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MoToGPはいらんかね

新型コロナウイルスの影響により、世界中のレースの開催が中止または延期となっていることもあり、現地情報をお届けすることができないかわりに、MotoGPを元年(2002年)から取材しているジャーナリスト・西村さんが各国のGPを総集編的に振り返る「MotoGPはいらんかね? revisited」をお届け中。第6回はカタルーニャ篇です。
●文・写真:西村 章

 2020年のカレンダーが発表になった。日程は既報どおりの内容で、7月19日のヘレスを皮切りに、ひとつの会場で2週連続2戦などのスケジュールを消化して欧州内の転戦が予定されている。欧州域外の開催地については、7月31日までに発表される見込みだとか。詳細はこちら をご参照ください。

 さて、今回の「MotoGPはいらんかね Revisited」はカタルーニャGPの舞台、バルセロナ‐カタルーニャサーキット。もともとはカタルーニャサーキット、という名称で今もその名前で呼ばれることも多いが、2013年秋からバルセロナ市議会がスポンサーに加わったため、それ以降は上記の正式名称が採用されることになった。

 当サーキットはバルセロナ市街地から北東方向に車で30~40分程度走ったモンメロという場所にあるため、その町の名で呼ばれることも多い。レースウィークは電車やバスのアクセスも良いようで、バルセロナの街中に宿泊する観戦客も多いと聞く。

カタルーニャ
カタルーニャ

カタルーニャ
カタルーニャ
カタルーニャ
カタルーニャ
カリッと晴れた好天に恵まれて気温もぐんぐん上昇することが多いカタルーニャGPの週末。日本と違って湿度が低いため、日陰に入るとけっこう涼しい。
※以下、写真をクリックすると大きく、または違う写真を見ることができます。

 年間カレンダーでは、日本のゴールディンウィークに開催されるヘレスのスペインGPについで、シーズン2回目のスペイン開催地だ。二輪ロードレースが盛んなお国柄と会場へのアクセスの良さ、そして、様々な話題でシーズン前半戦の天王山となる場合が多いため、毎年、ここのレースはいつも大いに盛り上がる。

 2002年のMotoGP元年は、当時圧倒的な強さを見せつけていたバレンティーノ・ロッシが巧みなレースコントロールやしたたかな戦略を見せつけてシーズン5勝目を挙げた。2003年はロリス・カピロッシが優勝。ドゥカティがグランプリ復帰6戦目で初勝利を達成し、カピロッシは表彰式で膝を折って天を仰ぎ、感涙にむせんだ(ように記憶しているのだけど、違っていたらごめんなさい)。

 2004年は初夏のレースウィークに先だつこと約2ヶ月半ほど前、プレシーズンの公式IRTAテストが3月26日から28日まで3日間のスケジュールで行われた。この当時は、公式テスト2日目午後に45分だったか1時間だったかの枠で、選手たちがタイムアタックを行って最速ラップを競いあうイベントがあり、その様子は欧州各国でテレビ中継された。

 この年のタイムアタック合戦が大きな注目を集めたのは、ヤマハに移籍したロッシが初めてライバル各陣営と真剣勝負に臨むイベントだったからだ。結果はロッシが最速で、賞品のBMW最新スポーツモデル(四輪車)を獲得した。このときに初めて、ロッシとジェレミー・バージェスは自分たちのヴェールを剥いで戦闘力を披瀝し、3週間後の開幕戦南アに向けて着実に準備を整えていることを示したのだった。ちなみに、6月のレースでもロッシは優勝。以後、2006年まで3年連続して当地のレースを制覇している。

 2007年は、この年にチャンピオンを獲得するケーシー・ストーナーがロッシと熾烈なバトルを繰り広げ、0.069秒の僅差で制した。3位はダニ・ペドロサで、優勝したストーナーから0.390秒差。つまり、この年のカタルーニャGPはドゥカティ・ヤマハ・ホンダの3台が緊密な接近戦を終始繰り広げていた、というわけだ。

 この年の125ccクラスでは、KTMファクトリーチームに所属していた小山知良が優勝を飾った。小山はこのシーズン、2位を3回、3位を2回獲得し、ランキング3位で終えている。ちなみにチャンピオンを獲得したのは、ハンガリー人のガボール・タルマクシ。タルマクシについては、後段で少し言及する。

