フラミンゴ(flamingo)はアフリカ、南ヨーロッパ、中南米の塩湖や干潟に生息する。塩湖やアルカリ性の湖といった特殊な環境に適応しており、数千羽から百万羽程度の巨大な群れを形成する。フラミンゴという名前はラテン語で炎を意味するflammaに由来しているとされる。
1980年代後半から1990年代初頭、ロードレースが華やかな輝きを放っていた時代を若井伸之は生きた。180cmと長身で手足が長く痩せていた。その身体を折りたたむようにGP125ccマシンに密着させ、激しいコーナリングを見せ、イン側の肘や膝を擦った。その姿が優雅なフラミンゴのようだった。
今も、スペイン・へレスサーキットの1コーナーアウト側に、若井の死を悼み、フラミンゴの像がたっている。
■文:佐藤洋美 ■写真:赤松 孝
第3戦日本GP・鈴鹿
ロードレース世界選手権(WGP)250ccクラスの予選では原田哲也、岡田忠之が激しいアタック合戦を繰り広げた。ロリス・カピロッシが2分12秒263でトップに立ち、このタイムが目標タイムとなり、岡田が2分12秒017でリーダーボードのトップに立つと、さらに自身のタイムを超える2分11秒台に入れトップ浮上する。
残り4分、原田が「なんでもいいから新品タイヤつけて」と飛び出す。200Rでマシンが暴れ、大きくスライド、あわや転倒かというシーンがありながらも2分11秒台089を叩き出す。岡田もさらなるタイムを狙ったが時間切れ。原田が見事逆転しポールポジション(PP)を獲得する。
原田は「200Rのアクシデントさえなければ10秒台いけたかな……」とさらりと言ってのけ、そのポテンシャルが並外れていることを知らしめたが、「心臓が喉から飛び出しそうだった。もう一度あの走りをしてと言われても、出来るか自信がない」と振り返った。
鈴鹿はホンダのお膝元であり、ここでの活躍を最も期待されているのが岡田だった。
「プレッシャーは原田や青木(宣篤)の方があるでしょう。勝っているんだから……。自分はプレッシャーなんて感じている場合じゃない」と岡田は語った。
青木は岡田が言うようにプレッシャーにさらされていた。青木3兄弟(長男・宣篤、次男・拓磨、三男・治親)としてポケットバイク時代から注目を集めて来た青木への注目度は、メーカーの威信を背負う岡田、原田とは違った意味で過熱していた。250に拓磨、125に治親が参戦し、3兄弟が揃った日本GPには、一般誌や新聞、TVなどの取材が殺到していた。青木は「完全にリズムが狂って焦りがあった」と振り返る。
若井も母国GPでの注目度の高さを感じていた。支援してくれるスポンサーを始め、スズキの関係者などが応援に駆け付けて例年にない大きな視線が注がれた。
決勝スタートで飛び出したのはカピロッシだったが、ホールショットは原田で、原田は序盤から逃げる。その後方にカピロッシ、マックス・ビアッジ、岡田のオーダー。
レースは原田が首位に立つが、カピロッシが迫り、そこに岡田が加わり3台の熾烈なトップ争いへと発展。原田が逃げ切り、岡田はカピロッシのハイサイドのあおりを受け2位。青木は4位となる。拓磨は8位となった。
若井はセカンド集団で、ジョン・コシンスキーやヘルムート・ブラドル、拓磨らと争うが、最終コーナーで痛恨の転倒、傷ついたマシンをピットまで運び、修復後に再びコースインしている。懸命にチェッカーを目指し28位でレースを終えた。
それでも若井は結果以上の手応えを得た。
「自分のミスで転倒してしまったけど、それまでは付いていけたし、一度は抜くことが出来た。ブラドルや拓磨と一緒に競ることが出来て、今まで見えなかった自分のポジションや走りが見えてきた」
諦めずに最後まで走り切った姿に大きな声援が飛んだ。
観客席で伸之が送ったチケットを握り締めながら、両親は息子の姿を追った。初めてみる世界最高峰のレースは迫力満点で、GPの魅力を両親に伝えた。父・一は「若者が夢中になるのも無理はない」と語り、母の義子は観客席の熱気に当てられていた。
GP500は伊藤真一が序盤の戦いをリードするもレイニーが勝利、伊藤は4位。宇田川 勉は14位でチェッカーを受けた。新垣敏之は12位となる。
125はダーク・ラウディスが勝ち、坂田和人が2位、辻村猛が3位。上田昇は5位。6位に斉藤明が入った。
