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レース・イベント

前人未踏、10回目のタイトル獲得! 中須賀克行は、 走り続ける。
全日本ロードレース選手権最高峰JSB1000クラスに参戦したヤマハファクトリーの中須賀克行は、第5戦鈴鹿でロードレース世界選手権(WGP)参戦60周年を記念したカラーリングのヤマハYZF-R1を駆った。1961年、WGP第3戦フランスに空冷2ストローク2気筒のヤマハRD48 を持ち込んだ先人たちから、脈々と流れるヤマハの伝統を受け継ぐ中須賀は、このマシンを駆ることを「誰もが与えられる役割ではないはず、光栄なことだ」と語った。
今季、中須賀は前人未踏の10回目のタイトル獲得に挑んでいた。ここまで、5連勝を飾っておりポイントリーダーだが、レースはまだ2戦残されており、ここでタイトルが決まる可能性は低いと見られていた。2レース開催の鈴鹿で、ふたつのレースを制することが出来たら、最多勝記録を60へと伸ばすことにもなる。60周年記念カラーで、60勝を達成して、10回目のチャンピオンを獲得する。「そんな出来過ぎのシナリオは、劇画のようだ。そう上手くは行かない……」と思われていた。
■文・佐藤洋美 ■写真:赤松 孝




ヤマハのロードレース世界選手権参戦60周年記念のスペシャルカラーのYZF-R1を駆り、10度目のJSB1000チャンピオンを決めた中須賀克行。

 
 オリンピック開催に合わせて1週間繰り上げて予定されていた鈴鹿8時間が11月開催となり、変わって全日本ロードレース選手権第5戦が組み込まれた。強い陽射しと共に上昇する気温と路面温度は、真夏の祭典のそれで、夏のスプリントレースの経験の少ないライダーたちは苦戦していた。それでも、中須賀は唯一の2分5秒台へとタイムアップしてポールポジション(PP)を獲得する。
 PPグリッドについた中須賀は、ホールショットを奪った加賀山就臣(スズキ)、亀井雄大(ホンダ)に続き、2周目には2番手に浮上した。5週目トップを走る亀井が200Rで転倒する。その直後にいた中須賀は接触するも転倒を免れた。このアクシデントのためセーフティカーが4周に渡って導入され、残り6周でリスタートした。そこから中須賀は独走態勢を築き勝利する。ランキング2位だった清成龍一(ホンダ)が11位でチェッカーを受けたことで、2レース目を勝てばタイトルが決まる可能性が大きくなった。
 

スペシャルカラーのYZF-R1と、スペシャルカラーのヘルメット。

 
 レース2決勝、 気温は高いが雨の予報が出ており、気まぐれな雲の動きに神経を尖らすことになる。否応なく、緊張感が高まる中で、シグナルグリーンと同時に飛び出し、好スタートを切った加賀山、中須賀、そして清成が続いて1コーナーに進入する。バックストレートでは清成が中須賀をパスして2番手に浮上。そして加賀山、清成、中須賀の順でオープニングラップを終える。8周目、トップ争いが激化。清成と中須賀、それに浮上して来た名越哲平(ホンダ)でスリーワイドとなり最終シケインに突入し、中須賀は首位を奪う。雨で赤旗(レース中止)が出た場合、この戦いのレース成立はレギュレーションにより、10周となることをレース前に確認しており、10周目には確実にトップでいることを決めていた。中須賀は9周目に首位に立ち、ペースアップし首位を守り切り60勝目となるチェッカーを堂々と受けた。それと同時にシリーズチャンピオンを決め、前人未踏の10回目のタイトル獲得をする。
 

2021年シーズンの第5戦鈴鹿大会。レース1で優勝した中須賀は、レース2でもトップでチェッカーを受ければ、シリーズチャンピオンを獲得できる。9周目にトップに立った中須賀はそのまま首位を守り切った。彼自身60勝目となる勝利は、前人未踏の10回目のタイトルであった。

 
 雨は降らず、真夏の太陽の光を受け、ヤマハ60周年記念カラーのマシンに、スペシャルのツナギ、ヘルメットでウイニングランする中須賀が、10回目のチャンピオンを記念するTシャツを付け、フラッグを掲げてファンの声援に応えた。その姿は、劇画から飛び出すヒーローそのもので、誰もが盛大な拍手と声援で、その偉業を称えた。表彰台には、応援に駆け付けたヤマハ発動機株式会社日高祥博代表取締役社長と登り、ピットでは苦楽を共に戦ったスタッフと中須賀の偉業を振り返るタイトル獲得シーン、勝利シーンを収めたパネルをバッグに写真に納まった。

