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AMAスーパーバイク、世界耐久、そして独自の路線を突き進む鈴鹿8耐と、ヨシムラの活躍の場は拡大していく。
同時にベースとなるマシンやエンジンが進化していくことで“試行錯誤”も生まれてくる。
年々増大していくヨシムラのエンジンパワーを、デンソーのスパークプラグが支える。
吉村不二雄と山田昇吾が共に過ごす時間も増えていった。

■文:佐藤洋美 ■写真:木引繁雄、赤松 孝
■監修:石橋知也
■写真協力:デンソー、吉村不二雄 ■取材協力:デンソー、ヨシムラ

ヨシムラ、2度目の鈴鹿8耐優勝!

 アメリカのスーパーバイクでは、それまで上位争いを繰り広げていたBMWやドゥカティ、モトグッチといったヨーロッパメーカーの2気筒勢がスズキとカワサキに圧倒されるようになっていた。
 1979年のデイトナではヨシムラのGS1000に乗るロン・ピアース、ウエス・クーリー、デビッド ・エムデでビクトリーレーンを独占した。
 この結果は、ヨシムラのチューニング技術・開発力、そしてスズキ GS1000 をベースとしたマシンの信頼性の高さを示し「ヨシムラ・スズキ」のブランド力をアメリカ市場で強化した。

#技術のデンソー、パワーのヨシムラ
ヨシムラがビクトリーレーンを独占した1979年のデイトナ。左より ウエス・クーリー、POP吉村(秀雄)、ロン・ピアース、デビッド ・エムデ。ライダーの胸に描かれた「ND」マークが誇らしげ。

 3月のデイトナを圧勝した後、ヨシムラは5月のル・マン24時間耐久へと向かう。準備不足もあったが、加えて悪天候だった。アメリカでは雨のレースは中断、止んだら再開するシステムなので、基本、雨は走らない。慣れないウェット路面で転倒が相次ぎ、結果を残せずに終わっている。
 その後、吉村秀雄はアメリカでの活動を長男・不二雄に託し、1979年に妻・直江と共に日本へ帰国した。アメリカでの苦しい時代を日本から支えてくれたヨシムラパーツショップ加藤を発展させることに尽力した。

 不二雄は「ここからの数年が、自分の采配ですべてが決まり、大変さもあったが、充実した日々だった」と振り返る。

 この1979年、AMA スーパーバイクで、W・クーリーがシリーズチャンピオン獲得する。
 鈴鹿8耐はレギュレーションが変更され、十分な準備ができなかった。W・クーリー、R・ピアースで臨むも、序盤からブレーキトラブルに悩まされた。様々な手を尽くしたが結局解決しないまま7時間が経過した頃、折れたコンロッドがクランクケースを突き破りリタイアに終わった。

 1980年、AMAスーパーバイクにはホンダが初のワークスチームを送り込み、1979年から参戦しているカワサキも規模を拡大させて参戦を開始する。鈴鹿8耐での「町工場のヨシムラと大企業の対決の図式が、AMAでも見られるようになる。メーカーの巨大ワークスチームに不二雄は対抗し、W・クーリーはAMAスーパーバイクチャンピオン2連覇を達成する。

 この年から鈴鹿8耐は世界耐久選手権に組み込まれ、市販車エンジンベースのFIM規格のTT-F1レギュレーションに変更され、2ストロークの市販レーサーは出場ができなくなった。ヨシムラ・スズキGS1000RにはW・クーリーとグレーム・クロスビー組に加え、リチャード・シュラクター、マイク・コール組が乗り、2台体制で参戦した。参戦当初に比べチームの規模も大きくなり、ライダーやクルーは総勢50名以上の大所帯になっていた。
 予選ではG・クロスビーがポールポジションを獲得。決勝はG・クロスビーが先行し、3時間が経過した時点でカワサキのエディ・ローソン以外は周回遅れという一騎討ちのレース展開となる。G・クロスビーはブレーキにトラブルが発生し、ピットインして約3分を要した。それでもG・クロスビーは猛攻し首位に返り咲く。

