そこから優勝してしまったのです! 
 2位にはヨシムラスズキのGSX400FWを駆る花村忠昭さん/宮本力さん組、3位にチーム38のGPZ400を駆る西田克也さん/新谷永喜さん組。優勝モリワキ、2位ヨシムラ、3位チーム38なんて、後のビッグネームがヨンタイも席巻していたんですね。ちなみに6位にエイジュウプロ代表、加藤栄重さんの名前もあります。

 84年からはノービスのみが出場するレースとなり、予選はXJ400ZS→CBR400F→GSX-Rの順。決勝は、雨のレースをハニービーVF400Fが優勝! 2位3位にチームタイタンのGSX-Rが入りました。前年に3位に入ったチーム38といい、この年のポールシッターIRF(磐田レーシングファミリー)といい、決勝2位3位のチームタイタンといい、メーカーの社内チームが活躍していた時期だったんですね。この年はエントリー400台。最多台数はCBR400Fが108台でした。

#SUZUKA 4H
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ヨンタイ初期の頃、4気筒400ccモデルはZ400FXのみで、80年の第1回大会はZ400FX系のカワサキ4気筒400ccが6台出場。第1回大会は、73台のうち125ccレーサーが19台、250ccレーサーが25台、4スト400cc市販車が18台、2スト250cc市販車が8台が参戦していた。左が第3回大会優勝車のZ400GP、右が第4回優勝車のCBX400F。

ヨンタイが市販車を育て、市販車がヨンタイを盛り上げた

 この頃から、実は市販モデルが「レーサーレプリカ」と呼ばれるようになり、性能も飛躍的にアップ! たとえば82年のポールシッターは空冷4気筒エンジンのCBX400Fですが、CBXは最高出力48PS/車両重量173kg。けれどその翌年はVF400Fがポールで、VFは水冷V4エンジン、53PS/173kg。84年のポールポジションは水冷化されたXJことXJ400ZSで、これは55PS/179kg、翌85年は、そのXJの後継モデルFZ400Rがポールを獲って、FZは59PS/165kgです。鈴鹿8耐と市販車モデルの関係性もそうですが、400cc市販モデルもヨンタイをきっかけにぐんとパフォーマンスアップしたのだと言えると思います。

 85年のエントリーは534台、86年は589台! 予選通過は60台ですから、つまり10台のうち9台が予選落ちしてしまうという「超狭き門」なのを見かねてか、85年からは予選落ちの上位60台、つまり予選61番手から120番手までの60台が新設された2時間耐久に出場でき、2時間耐久で表彰台に上がると、そのままヨンタイにも出場できるルールも成立。88年の大会で予選落ちしてしまったヨシムラGSX-R400が、2耐出場から勝ち上がってヨンタイで3位表彰台に上った、ってこともありました。

 86年くらいからは、もう出場モデルはフルカウル&アルミフレーム、水冷4気筒DOHC4バルブエンジン、車名に「R」がたくさんつくようになり(笑)、86年はVFR400R、87年はGSX-R400、そしてヨンタイ史上最高エントリー台数となった88年はCBR400RRが優勝。やはりヨンタイと市販モデルは、密接にリンクしていたんです。

#SUZUKA 4H
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84~85年大会はハニービーVF400F、86~87年はヨシムラGSX-R400が連覇。このあたりから市販車がレーサーレプリカと呼ばれるようになり、ヨンタイレーサーと市販車がほぼ同じ形になって行く。写真はブリヂストンのWebサイトより。

 90年を目前にすると、ちょっと様相が変わってきます。それが2ストロークモデルの台頭。ヨンタイ初期の頃は2ストレーサーも出場していましたが、82年以降はレーサーが禁止となり、少数の市販2ストモデルに対して、4ストローク400ccが圧倒的多数でした。
 市販2ストモデルで目立った結果となると、82年にRZ250が6位入賞、84年はRG250Γも6位入賞しているくらい。しかし、TT-F3クラスは、4スト400ccと2スト250ccの混走レギュレーション。RZ250RやRG250Γに加え、85年あたりからNS250R、86年にはTZR250、87年にはNSR250Rの姿が増え始め、ついに87年には2ストNSR250Rが表彰台に上がります。ライダーは北川圭一さんと、故・前田淳さん。これが、ヨンタイ史上初めて、市販2ストモデルが表彰台に上がった年でした。

