アフリカツインの歴史を語る上で欠かせないのがパリ〜ダカール・ラリーを走ったワークスマシン、NXR750だ。そのデビューは1986年。初年度から勝利を収めたその成功は、1987年、1988年、1989年と4年連続で「世界一過酷」なラリーを制したことで伝説となる。
アフリカツインは、このバイクのスタイルとともに、舗装路も悪路も走破し進むオールローダーとしての資質や、大容量タンクがもたらす航続距離の長さ、長旅を快適にするフェアリングの装備など、パリ・ダカが舞台とした、サハラ砂漠を越える冒険性を織り交ぜたパッケージが何よりの特徴だ。
荷物を積み、パッセンジャーを乗せ、ロングツーリングする。そうした休日の用途から、アーバンモビリティーとして、オンロードツアラーとしての性能も同様に高いものが求められる。それを兼ね備えていたのがアフリカツインだ。
当時、ヨーロッパの市街地ではスクーターの他に、500〜600クラスの単気筒オンオフ系モデルが「足」としてもてはやされていた。日常の足にもパリ・ダカはアバンチュールをもたらした。そしてアフリカツインはその上級セグメントに位置する本格派モデルとして認知されたのである。
当時、フランスのパリを1月1日にスタート。フランス国内を南下し、地中海を渡りアフリカ大陸へ。そこからサハラ砂漠の北端エリアまで再び舗装路で移動。そこからサハラに足を踏み入れ、アフリカ大陸西岸、大西洋に面したセネガルの首都、ダカールまでを22日間、時に1万3000キロ以上を走破するラリー。サハラ砂漠を越えるこの冒険ラリーは、文化、気候、時差を超える。モータースポーツであり旅。このスパイシーさをプロダクトに封入したアフリカツイン自身も、89年、90年と市販無改造クラスでこのパリ・ダカで2度のタイトルを獲得している。
このバイクの原点であり、アフリカツインの誕生と進化に大きく関わった、HRCのワークスマシン、NXR750を見てゆこう。
1982年のパリ〜ダカール・ラリーをXR500ベースのマシンで勝利して以来、BMWの後塵を拝する展開が続いたホンダ。1985年にはRFVCヘッドのXL600系をベースにしたマシンでパリ・ダカを戦ったが、頂点へは届かなかった。水平対向2気筒を搭載するBMWに、テネレ砂漠の高速ステージで差を開けられてしまう展開にシビレをきらし、84年暮れに勝てるマシンの開発指令が出た。そして企画開発されたがのNXR750だった。
マシンのコンパクトさとともに、パワーと、砂の上でも理想的なトラクションを生み出すエンジンには多気筒の不等間爆発が求められた。選ばれたのはVツイン。前後長を詰めるためにシリンダー挟み角は45度、理想の不等間爆発を得るために位相クランクを採用し、90度Vツイン同等の爆発間隔をそこに再現したパリ・ダカ用レイアウトの水冷2気筒エンジンが新造される。天地にもサイズを抑えるべく、NXR用エンジンでは、クランクケース内にオイル室を設け、そこから圧送することでエンジン下部へのオイルパンの張り出しを抑えるなど多くの工夫がされている。現地のガソリン事情に合わせ、圧縮比を市販車同等の9:1に抑え、扱いやすさ優先とトルク特性をマイルドにするため、クランクマスも異例の重量だった。
キャブレターもレスポンスがマイルドな負圧式を採用。トリップメーターで距離を測り、マップホルダーに入れたラリーの「地図」、ルートマップを読みながら進むラリーでは、扱いやすさがなにより大切。路面のギャップで受けた腕の揺れでアクセルがシビアに反応するようでは、ライダーが疲れてしまう。それがミスを誘うようではだめなのだ。779㏄の排気量からフラットで扱いやすいパワーが生み出された。
耐久性にもマージンを取られたエンジンには、長距離ラリーバイクらしい装備もあった。カムジャーナル周りへのオイル潤滑を一目でわかるようにエンジン側にアクリルの窓を設けるなどされていた。また、エンジンを覆うメインタンクは左右2分割で、エンジンへのアクセスを簡単にできるよう、左右のタンクは上部で蝶番で繋がり、外さずともガバリと開くことで簡易メンテを施せた。
フレームはスチール製セミダブルクレードル。リアサブフレームはリアタンクがそれを兼ねる。メインタンクと合わせて60リットル近い容量を持つ。アルミ製タンク内には燃料バッグが入れられ、転倒時のダメージで表面に穴が空いても燃料の流出が起こりにくい設計だった。3分割タンクも、いっぺんにガソリンを失わない配慮からだ。
また、フレームマウントのフェアリングにはφ100㎜の小径ライトが二つ並ぶ。初期型NXRでは2本出しの排気系が特徴的。1986年仕様のみのディテールだ。NXR750を駆るエースライダー、シリル・ヌブーの手により勝利を収める。
1986年モデルの熟成・正常進化版が87モデルのNXR750だ。エンジン排気量は779㏄で変わらず、構造面でも大きな違いはない。外観デザインまで手が回らなかった初年度のNXRと比較すると、後に登場するアフリカツイン650の原型を思わせるスタイルが特徴。この年のラリーではカジバファクトリーとの激しい闘いを辛くもかわして勝利をする。フェアリング内に備わるナビゲーションアイテムもアップデイトされたほか、メンテナンス性を向上する試みもなされた。また、ライダー達から「うるさい」と評判の悪かった排気系は1本出しのものへとあらためられ、その後踏襲される。この年、カジバとの接戦から逃げ切ったのは自身5度目のパリ・ダカ勝利を飾ることになるヌブーだった。
2輪、4輪、カミオンを合わせて600台を越す参加を呼んだパリ〜ダカールラリー。勝つためのマシンはライバルをも鍛え、ラリーは高速化し、難易度はますます高くなる。タイヤ内にチューブではなく、パンクレスのムースフォームを入れるホンダは、走行熱でこのムースが溶けるトラブルに悩まされる。折衷案でもあり、高速化に置けるハンドリング向上案としても功を奏す予定だったのが前輪19インチだった。21インチよりもムースの断面面積が太くなり、小径化。これにより熱容量、ハンドリング向上とも効果を狙えた。19インチフロントは高速ステージで使われたが、実戦での評価はあまり高くなかったようだ。
壊れて止まる時間を削る。そのコンセプトからマシンはより耐久性重視に。車重も合わせて重くなった。ラリーでは最新仕様を使うフランスホンダに不運が続き、87年型ベースの進化版を使うイタリアホンダのエディー・オリオリがこの年のラリーを制することに。
NXR750とHRCがパリ・ダカに参加する最後の年。より運動性を上げるべく、重心位置から遠い部分の軽量化が徹底された。ラリー中携帯を義務付けられるアイテム(遭難時に救援隊に居場所を知らせる発煙筒、ビーコン=発信器など)、工具やスペアパーツを積載するスペースも最小限に。また、カウルの大型化が行われ、快適性にも神経を使われた。また、ナビゲーションアイテムの配置、方位を数値で表示するデジタルコンパスなどもオリジナルでライダーが扱いやすいものを内製した。1989年のNXRのデザインは、93年に登場するアフリカツインのベースとも言えるもの。フロントタンクの中央、ステアリングヘッドの後ろ側に位置するエアクリーナーケースの位置等、NXRの設計思想をストレートに反映した点で、乗りやすくスポーティーという部分がNXR的になっていた。フランスホンダのジル・ラレイがこのラリーを制し、ホンダのNXRプロジェクトを締めくくる。
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