#技術のデンソー、パワーのヨシムラ
1980年、クーリーはAMAスーパーバイクチャンピオンを防衛。この年のヘルメットは、日本でも人気が高かったレプリカモデル以前のデザイン。写真はデイトナの時のもの。

 最後の給油のタイミングでライダーを交代させるかをチームは悩んでいた。持病の糖尿病をかかえたW・クーリーは疲労の色が濃く、一方G・クロスビーも1時間近く全力で走り続けていた。結局、G・クロスビーに勝負を託す。G・クロスビーは2スティント連続走行でも速さを維持して優勝のチェッカーフラッグを受け、ヨシムラ2度目の鈴鹿8耐優勝を飾った。

#技術のデンソー、パワーのヨシムラ
#技術のデンソー、パワーのヨシムラ

#技術のデンソー、パワーのヨシムラ
#技術のデンソー、パワーのヨシムラ
2017年の鈴鹿8耐にて、クーリーとクロスビーはヨシムラ1978年・1980年の優勝マシンでデモラン。クロスビー跨るGS1000Rのゼッケン「12」は、その後のヨシムラの固定ナンバーとなる。ヨシムラもうひとりの功労者・シュワンツと共に、彼らが鈴鹿8耐で魅せた活躍は今も語り継がれる。ちなみに2017年のヨシムラの鈴鹿8耐は7位。※以下、写真をクリックすると大きく、または違う写真を見ることができます。

ヨシムラ・パーツ・オブ・ジャパン

 1979年にヨシムラパーツショップ加藤はヨシムラ・パーツ・オブ・ジャパンと改組し、1980年10月に現在のヨシムラ・ジャパンがある神奈川県愛甲郡愛川町へ移転した。敷地面積は約300坪と、秀雄の次女であり加藤昇平の妻 ・由美子ひとりが物置で切り盛りしていた頃や厚木の8帖程度の工場とは比較にならない規模となった。
 秀雄は、従来の集合管に排気流速を高めるため集合を点火順としたサイクロンマフラーを開発し、販売を開始した。
 1980年と1981年には日本国内での直接の活動は鈴鹿8耐だけだが、世界耐久選手権へ参加していたスズキ・フランスへのエンジン供給は継続され、1980年9月14日から15日のボルドール24時間耐久レースでは優勝に貢献した。また、フルチューンしたGS1000をプライベーターへ販売もした。

1981年

「親父も喜んでくれた」と、1981年のデイトナを不二雄は振り返る。優勝W・クーリー、2位G・クロスビー、3位にフレディ・スペンサー(ホンダ)となりヨシムラ が1-2 フィニッシュを達成した。メーカー系の強豪を完全に抑える勝利となりAMA スーパーバイク史の中でも最も象徴的な勝利のひとつと言われている。
 予選からヨシムラ勢が速さを示す。不二雄が調整したGS1000S はパワーと安定性で注目を集めた。クロスビーの速さが際立った。決勝はクロスビー、クーリー、スペンサーの3者の戦いとなる。レースは クロスビーがリードし、それを僅差でクーリーが追い、スペンサーは遅れての周回を重ねた。だが、最終ラップで、クロスビーが周回遅れの処理をミス、それを見逃さなかったクーリーがトップでチェッカーを受けた。クロスビーは開幕戦デイトナの勝利のなかったクーリーに譲る形で2位。ヨシムラの圧勝だった。

 独自のハイコンプピストン、ハイカム、ゼロヨンでも速いと言われたトルク特性、空冷4ストロークとして最高レベルの信頼性、265km/h超の連続高負荷でも落ちない耐久性、緻密なキャブセッティング、31度バンクの超高速でもブレないハンドリングなど、ヨシムラの高い技術は、過酷なデイトナで見事に実証された。
 G・クロスビーとW・クーリーの“黄金コンビ”はGS1000が最強エンジンであることを示し、USヨシムラが“最強”であることを全米に示した。アメリカのレースシーンで確固たる地位を得た瞬間であり、それをデンソープラグが支えたのだった。