レースを終えると、若井はスペインに旅立つ前に実家に顔を出した。
伸之の張り詰めた緊張を感じた義子は「あんまり、無理しないで。頑張り過ぎないで」と優しく声をかけた。伸之は「頑張るに決まっているじゃないか」と語気を強めた。義子は伸之の声に驚いた。伸之は困ったように「ごめん」と謝った。
伸之は居間から庭のツツジを静かにみていた。自分が子供の頃、父と植えたツツジが満開だった。伸之は「綺麗だな」と呟いた。義子は小さな手で一生懸命に土をすくい、顔も手も真っ黒にしていた伸之の顔を思い出していた。
義子は「このツツジのように、伸之の人生も綺麗な花が咲くといい」と願った。
「ヨーロッパラウンドが始まれば世界GPを戦ってきたキャリアを生かせる。自分の持つ優位性を発揮できる」
伸之は身震いするような闘志を秘めてスペインへと旅立った。
爽やかな風が吹く初夏の晴れた日だった。
恋人の瑛美(仮名)は日本GPに付き添い、そしてスペインとこの2戦を転戦したら帰国する予定だった。日本からチームの本拠地である南フランスのラバンデゥへと若井とスタッフと向かった。
ラバンドゥはテック3のエルベ・ポンシャラルの本拠地であり地中海に面した街にあり、丘の上にあるガレージは孤高の砦のように見えた。若井はここでの生活を気に入っていた。時間が出来るとポンシャラルと海岸線をマウンテンバイクで駆け抜けた。
だが、この時は、若井は夢の250参戦を開始したばかりで、薄氷を踏むような緊張感がチームに蔓延しており瑛美の心配は募った。さらに若井の疲れがピークに達し高熱を出した。若井はフラフラだったが寝込んでいるわけにはいかないと、ガレージに顔を出しスタッフを気遣っている。
そんな若井の思いを感じ、スタッフも気持ちを切り替え「ヘレスでは頑張ろう」と言ってくれた。若井はホッとした笑顔を見せてヘレスに向かった。
この年、日本では細川連立内閣が発足、ゼネコン汚職が世界を騒がした。リストラが囁かれるようになる。そんな中で、円が戦後最高値1ドル100円40銭となった。
皇太子が小和田雅子さんと結婚しお祝いムードが広がった。サッカーJリーグが開幕、インターネットが民間企業に使われ始める。『愛のままにわがままに僕は君だけを傷つけない』『裸足の女神』(B’z)がヒットチャートの上位に付けた。
第4戦スペイン・へレス
スペイン、アンダルシア地方カディスにあるヘレス・デ・ラ・フロンテーラは通称ヘレスと呼ばれる。セビーヤの南約100キロにある。年間日照時間は3000時間を超え、平均気温は冬11℃、夏25℃と過ごしやすい。光の海岸を意味するコスタ・デ・ラ・ルスが近く、まばゆい光を反射する銀色にきらめく大西洋と黄金色の砂浜が美しい。
ヨーロッパラウンドの始まりであるへレスは、もうひとつの開幕戦だ。遠征ラウンドには同行しないケータリングスタッフや、巨大なチームトラックのドライバーや、チームをサポートするPRスタッフなどもここから合流する。長いヨーロッパラウンドの戦いを共に過ごすファミリーが顔を会わせ一気にパドックが活気づく。
へレスでは、F1の観客動員数を超える20万人の二輪ファンがかけつける。レース人気の高い欧州でも特別の地である。ファンの熱狂ぶりも独特で熱く情熱的なのだ。フラメンコ発祥の地でもあり、パドックの余興に激しくかき鳴らすギターの音を響かせ、ダンサーが情熱的な踊りを見せてくれる。
若井は遠征ラウンドでつまずいてしまったマイナスを取り戻そうとしていた。この年ヨーロッパは不順な天候が続いた。雨が降らないサーキットとしても有名なへレスサーキットの路面を雨が叩いた。その雨が南スペインの独特の赤い土を塗らし、グレーとブラウンの世界が広がった。
気温も上がらずヘレスは暑いという常識を覆していた。このレースウィークで、太陽が顔を出したのは2日だけだった。予選日と決勝日のみが、雨に塗り込められた暗いヘレスの舞台を浮き上がらせるように太陽が顔を出した。
アプリリア・ワークスはヨーロッパからの巻き返しを図るために吸排気系のニューパーツを投入しエンジンをモディファイ、シャーシも替えて戦闘力を増していた。ホンダ勢も熟成を図り、ニューエンジンが用意された。熟成方向のヤマハ、スズキもポテンシャルを上げて激しさは増すことになった。