 89年にはとうとうNSR250Rがポールポジションを奪取。決勝レースはZXR400Rが獲りましたが、90年はNSR250Rがポールtoウィン。いよいよ2ストモデルが圧倒的優位となっていきます。91年と92年もNSR250Rがポールtoウィン、93年はNSR250Rがポールで、決勝はTZR250R、94年はTZR250Rがポールtoウィンと、NSR対TZRの一騎打ち! 90年から2000年の11年間は2ストモデルが全勝。NSR対TZRの対戦成績では、ポールポジションはTZR250が7/NSR250Rが3、決勝レースはTZRが6/NSRが4という対戦成績。98年に、1回RGV250Γが勝っていますね。

#SUZUKA 4H
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89~90年頃からは2ストモデルがヨンタイの主役になって行く。90年から2000年の11年間は2ストモデルが全勝。4スト勢は93年に3位に入った月木ZXR400Rが最高位で、表彰台もほぼ2スト勢が独占した。写真はブリヂストンのWebサイトより。

 2000年代を迎えると、再びレース参戦勢力図も変わってきて、市販2スト250ccモデルと4スト400ccモデルの数がどんどん減ってくる中、2000年が2スト250ccと4スト400ccが混走した最後の年となりました。そして2001年からはST600レギュレーションとなるのです。このあたりから、タイミング的にエントリー台数が減って行きますね。
 しかし、2スト250ccと4スト400ccがヨンタイを戦っているころ、参戦の間口を広げようと94年に始まった400ccネイキッドによる「NK4耐」をはじめ、98年に2スト250ccによる「ST250 2耐」、99年に始まったNK4よりも改造範囲の狭い「NK-ST2耐」、そして4気筒600ccと2気筒750ccによる「SSS600」クラスも99年にスタートしていて、ヨンタイからエントリーが分散していたんです。
 もちろん、バイクが売れなくなる→レース人口が減る→ヨンタイのエントリーが減る、という時期でもあったんですね。このSSS600が、その後のST600レギュレーションへ舵を切るきっかけになったんだと思います。

#SUZUKA 4H
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2001年からは4スト600ccのST600が参戦マシンとなったヨンタイ。2001年からのCBR600F4i/600RRの連勝をストップさせたのは2008年のGSX-R600だった。CBR600RR(と600F4i)は01年からの22年間で15勝を挙げた。写真はブリヂストンのWebサイトより。

 2016年からは、イコールコンディションとコスト低減のため、ブリヂストンタイヤがヨンタイのワンメイクタイヤとなります。これは、ヨンタイに出場するマシンであるST600が、全日本ロードレースではブリヂストンタイヤのワンメイクとなったからの措置で、真夏の鈴鹿を4時間、タイヤ交換なし(!)で安全に走り切れるタイヤでのレースとなります。2023年からは、ブリヂストンタイヤはヨンタイ自体の冠スポンサーともなってくれました。ヨンタイの終盤の歴史は、ブリヂストンタイヤが支えてくれていた、というわけです。ちなみに、今回のニュースに使用している2024年大会以外の写真も、ブリヂストンタイヤさんのWebサイトからお借りしています。
 ちなみにブリヂストンタイヤがヨンタイに本格参入したのは86年。ヨシムラのジュニアチーム的扱いだったミラージュ関東のGSX-R400がブリヂストンタイヤで初優勝を飾っています。

#SUZUKA 4H
ヨンタイはタイヤ交換NGで、前後1セットで4時間を走り切る。路面温度が50℃を超える真夏の鈴鹿を4時間も1本のタイヤで走るのだ! タイヤはサーキット専用の溝付きバトラックスレーシングR11。2位入賞した千田によると「この路面温度では走行1回目の途中からタイヤは消耗してきます。もちろんタイヤは滑りますけど、加速でもコーナリングでも減速でもコントロールしやすい!」とのことだった。

 その後2010年代には、アジアンライダーが大挙して参戦するようになり、ヨンタイを席巻。たとえばホンダマレーシアのライダーが日本のレースに出るとなると「国際ライセンス」が必要になり、対する日本勢は国内ライセンスということで、どうしても海外勢に押されるレースも増えていたのですが、準国際格式となったことで、日本でも国際ライセンスライダーの出場もOKに。しかし、2020-21年にはコロナ禍で開催中止となってしまい、これが大きくエントリー台数を減らすことになってしまいました。

#SUZUKA 4H
2011年あたりからアジアンライダーがヨンタイを席巻。写真は2016年に優勝したアストラホンダインドネシア。11年からの12レースでホンダマレーシア2勝、ホンダインドネシアが2勝、タイホンダが2勝、ヤマハインドネシアが2勝、タイヤマハが2勝、日本勢が2勝を挙げている。