 1981年の鈴鹿8耐へはG・クロスビーとW・クーリーという前年度覇者の布陣で臨んだ。しかし、この大会で注目を浴びたのはモリワキ(世界に先駆けたアルミフレーム車)から出場していたワイン・ガードナーだった。W・ガードナーは予選で2分14秒76とTT-F1コースレコードを一気に約1.5秒近く縮める走りを見せた。森脇 護は自身のバイクのポテンシャルに驚き、それを引き出したW・ガードナーの走りに号泣している。
 秀雄は手塩にかけたG・クロスビーと、同じ南半球の無名の若手W・ガードナーが競い合う姿を嬉しく思い「You’re f○c○ing too fast. Go back home.」と冗談交じりに彼を褒め称えた。
だが、決勝では両者ともリタイアに終わった。
 1981年11月22日、加藤昇平が耐久仕様のGS1000Rのマシンテスト中に転倒し緊急搬送されたという連絡が届いた。治療の甲斐なく亡くなった。ヨシムラは失意に沈むが、出来ることは継続だと、気持ちを奮い立たせた。

 スズキがGSX1100Sの発売を開始し、エンジンの4バルブ化が進む時代にあって、ヨシムラもTT-F1(1000ccまで)やAMA(1025ccまで)の規定に合わせたホモロゲーションモデルGSX1000S/SZをベースにしたマシンの開発に着手した。空冷4バルブエンジンの黎明期にあって、エンジンチューニングは発熱の問題に常に悩まされていた。出力を向上させようと加工を加えれば、ピストンなどの部品が熱量に耐え切れない。ヨシムラは自らの持つ技術を制限してエンジンを作らなくてはならなかった。

「プラグもヨシムラ専用プラグへと本格的に移行し、ヨシムラさんへのプラグは、全部、試作となり、ヨシムラの要望を取りいれていった。プラグの位置を前に出した方が良いのか(燃焼室側に突き出す)、奥にした方が良いのか(燃焼室から引き込む)から相談し、燃焼波の分析、解析を繰り返しながら進めて行った。1分間に10000回転、15000回転と回転数が上がり、プラグのネジ径が14mmから12mm、それが10mmへ細く変化した。会社のネットワークを使って、4輪の情報を集めたりもした。18000回転を超えると、もう4輪F1の世界だった」と山田昇吾は語る。

 異常燃焼に対応するための試作品を作り、それを渡して走ってもらうが、回転数に耐えられずに壊れる。材質を変え、重量を押さえ、先端を削って、それでもまた、2~3ラップで壊れる。接地面(側方の接地電極側)を斜めに変えた。点火時期やバルブタイミングを変え、パラメーターを変えて、マップを書き直して試行錯誤を繰り返した。
 不二雄は「デンソーさんがフォローしてくれなければ、何も出来なかった」と全面的な信頼を置いて開発を進めた。
 山田は「ヨシムラさんの要望に応え、エンジンに負けないプラグを」と研究に熱が入った。
 夜中に不二雄からの連絡で、車を飛ばし工場に向い、そこで過ごす時間が増えた。朝に会社に向かうとスタッフから「泊まってくれば良いのに」とあきれられた。

 1982年、ヨシムラは それまでの GS1000(DOHC2バルブ)に代えて、DOHC 4バルブエンジンを採用したGSX1000S(正確には北米向けモデルGSX1000SZ KATANA) を投入。デイトナではピストン焼き付きやエンジンブローなどが相次ぎ、決勝で完走できなかった。だが、ヨシムラにとって重要な「チャレンジ」「進化の試み」の年であった。

#技術のデンソー、パワーのヨシムラ
1982年、AMAスーパーバイクの規則に合わせて1000ccエンジンを搭載した、ホモロゲーションモデルとも言えるGSX1000Sを投入。写真はデイトナ、ライダーはデビッド・アルダナ。