2004年IRTAロッシ
2004年IRTAテスト。やがてカワサキへ移る依田一郎氏の姿が後ろに見える。

2004年本戦佐原さん
こちらはSBKからMotoGP担当になって間もない頃の佐原伸一氏。

2005年IRTA
2005年のKRはKTMエンジンを搭載していた。

2005年IRTA
打倒ミシュランを合い言葉に、ドゥカティとブリヂストンが共同出資のタイヤテストチームを結成。開発ライダーは伊藤真一。山田サンのメガネ時代。

2007年
2007年の彼はとにかく速かった。そして、強かった。だが、一部では彼の力は過小評価されていた。

2007年
マシン環境やチームに恵まれていれば、GPキャリアでもっとたくさんの表彰台を獲得していたであろうことはまちがいない。

 翌年の2008年は、ペドロサが勝利。このサーキットからほど近いサバデルという街出身のペドロサにとっては、まさに地元コースで達成した優勝劇だ。日本人にわかりやすく譬えるなら、四日市出身の選手が鈴鹿で勝つようなもの、とでもいえばいいだろうか。

 翌日のスペイン各新聞では、ペドロサ優勝がスポーツ欄のトップ記事になったのは当然として、第一面でも写真入りで掲載された。その隣には、同じ日に全仏オープンを4連覇したラファエル・ナダルの写真が並んでいる。このレイアウトをみるだけでも、スペインでの二輪ロードレースの人気や、ライダーの世間的な認知度がよくわかろうというものだ。

 そして2009年は、ロッシとロレンソが真っ向勝負。最終ラップ最終コーナーのバトルが今も名勝負として語り継がれる、あの劇的なレースがあった年だ。このときのラスト数周の緊迫した攻防を未見の方がいらっしゃれば、公式サイトの動画等でぜひ一度ご鑑賞ください。個人的に好みなのは、イタリア人の名物レースコメンテーター、グイド・メダ氏の実況なのだけれども、検索が上手なひとはうまくすればどこかでその映像を発見できるかもしれない。イタリア語がわからなくても、あの声を涸らした絶叫の中身は、きっとダイレクトに伝わってくるはずだ。

 さらに2009年のカタルーニャGPといえばもうひとつ、日本人の立場からは非常に不穏な出来事があった週末でもある。このシーズンは高橋裕紀が最高峰クラスへ参戦していたのだが、所属チームに入り組んだ諸事情があってどうやら高橋をはずそうとしているらしい、というよろしくない噂がしばらく前から水面下で囁かれていた。そんなチームに、ガボール・タルマクシがこのレースウィークから突然、チームメイトとして加わることになった。

 チーム側は広がりつつある噂を懸命に打ち消したのだが、ライダーである高橋の穏やかならぬ心中は察するに余りある。それでも高橋は、気丈に平常心を保ちながら週末のセッションに取り組み続けた。だが、決勝レースでは残念ながら序盤に転倒。

 そして翌戦でも高橋は転倒を喫してしまい、チームはそのときの負傷を理由に次のU.S.GPで高橋を欠場させる。欠場しなければならないほどの負傷をしていない、という高橋の話はチームには聞き入れられなかった。結局、高橋はそのままなしくずしにタルマクシにシートを奪われた格好でレースに復帰できず、この一件はうやむやな落着を見る。

 理不尽な目に遭った高橋にしてみれば、釈然としなかっただろうし悔しかっただろうし、なにより強い怒りも覚えただろう。しかし、取り乱したり声を荒げることなく、あくまでも沈着冷静な態度を崩さなかった。パドックの多くの人々も、高橋を支えた。そして、翌2010年、Moto2クラスに参戦していた高橋は、このカタルーニャGPで優勝を飾り、表彰台の頂点で自分の実力を満天下に示した。

 その2010年シーズン、最高峰のMotoGPクラスには2名のベテラン日本人が参戦している。ひとりは秋吉耕佑。イギリスGPで背中を負傷して欠場を強いられている青山博一の代役として参戦した。もうひとりは吉川和多留。右脚骨折で療養中のバレンティーノ・ロッシの代役で登場することになった。リザルトは秋吉が13位、吉川が15位でゴールし、ともにチャンピオンシップポイントを獲得した。

 2011年も強く印象に残るできごとがあった。

 この年は、カタルーニャGPの前戦フランスGPでマルコ・シモンチェッリとダニ・ペドロサが接触するアクシデントがあり、その結果、ペドロサは鎖骨を骨折。地元のホームGP欠場を余儀なくされてしまった。

 これに収まらなかったのが一部の熱狂的なペドロサファンで、なかにはシモンチェッリに対して脅迫めいた言動をとるファナティックな人々もいたようだ。シモンチェッリも身を守る対応を余儀なくされ、カタルーニャGP入りした。じつはこのレースウィークに際し、バルセロナ空港のレンタカー会社窓口でばったりとシモンチェッリに出くわしたのだが、挨拶を交わした際、いかつい体格のふたりの男性が彼の両脇にいることに気づいた。こちらの視線を察したのか、シモンチェッリは「ボディガードだよ」と少し照れたような笑みを泛かべた。