鈴鹿4時間耐久ロードレース 歴代優勝者

ライダー マシン チーム エントリー
1980 福田照男/森長達也 TZ250 チームフライングドルフィン 73
1981 石川了次/遠藤智 TZ250 レーシングチームハニービー 150
1982 岡正弘/新谷永喜 Z400GP チーム38 192
1983 福本忠/宮城光 CBX400F モリワキレーシング 283
1984 斉藤兼一/山崎正俊 VF400F レーシングチームハニービー 400
1985 先崎直哉/白井哲也 VF400F レーシングチームハニービー 534
1986 高吉克朗/石上均 GSX-R400 RTミラージュ関東 589
1987 安藤武/中村久智 GSX-R400 ヨシムラミラージュモトライオン 529
1988 熊澤克則/小林敏也 CBR400RR ゼネラルMUCHテクニカル 619
1989 高橋芳延/和泉美智夫 ZXR400R ゼネラルMUCHワールド川口 568
1990 宇川徹/柳川明 NSR250R テクニカルスポーツ九州with高武 459
1991 及川誠人/辻村猛 NSR250R Jha &ヨシカワレーシング 399
1992 青木治親/藤原克昭 NSR250R カップヌードルTS関東 363
1993 八木要/山下裕介 TZR250R ブラックパンサー&ペネックス 455
1994 中野真矢/山内俊児 TZR250R SP忠男レーシングチーム 232
1995 酒井大作/山本琢磨 NSR250R UNOゼネラルSRS-J 193
1996 藪本博明/片岡祐一 TZR250R SPR チームモトスペースヤマハ 187
1997 川上智彦/溝口真弘 TZR250R SPR モトスポーツandMSナカミチ 158
1998 八木孝弘/大田誠 RGV250Γ SP 伊藤レーシング 118
1999 黒田貴史/松井秀樹 TZR250R チームモトスペースヤマハ 97
2000 手島雄介/三瓶陽介 TZR250R SP忠男レーシングチーム 108
2001 山川善弘/古田浩 CBR600F4i チームヨシハル 62
2002 森井威綱/寺田健太 CBR600F4i リトルウィング+αモリコー松 57
2003 鈴木慎吾/稲垣琢真 CBR600RR MOTOWINレーシング 72
2004 澤友一/山崎善央 CBR600RR 赤い三輪車レーシングクラブ 68
2005 佐竹隆幸/乃村康友 CBR600RR> モリワキクラブ 65
2006 鮫島大輔/横山耕二 CBR600RR TSR 59
2007 岩谷圭太/谷雄太 CBR600RR DOGHOUSE withオーテック 76
2008 医王田章弘/大西博規 GSX-R600 m-techレーシング 70
2009 田原啓至/藤島翔太 CBR600RR モリワキクラブ 59
2010 ブロディ・ウォーター/宮嶋佳毅 CBR600RR モリワキクラブ 46
2011 A.S.カマルザマン/I.F.ハサン CBR600RR ブンシュウホンダレーシングマレーシア 50
2012 I.F.ハサン/Z.ザイディ CBR600RR ブンシュウホンダレーシングマレーシア 58
2013 D.E.プラタマ/I.ムイス CBR600RR アストラホンダレーシング 68
2014 I.プラトナ /茨木繁 YZF-R6 ヤマハレーシングインドネシア 69
2015 中村啓司/和田留佳 ZX-6R TTSレーシング速心 YSSサンタバイクNCC 78
2016 I.アルディアンシャー/R.D.アーレンス CBR600RR アストラホンダ 60
2017 A.サムーン/B.ピラポン YZF-R6 ヤマハタイランド 62
2018 A.サムーン/B.ピラポン YZF-R6 ヤマハタイランド 64
2019 M.サラプーチ/P.パテゥンヨット CBR600RR APホンダレーシングタイランド 50
2020 開催されず
2021 開催されず
2022 松岡玲/永江伸崇 YZF-R6 IBIS REI Racing 30
2023 松岡玲/A.M.ファドリ YZF-R6 ヤマハレーシングインドネシア 37
2024 T.ラウンプリオ/K.シンガポン CBR600RR Astemo SIレーシングwithタイホンダ 60

最後のヨンタイはアジアンライダーが優勝!