「全日本のトップライダーとして、この選手権を引っ張ることを求められ、応えようとして来た。そのことに誇りを持って挑み、10回目のタイトルを取り、60勝を挙げることが出来たことは、自信となり力になる」
 レース後の会見で中須賀はそう語った。
 

歓喜の表彰台、そしてピットでは苦楽を共にしたスタッフたちと喜びを分かち合った。

 
 タイトルを獲得する度に世界への声が聞こえたが、中須賀は全日本を戦い続けた。その力は、代役として参戦した2012年ロードレース世界選手権(WGP)バレンシアGPの2位、ワイルドカード参戦した日本GPの奮闘、鈴鹿8時間耐久で幾度もPPを獲得、4度の勝利などから鑑みれば、彼の実力が間違いなく世界レベルであることを証明している。海外に飛び出したライダーたちが、口々に「世界には中須賀さんレベルの強豪がいる」と語り、中須賀を指針として来た。ファンは、その力を世界で示すことを期待したが、彼に与えられた使命が日本の底上げであり、MotoGPマシン開発だった。中須賀は、世界に行くだけがライダーの生きる道ではないことを示し、日本というフィールドでも、自分を高め、技を磨きプロフェショナルとして誇り持って走り続けることが出来ることを示し続けた。
 

ピットには中須賀の偉業を振り返るタイトル獲得シーン、勝利シーンを収めたパネルが展示され、表彰台には、ヤマハの日高祥博代表取締役社長も登った。

 
 中須賀は北九州で生まれ育った。今も、そこを離れることなく拠点としている。バイク好きの父親の影響で3歳からポケットバイクに乗り始め、父と共に戦い、ステップアップして来た。学業もおろそかにすることなく、九州国際大学に通い、卒業し、レース活動を続けた。2000年に全日本参戦開始、その才能は、2003年ヤマハの名門チームSP忠男の目に留まる。2004年にはGP250 で1勝を挙げランキング5位に。この年、ヤマハファクトリーの鈴鹿8時間耐久の第3ライダーを決めるオーディションに合格、これが、中須賀の大きな転機となる。大排気量でもセンスを示し2005年にはJSB1000参戦開始。2006年からヤマハの次世代エースとして認知される。第6戦岡山で伊藤真一を突き放しトップを走りながら転倒するが、その力が勝利に近くなっていることを示した。
 

2005年からエントリーしたJSB1000での初めての勝利は、2007年の第4戦オートポリスだった。

 
 そして、「岡山の悔しさを思い出して頑張った」と2007年には第4戦オートポリスで遂に初優勝を飾る。地元の友人や家族が見守る中での勝利は格別の喜びとして中須賀の中に刻まれた。このレースが中須賀にとって「1番嬉しい勝利」となる。同時にトップライダーとしてマークされる存在となり、中須賀の存在感が増す。2008年には初の栄冠に輝き、2009年はV2を得る。だが2010年、勝利に拘る中須賀は、手中に収めていたV3を最終戦の転倒にフイにする。
 

2008年、初めてのシリーズチャンピオンとなる。

 

全日本でV3を飾っているレジェンド平 忠彦さんの祝福を受ける。

 
 ヤマハはWGPでケニー・ロバーツ、ウエイン・レイニー。全日本では平忠彦、藤原義彦がV3を飾っており、V3を得てこそ一人前といった暗黙の了解があった。中須賀は失ったV3の重みを身をもって知ることになる。
「当然のことだけどV3獲得には3シーズンかかる。ここから仕切り直しだ」とその目標を自身に課す。そして、2012年~2014年とV3を達成、さらに、2015年~2016年もタイトルを得て、5年連続チャンピオンに輝く“絶対王者”として君臨するのだ。
 2017年にはレギュレーションの変更が中須賀の完成されたライディングに微妙な誤差を生み転倒が続き、後半戦で盛り返すもタイトル争いに加わることがなかった。だが、5勝を挙げ最多勝を記録する。2018年~2019年もチャンピオンとなり、タイトル獲得数を9へと当然のように伸ばした。
 

2012年は、年間4勝を上げ、2009年以来のチャンピオンとなった。

 

息子たちが、そして師匠でもある鈴木忠男さんの応援が後押しとなり、2013年もタイトル獲得。中須賀は今も、SP忠男のトレードマークである目玉ヘルメットを愛用している。

 

2014年、第7戦岡山大会でのライディング。中須賀が優勝、2位に高橋 巧、3位は山口辰也だった。この年は4勝し、レジェントたちと並ぶV3を獲得。2016年まで連覇を続けた。