 鈴鹿8耐は台風接近で6時間に短縮された。GSX1000Sエンジンは最大出力150psまで高められていたが、大雨で川のようになったサーキットの路面ではその出力も十分に路面に伝えることはできずにヨシムラは6位に終わった。
 1983年、スズキがレース事業を縮小したが、ヨシムラはモリワキと共同で開発を進めた。鈴鹿8耐にヨシムラはモリワキのアルミフレームにヨシムラのGSX1000Sのエンジンを搭載したマシンで出場する。G・クロスビーはポールポジションを獲得するものの、エンジンはやはり耐久性を欠き、結局ヨシムラは13位、モリワキは6位に終わっている。レースはヨシムラチューンの2バルブ2プラグのGS1000Rを走らせたスズキ・フランスが鈴鹿8耐史上、初の優勝となった。

1984年

 ハーレーダビッドソンが経営危機に対する救済申し立てを提出し、これを発端にアメリカ政府が輸入オートバイに対する関税を従来の4.4パーセントから49.4パーセントまで引き上げたため、アメリカでの輸入オートバイ業界には停滞感が漂っていた。日本メーカーは対抗策として課税の高い750ccクラスを、少し税金の安い700ccにスケールダウンしたモデルも発売した。
 だが日本国内ではオートバイブームで売り上げは急成長していた。レースブームでもあり、1984年にはMFJ全日本ロードレース選手権国際A級・B級・ノービスの全クラスにTT-F1とTT-F3(ノービスのみ1983年から実施)が新設された。
 秋川時代から秀雄を支えてきた渡部末広にYOSHIMURA R&Dの運営を任せ、不二雄を日本へ戻した。ヨシムラ・パーツ・オブ・ジャパンをヨシムラ・ジャパンと改めるとともに、経営を日本とアメリカの拠点化とした。

 全日本ロードレース選手権に新設されたTT-F1クラス、TT-F3クラスへの参戦を決定し、TT-F1クラスへはGSX750E(空冷)で参加し、TT-F3クラスへはGSX-R400(水冷)をベースにしたコンプリートマシンを販売し、同時にこの車両で参加した。
 鈴鹿8時間耐久ロードレースはTT-F1の排気量上限が750ccとなり、ヨシムラはGSX750Eで参戦したが、完走は叶わなかった。
 この年を最後に秀雄は健康状態の悪化を受け、監督を不二雄に譲る。

 1985年、空油冷GSX-R750がデビューする。空冷2バルブのGSから空冷4バルブのGSXへと進化する過程で、シリンダーヘッドの熱問題は深刻だったが、その欠点をGSX-Rはエンジンオイルでシリンダーヘッドを冷却する油冷システムのおかげで改善した。
 アメリカでは、GSX-Rの登場と同時にスズキ・ナショナル・カップシリーズ、通称「GSX-Rカップレース」が始まる(600cc・750cc・1100ccの各クラスがある)。メーカーなどとの契約がないアマチュアライダーが対象で、ヨシムラにとって新人発掘の場ともなった。ダグ・ポーレン、スコット・ラッセル、ジェイミー・ジェームズらを輩出した。

 辻本聡は1985年にヨシムラ入りしてTT-F1とTT-F3に参戦を開始。GSX-R750 は、当時としては珍しいアルミ製ダブルクレードルフレーム + 空油冷 4気筒エンジンを採用。これにより劇的に軽量化され、ヨシムラチューンで戦闘力を獲得し、圧倒的な強さを発揮しTT-F1チャンピオンに輝く。
 鈴鹿8耐はG・クロスビーと新人ケビン・シュワンツのコンビが3位表彰台に上がった。

 1986年3月、全日本タイトル獲得の褒美に辻本は、AMA開幕戦デイトナ200マイルに参戦する。

#技術のデンソー、パワーのヨシムラ
1986年3月、デイトナ・インターナショナル・スピードウェイでの辻本聡。加藤昇平がデイトナを走った時と同じデザインの革ツナギを着用しての挑戦だった。

 故・加藤昇平が1978年にデイトナに挑戦した時と同じ、胸に日の丸が描かれたツナギを着ての挑戦だった。GSX-R750を駆る辻本は、デイトナ初挑戦にもかかわらず、まったく物怖じしない走りを披露した。