 そして「最後のヨンタイ」と発表された2024年大会。エントリー台数が心配されましたが、最後のヨンタイということがチームの奮起を促したのか、60台がエントリー。公式予選はアケノスピード×GBSレーシングの田中啓介/ラムダン・ロスリ組(YZF-R6)がポールポジションを獲りました。

#SUZUKA 4H
SEコンペティション(#28)とAstemo SIレーシングwithタイホンダ(#99)の一騎打ちとなった24年大会。最終的にはタイホンダが、ふたりのライダーとも平均的に速いという耐久レースらしい走りでヨンタイ最後の優勝を飾った。

 決勝レースでは、23年のMFJカップJP250クラスチャンピオンである千田俊輝(MEコンペティション/CBR600RR)が飛び出し、3周目に転倒者が出てセーフティカーが介入するアクシデントはあったものの、千田のSEコンペティションとTOHOレーシング、アケノスピード、Astemo SIレーシングwithタイホンダ、プランビーレーシングがトップグループを形成。
 8耐と同様、約1時間を1スティントとするレースで、1スティント目でSEコンペティションが後方を5秒ほど引き離す走りを見せます。

#SUZUKA 4H
伊藤真一率いるSIレーシングがケアしたタイホンダは、普段アジア選手権に出場しているふたりのライダーともこのウィークが鈴鹿サーキット初走行! 速いライダーは初めてのコースから速い!

 しかし、1スティント目後半に2番手に浮上したタイホンダが、ライダー交代すぐにトップに浮上。千田が飛び抜けて速いSEコンペティションに対して、サナト・ラウンプリ/カティサク・シンガポンのタイホンダは、ふたりが平均して速いチーム。このチーム、なんとレースウィーク金曜日のフリー走行で鈴鹿を初走行したばかりで、チームのケアをSIレーシング、つまり伊藤真一さんのチームが行なっているのです。
 2番手以降を引き離しにかかるタイホンダ。しかし50周を過ぎたあたりでコースに介入した2度目のセーフティカーが、ポジション2番手と3番手の間に入り、トップと2番手の差はほぼゼロに、2番手と3番手の差が1分近くついてしまいます。

#SUZUKA 4H
全日本ロードレースでもST600クラスに参戦し、ワンメイクのブリヂストンタイヤを履く千田俊輝。ファステストラップも記録し、間違いなく今大会いちばんのスピードを見せた。

 セーフティカーが退出すると、すぐにSEコンペティションがトップに再浮上しますが、60周を過ぎて3度目のライダー交代をする頃には、またタイホンダ→SEコンペティションの順になり、レースはそのまま終盤へ向かいます。
 4時間のうち、エース千田の走行比率を上げたSEコンペティションと、ふたりのライダーを均等近く走らせるタイホンダの差は、レース残り50分ほどで約1分20秒。この時点で、4回のピットインを終わらせたSEコンペティションと、最後のピットインを残すタイホンダとの戦いになり、タイホンダ最後のピットは、レース残り20分ごろ。

#SUZUKA 4H
一時はトップのタイホンダに迫ったホンダ鈴鹿レーシング(#25)。ヤマハの磐田レーシングファミリー、スズキのチームタイタン、カワサキのチーム38など「社内チーム」とよばれるエントラントも、ヨンタイの歴史を彩った。

 この時点で、トップを走るラウンプリと、2番手を走る千田の差は約10秒! 千田が1周についき約1秒も差を詰めたものの、ゴールまで届かず、4秒721差でタイホンダが98周回で優勝。SEコンペティションが2位、3位にはホンダの鈴鹿製作所を本拠とする社内チーム、ホンダ鈴鹿レーシングチームが同一周回で入りました。
 国際ライセンス/国内ライセンスの混走となるヨンタイでは、国内ライセンスクラス表彰もあり、総合9位/国内1位はCLUBモトラボEJ&速心、2位にFAST with シンライディングサービス&クレオサービス&ナカタ通商、3位にファンファクトリーRT&プレシャス&ラスカルキックが96周の同一周回で入りました。

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言うなれば、ヨンタイ初期の主役だったノービスライダーに当たるのが国内ライセンスのチーム。最後のヨンタイ・国内ライセンスクラスを制したのはクラブモトラボEJ&速心。モトラボもまた、ヨンタイに精力的に参戦してくれていたチームだ。

2024ブリヂストン 鈴鹿4時間耐久ロードレース正式結果

公式予選

1位 田中啓介/ラムダン・ロスリ YZF-R6 アケノスピード×GBSレーシング
2位 千田俊輝/酒井隆嗣 CBR600RR SEコンペティション
3位 岩本匠生/保坂洋佑 YZF-R6 タイラプロモートレーシング