金曜日はレインコンディション、多くのライダーがこのコンディションに翻弄される。マシンの方向性がつかめないままにレースを消化していた若井にとって、ヘレスはマシン確認の上で重要な意味を持っていた。なのに雨がその思惑を砕いた。
雨の1回目のフリー走行が終わると原田は若井のピットを訪ねている。若井は「乗れない」とうなだれた。タイムが上がらずに悩む若井に原田は、どう声をかけていいのかわからなかった。それでも原田は、125から250にスイッチした経験があり、それがそう簡単にはいかないことを身をもって知っていた。天才の名を欲しいままにする原田でさえ4年かけて全日本チャンピオンになったのだ。
そして、ここはWGPだ。世界中から集まった精鋭たちの戦いなのだから、そう簡単にはいかない。それは百も承知だ。それでも若井は悩み、もがくようにベストセッティングを見つけ出す作業に没頭した。
この日の夜、坂田も若井のトラックを訪ねている。ピットに近い最終コーナーで若井の走行を見ていた坂田はマシンの挙動、若井のライディングについての感想などを伝えた。
若井は「明日は高速コーナーを見てよ」と頼む。
セッティング変更についてスタッフとミーティングを終えて夜中にモーターホームに帰った若井はぐったりしていた。スタッフは翌日の走行に備え、朝方まで整備を続けた。若井は、ゆっくり休むことが出来ずに朝を迎える。
予選2日目、冷たい風も収まり明るい日差しが戻った。前日は雨だったことから、この日の予選タイムがグリッドを決める。
タイヤサービススタッフは路面温度を測り過去のデータを見ながらタイヤのデリバリーを考える。ライバルチームのチーフメカニックたちはドライコンデションのギアレシオに合わせ、過去のデータから割り出したマシンのセッティングを急ピッチで進めた。
だが、若井には過去のデータもなければ、マシンの特性を把握するほどテストができていない。何もかもが手探りの状態だ。それでも、何かを見つけようとコースに飛び出す。確認できるのは午前中のフリープラクティスしかなかった。
苦境にある若井に原田は手を差し伸べた。フリー走行では、何度も若井を引っ張った。自身も初参戦で、初めてのコースで自分のことに精一杯なのに、原田は、その貴重な時間を使った。原田は若井にペースを合わせ周回し、少しずつタイムアップするのだが、若井は、原田のペースが上がるとついて行けなかった。原田の背中が見えなくなってしまう。
ヘレスでも、うまくタイムが更新できずに若井は悩んでいた。スタッフも朝方まで整備して懸命に若井を支えていた。その頑張りに応えようとするが、出来ない自分を責めているように瑛美には見えた。苦しんでいる若井のそばにいるだけしか出来なかった。
最終予選に向けてスタッフと打ち合わせると若井はモーターホームに戻り、スタッフの食事の用意をしている瑛美に、「昨夜は寝ていないだろう。俺も少し休みたいから、休憩したらいい」と声をかけた。
若井はすぐに寝息を立てた。若井が心配で寝ていなかった瑛美も引き込まれるように眠りに落ちた。気がつくと若井はツナギに着替えており、目を開けた瑛美に「行かなきゃ」と微笑みかけた。
「よしゃ、行ってくるぞ」とガッツポーズして「お前は寝ていろ」とモーターホームのドアを開け陽光の中に出た。
若井を見送った瑛美はすぐに起きて、若井の走りを見ようと近くのコーナーまで出かけた。目の前を若井が走り去った。そして「なかなか、来ないな。ピットかな」と思っていた瑛美の耳に聞こえたのはサイレンの音だった。ピットエリアで何かあったらしいことはわかったが状況は分からない。
胸騒ぎがしてチームテントに行くと、チーフメカニックの新国 努が「瑛美ちゃんは来なくていいから、ここに居て、ここから動かないで」とテントに残された。
「何があったの?」と問いかける瑛美に「若井が救急車で運ばれた。でも大丈夫だから、モーターホームで待って」と新国はあわただしく外に飛び出した。
不安をかかえたまま瑛美は連絡を待った。救急車で運ばれたといっても、きっとたいしたことはない。きっと戻ってくるはずだと信じた。
(続く)
(文:佐藤洋美 写真:赤松 孝)
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