 レースウィークのセッションが始まると、シモンチェッリがピットレーンに姿を見せたとたんに観客席からものすごいブーイングが沸いた。しかし、あらかじめ多くの選手やレース関係者がファンに対して冷静になるように呼びかけていたこともあって、思慮を欠いた奇矯な行動に出る人物はおらず、大事には至らなかった。シモンチェッリは6位でカタルーニャGPを終えた。

2008年
ペドロサの優勝を伝える2008年の地元新聞。いずれも一面に写真入りで大きく報じている。

2009年
一気に不穏な雰囲気が漂いだした2009年の高橋裕紀所属チーム。一連の顛末は、取材していても非常に後味の悪いものだった。

2010年
毎日のセッション終了後には、欧州取材陣から多くの質問が投げかけられた。

2010年
「青山君が戻ってきたときのためにセットアップ作業を進めます」とプロの仕事に徹した。

2010年
一年前の屈辱を、優勝という最高の形で挽回してみせた。

2011年
ものすごいブーイングのなか、土曜の予選ではみごとにポールポジションを獲得。

 2012年のレースでは、ホルヘ・ロレンソがホームGPを制して優勝。2013年は土曜午前のFP3で青山博一が転倒して左手薬指を負傷。そのまま病院へ搬送されて手術する、というアクシデントがあった。

 この2013年のカタルーニャGPでは、レース翌日の事後テストで非常に印象深いできごとがあった。2011年限りでレース活動を休止していたスズキファクトリーチームが、レースの現場に戻ってきたのだ。このときのテストについては、拙著「再起せよースズキMotoGPの一七五二日」 P225からP239に詳述した内容をご参照いただければ幸甚である(毎度毎度、宣伝になってしまってスミマセン)。

 当初、2014年に復帰を予定していたスズキは、それを1年先送りの2015年にする、とこのテストで発表するのだが、その2015年のカタルーニャGPでは、土曜午後の予選でアレイシ・エスパルガロがPPを獲得。チームメイトのマーヴェリック・ヴィニャーレスも2番手タイムで、スズキが1-2グリッドとなり、世界中のレースファンを驚かせるできごとがあった。エスパルガロとヴィニャーレスの本人たちも驚いたようだが、これは見ていたこっちも正直、ビックリした。とはいえ、決勝はロレンソが優勝。ロッシが2位、ペドロサ3位、というリザルトになった。

 2016年は、金曜午後のMoto2クラスFP2でルイス・サロムが転倒し、病院で救命措置が行われたものの、懸命の努力もおよばず逝去する、という辛くいたましいできごとがあった。この件の詳細については、このレースウィーク終了後に記した拙稿(※旧PCサイトへ移動します)をご参照いただきたい。

 ポジティブな意味で非常に印象的だったのは、2018年。前戦イタリアGPで優勝した直後に、翌年はドゥカティを離れてホンダ入りするという電撃発表を行ったロレンソが、この大会でも勝利して2連勝。「どうでい。おれちんはやるときにはやるんでい」と言わんばかりのポールトゥフィニッシュで、マルク・マルケスさえひきちぎって雄叫びモードの完全勝利を挙げた。

 しかし、ホンダへ移籍した1年後、2019年のカタルーニャGPでは、皆様のご記憶にも新しいとおり、2周目のバックストレートエンドで転倒。トップ争いのロッシとヴィニャーレス、ドヴィツィオーゾをやっつけてしまった。まさに、禍福はあざなえる縄のごとし。

2013年
青木が確認走行を行った後、ランディ・ド・プニエがこの日のテストを実施。

2016年
Always in our hearts.

2018年
この当時、引退説が日に日に大きくなっていた。

2018年
てやんでいべらぼうめ的2連勝を挙げる少し前の表情。

 さて、今年2020年のカタルーニャGPはというと、冒頭に紹介した新カレンダーによれば9月27日に設定されている。そのレースが果たしてどんなものになるのやら、いまはまだまったく想像もつかないが、その日が来るのを心待ちにすることといたしましょう。

 で、次回のRevisitedは、伝統のダッチTT、オランダ・アッセンの予定。では、ごきげんよう。

【西村 章】
web Sportivaやmotorsport.com日本版、さらにはSLICK、motomatters.comなど海外誌にもMotoGP関連記事を寄稿する他、書籍やDVD字幕などの訳も手掛けるジャーナリスト。「第17回 小学館ノンフィクション大賞優秀賞」「2011年ミズノスポーツライター賞」受賞。書き下ろしノンフィクション「再起せよースズキMotoGPの一七五二日」は絶賛発売中。


[第5回 イタリア|第6回 カタルーニャ|第7回 オランダ]

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2020/06/17掲載