決勝レース(INT)

優勝 サナト・ラウンプリ/カティサク・シンガポン CBR600RR Astemo SIレーシング with タイホンダ
2位 千田俊輝/酒井隆嗣 CBR600RR SEコンペティション
3位 井手瑶輔/中島元気 CBR600RR ホンダ鈴鹿レーシングチーム
4位 村瀬豊/塚原渓介 CBR600RR MOTOWINレーシング
5位 中垣寿郎/青田魁 CBR600RR MOTOWINレーシング&TSR
6位 丹波貴大/芝本友暉 YZF-R6 MファクトリーRT NIWAエンジニアリング

NAT(総合順位)

優勝(9位) 楠留維/江直螢 CBR600RR クラブモトラボEJ&速心
2位(10位) 小野拓也/笹之内英作 CBR600RR FAST with SHIN-RS & クレオサービス&ナカタ通商
3位(11位) 山口直哉/小松孝章 YZF-R6 ファンファクトリーRT &プレシャス&ラスカルキック

新しいヨンタイが生まれるか……

 これで45年の伝統を持つヨンタイが終わってしまいました。ノービスライダーたちの甲子園は、10台に9台が予選落ちするという超狭き門のレースとなって、厳しい厳しい環境で、多くの強豪ライダーを育てました。優勝者の中だけでも、福田照男さん、宮城光さん、三浦昇さん、宇川徹さんに柳川明、青木治親さんに藤原克昭さん、中野真矢さん、酒井大作さん、手島雄介さんといった名前がありますし、優勝こそできなかったものの、宗和孝宏さん、難波恭司さん、青木琢磨さん、鶴田竜二さん、岩橋健一郎さん、辻村猛さん、小西良輝さん、そして故・加藤大治郎さんもヨンタイ出身といっていいレジェンドライダーです。
 鈴鹿サーキットによると、来シーズン以降には「新しい形のヨンタイ」を模索しているといいます。レースが市販モデルを育て、市販モデルがレースを盛り上げる、という相乗効果があり、次世代の日本のレーシングライダーを育成するようなモータースポーツを、ぜひぜひ期待して待ちたいと思います! ひとまず、サヨナラ、オレたちのヨンタイ!

#SUZUKA 4H
タイホンダの重鎮も来日。日本とタイのホンダが協力し、さらにSIレーシングが日本でのケアを行なうという、ヨンタイに参戦してきたアジア勢のセオリーどおりの参戦体制だった。

 原稿製作にあたり、ブリヂストン/レースアナウンサーのみし奈昌俊さん/モーターマガジン社より資料の協力をいただきました。
 なにせヨンタイは8耐と違って公式な記録がほとんどなく、Webサイトでも残っていないものがほとんどだからです。8耐は世界選手権、対してヨンタイはノンタイトルだったり、鈴鹿サンデーや近畿選手権と開催枠が変わってきたので、しょうがないのかもしれませんが、ここにきちんと残すものです。なお、表中のエントリー台数はエントリー台数だったり、車検通過台数だったり、少しばらついていますのでご了承ください。
「僕が初めてレースアナウンスをひとり立ちしてやったのは鈴鹿4耐、それも1980年の第1回大会だったんです。鈴鹿の耐久というと、ほとんどのレースファンは、平忠彦選手とケニー・ロバーツ選手が組んだ1985年の8耐でレース人気に火がついた、というだろうけれど、僕はその流れは、83年の鈴鹿4耐──宮城光選手が優勝したレース、でスタートしたと思っているんです。それくらい、あの大会から鈴鹿の耐久の熱がガラッと変わったんですよ」(みし奈昌俊さん)

#SUZUKA 4H
参加チームが増えに増え、レベルが上がり、一時はプロ化してしまった印象を受けたヨンタイも、常にプライベーターに支えられて続いてきたレース。写真はピットスタートとなったエンジン機工&チームPJS&DOCATO。最後尾スタートだったが、32位/ナショナルクラス11位で完走!

 ちなみに2016年からはブリヂストンタイヤのワンメイクとなり、23年からは冠スポンサーとなったブリヂストンのWebサイトに、24年の鈴鹿4耐エントラントの全チーム撮りのフォトギャラリーが掲載されています。
(文・写真:中村浩史、写真提供:ブリヂストン)

2024/09/06掲載