 50マイルのヒートレースで3位となり、地元の新聞に大きく取り上げられる。が、決勝の200マイルでは、3番手を走行しながらトラブルによりリタイアとなる。
 デイトナの華やかさは、そこを走るライダーたちが彩る。この時もE・ローソン、K・シュワンツ、ウェイン・レイニーらが参戦していた。そこで、大きな夢を見つけた辻本は、1986年全日本TT-F1選手権でV2を達成する。
 鈴鹿8耐は、K・シュワンツと辻本が組み3位表彰台を獲得した。

#技術のデンソー、パワーのヨシムラ
1986年、全日本ロードレース選手権TT-F1クラスにGSX-R750で出場した辻本はゼッケン1を守り切った。

1987年

 辻本はAMAのフル参戦を決め渡米する。デイトナ200マイルで2位に入る活躍を示すが、第3戦のブレイナードでチームメイトのK・シュワンツの転倒に巻き込まれてクラッシュ。首にダメージを受け闘病生活となり、フル参戦は叶わなかった。D・ポーレンはプライベーターながらデイトナ200マイルで3位となり、シーズン途中からヨシムラ入りした。

 全日本TT-F1は大島行弥がタイトルを獲得し、ヨシムラはV3となる。
 鈴鹿8耐は、K・シュワンツと大島はリタイアとなるが、ギャリー・グッドフェローと高吉克朗がトップに出る。だが、残り5分、 暗闇の2コーナーで周遅れと接触で高吉が転倒、再スタートして2位に入った。

1988年

 AMA開幕戦デイトナ200マイルでは、K・シュワンツがただ1人ショートストロークの新型GSX-R750に乗り優勝。K・シュワンツは、このシーズンから世界GP500への参戦が決まり、アメリカ最後のビッグレースを勝利で飾った。2位はこの年からヨシムラ契約となったD・ポーレン(GSX-R750)が入った。大島は50マイルヒートレースに優勝するが、決勝では転倒リタイアに終わった。
 また、D・ポーレンがAMAスーパーバイクでランキング2位、750スーパースポーツと600スーパースポーツでチャンピオンに輝いた。
 鈴鹿8耐はK・シュワンツとD・ポーレンが組んで2位となる。全日本TT-F1で大島がランキング4位となる。

#技術のデンソー、パワーのヨシムラ
#技術のデンソー、パワーのヨシムラ
1988年、シュワンツの後継者としてヨシムラのマシンを駆ることになったダグ・ポーレンはAMAで数々のタイトルを獲得。全日本ロードレース選手権にもヨシムラのマシンでスポット参戦している。

#技術のデンソー、パワーのヨシムラ
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#技術のデンソー、パワーのヨシムラ
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1988年の鈴鹿8耐はシュワンツ/ポーレン組が2位を獲得。

 1989年、秀雄は会長になり、不二雄が代表取締役に就任した。
 不二雄は、D・ポーレンを招き全日本TT-F1とTT-F3クラスにダブルエントリーさせる。鈴鹿8耐では海外ライダーの参戦はあったが、全日本に海外ライダーが参戦するのは稀だった。それも、ゲストではなく、フル参戦だ。不二雄は全日本に新しい風を吹かせた。

#技術のデンソー、パワーのヨシムラ
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#技術のデンソー、パワーのヨシムラ
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1989年、ポーレンは全日本ロードレース選手権にフル参戦、さらにTT-F1とTT-F3のダブルエントリーでダブルタイトルを獲得する活躍だった。

 不二雄は「海外ライダーのタフな強さを全日本に持ち込みたかった」と語る。「レースは科学だ」と言い切るD・ポーレンは、バイクの状態や路面状況などを的確に把握し、全日本史上初のダブルタイトルをヨシムラにもたらす。
 鈴鹿8耐はK・シュワンツ/D・ポーレンはトラブルで8位、大島/高吉も5位と満足な結果を残すことが出来なかった。(つづく)

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2026/01/21掲載