 
 10回目のタイトル獲得のかかった2020年は、新型コロナウィルスの影響で、開幕は夏へとずれ込み、4戦の短期決戦のシーズンとなった。初戦のSUGOの第1レース決勝、中須賀は後輩の野佐根航汰とトップ争いを繰り広げ、2周目の2コーナーで痛恨の転倒、右肩を痛めてしまう。2レース目をキャンセルせざるを得なかった。中須賀は、このケガを隠し、言い訳にすることなく戦うが、タイトルは野佐根のものとなりランキング7位となった。
 2021年開幕戦もてぎに現れた中須賀は、トレーニングを強化して身体を絞り精悍さを増していた。
 中須賀をヤマハ入りから支えている吉川和多留監督は言った。
「昨年もあの転倒がなければ中須賀がタイトルを獲得していたと思う。常に進化しようとする姿勢が中須賀の強さを支え、転ぶまで攻めて行くのが中須賀の魅力でもある。だが、今年は、きっちり、チャンピオンを取りに行ってもらう」
 

2021年シーズンは、タイトル奪還を狙った。「きっちり、チャンピオンを獲りに行ってもらう」と、ヤマハの吉川和多留監督と明言した。

 
 タイトル獲得への思いは中須賀も同じだ。
「昨年は、どこかに甘えや、慢心があったのだと思う。10回もの記録を作るチャンスは、そうそう巡って来ない。記録のために走っている訳ではないが、取れるものなら取りたい」
 その思いは隙のないライディングを生み、誰も寄せ付けない戦いを生んだ。ライバルの脱落という側面もあったが、2戦を残しての偉業達成となった。残り2戦、3レースもすべて勝利したら、全戦全勝という、新たな記録を達成することになる。
「まだ、進歩していけると思うから、走り続けている。これからも、求めてくれるのなら、それに応える戦いがしたい」
“絶対王者”中須賀の挑戦は変らない。
 ヤマハが生んだ新たなヒーローは、あのバレンティーノ・ロッシの9回のタイトルを超える10回を記録し、ヤマハ伝統の系譜を紡ぎ、金字塔を打ち建てた。
 

 
追記:中須賀克行を初めて認識したのは、父と共にチームを立ち上げて全日本GP250に参戦していた2002年のオートポリス。私はコースサイドにいて、ググっと前に仕掛けて行くガッツある中須賀の走りが印象に残った。チャンスが来なければレース継続は難しいという追い詰められた走りの輝きは、SP忠男チーム入りを掴み、鈴鹿8耐の第3ライダー候補となり、大排気量マシンの経験がないのに、関係者を納得させる走りを見せチャンスを掴む。中須賀が駆け抜けたシーズンは、今以上にライバルの層が厚く、勝てる条件を揃えていたとは言えない中での奮闘だった。エリートライダーとして見られることが多いが、中須賀はプライベートの苦労も、チャンスが来ない嘆きも知っている。そして、掴んだと思った栄光の儚さを知るからこそ、常に前を見て自分を律しているのだと思う。
 

 
 オリンピックが開催され、日本勢の活躍は顕著だが、金メダル候補と言われたアスリートたちが、予選敗退や、1回戦で姿を消すこともあった。期待に応えようと、計り知れない重圧の中での戦いは、本来の力を奪ってしまうのかも知れない。
 中須賀にも60周年カラーで60勝の記録、そして10回目のタイトル獲得の大きなプレッシャーがあったはずだ。見守る側にも、その極度の緊張感が伝わっていた。それを跳ね除け、期待以上の戦いを見せた中須賀の凄みは、モータースポーツ界の誇りだ。
 

 
 2004年に中須賀を支えていた父が亡くなり、父親に初優勝もチャンピオンとなったことも、ヤマハファクトリーライダーとして、全日本を引っ張る姿も見せることが出来なかったことは、中須賀の大きな心残りだ。だから、中須賀は、表彰台で必ず天を仰ぎ父に勝利の報告を欠かさない。
 父が亡くなり、中須賀家の家長となり、3人兄弟の中須賀は「自分に父がしてくれたことは、弟たちにも」と末っ子の大学進学の面倒を見ている。デザイナーとして活躍する弟を応援し、中須賀のゼッケンのデザインや、ヘルメット、ツナギのデザインにもそれが生かされている。
 

 
 中須賀に趣味は? と聞いたら、「ないなぁ~」と遠くを見つめた。
 酒も飲まない、自宅近くの山がトレーニングの場であり、群れることなく、自分のルールに沿って己を鍛え、開発テストのためにテストコースに通う。レースのスケジュールをこなし、何かに没頭する時間がないのも事実だろうが、剣を極める侍のように無駄をそぎ落とし、修行を課すような生活が、王者中須賀を作ったのかも知れないなと思う。
 会見の受け答えも、ファンサービスも、何もかもが完璧な中須賀のそばには、可愛い3人の子供たちと、鈴鹿のレースクィーンだった美しい奥様がいる。
(文・佐藤洋美)



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2021/08/20掲載