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レース・イベント

成し遂げる力 バハ1000までの「13年と3秒」
ニコラ・デットゥは「Baja」タイプの長距離ラリーレースで数々の成功を収めてきた、イタリア出身のラリーレイドレーサーである。彼は2010年、レース中のアクシデントにより下半身不随になる大きな怪我を負ったが、それでも彼はBaja1000、ダカール、そしてアフリカ・エコ・レースへの参戦を成し遂げたのだった。
■文: Klaus Nennewitz ■写真: Tiziano Interno ■翻訳:ノア セレン






「13年と3秒」──これは、北西イタリア・クーネオ出身のニコラ・デットゥ(53歳)が、2023年のBaja1000(ラ・パス~エンセナダ)完走という夢を成し遂げるのに要した時間である。

「3秒」とは、彼の人生で最も長い3秒間となった大クラッシュの瞬間である。2010年3月、イタリア国内のラリー参戦中に時速95マイル(152km/h)というハイスピードで転倒し、川辺に頭部が叩きつけられたことで第3胸椎以下を損傷。特に第7胸椎へのダメージにより下半身不随となってしまったのだった。

 それまでの彼のラリーレーサーとしてのキャリアは成功を収めていたが、そのスタートは19歳と決して早いものではなかった。青年時代の彼はイタリアンアルプスの地元、リモーネ・ピエモンテにてスキーに熱中していたのだった。しかしオフロードバイク競技を始めてからはすぐに頭角を現し、地元のエンデューロレースで活躍するうちにダカールラリーの名選手、ロベルト・ボアノに見出され長距離のラリーレースへも挑戦するようになっていった。21世紀に代わる頃、スペインでは何百マイルという長距離をナビゲーションしながらレースするBajaタイプのレースが人気となっており、ニコラは2001年にデビューを果たした。その後スペイン選手権に6年もの間参戦し続け、その中でタイトルも2回獲得したのだった。
 

 
 スペインでの成功を経て、2008年と2009年はヨーロッパ選手権へとステップアップし、ここでも2年連続タイトルを獲得。しかし2010年春に例の大クラッシュを喫してしまい、生死も危ぶまれる事態となってしまったのだ。幸い、ニコラはイタリア・ユダインにある脊椎損傷においてはヨーロッパ有数の病院で手当てを受けることができ一命をとりとめた。
 

 
 術後に目を覚ました二コラは胸から下の感覚が無いことに気付くことになるわけだが、同時に両腕は問題なく動くこともすぐに確認でき、これならば車いすを操作することができ、そして再びバハ・カルフォルニアの砂漠を見に行くこともできる、と前向きにとらえることができていた。
 この状況から、彼は2つの道があると考えた。
 犠牲者か、それともヒーローか。
 回復過程のセラピーセッションで彼は事故以前のキャリアについて話し、今後もチームマネージャーやイベントオーガナイザーといった立場でラリーレースにかかわり続けたいと発言したが、セラピストからは「現実逃避だ」とたしなめられ、現実を受け入れ、より建設的な未来を考えるように促されたのだった。しかしセラピストにはニコラの内なる炎が見えていなかったのだ。ラリーレースというスポーツは、ニコラにあらゆる困難に立ち向かい、それを乗り越えるためにどのようにエネルギーを注ぎ込んでいくべきかを教えてくれていた。ニコラにとっては今回の下半身不随も、新たなチャレンジの一つに過ぎなかったのだ。
 

 
 ニコラはセラピールームを後にし、二度とそこに戻ることはなかった。彼が信じるものは彼の情熱と固い決意、そして妻エレナをはじめとする家族だけだった。彼はまだ入院中に自分でも出場すべく「サマーウィールズ」というバイクレースイベントを企画し、そして9カ月に及ぶリハビリを経てついに家に帰ることができた。オフロードレースで鍛えた体のおかげで車いす生活でも苦労は少なかったが、何よりも周りからの憐みの視線が最も苦しかった。

 自ら企画したオフロードイベントには、友人のジャルノ・ボアノーが運転するサイドバイサイドに同乗。この経験によりニコラの競技参加者としてのパッションは再び燃え上がり、2011年秋に行われるBaja1000に妻エレナと共に参戦を決意。4輪の競技車両を用意して準備を進めた。結果はタイミングベルトの破損によりリタイアとなったのだが、故障したマシンと共に砂漠の中で他の競技車両が次々と走り抜けていくのを見ながら、キャンプファイヤーをしつつ夜を過ごしていた時に、「やはりバイクで走りたい」との思いが強まった。そしてニコラと同様に下半身不随となる怪我を負ったが、専用のケージ付きマシンを用意することでレースに復帰していた、アメリカのスーパークロスライダーであるダグ・ヘンリーの存在もそんな考えを後押ししてくれた。
 

 
 バイクでのレース復帰に向けて、冬の間に友人たちと共にマシン作りに取り掛かったニコラ。レーシングマシンにはロールバーや電動シフトチェンジ、Rekluseのオートマチッククラッチシステムの搭載、そして停止時用の補助輪といった装備を加えて、2012年の春には舗装路での最初のテスト走行となった。
「走り出してすぐはトラウマに襲われましたが、100ヤードも走るとすぐに感覚が戻ってきました。補助輪がなくてもバランスが取れたその瞬間に、ここまでの2年間のことをすべて忘れてしまうかのような歓びに包まれました」

 オンロードで走れることを確認できてからはすぐにオフロード走行でトレーニングを始め、そしてついに友人でありライバルでもあったスペイン人ライダー、ジュリアン・ヴィラルビアと共にスペインの「バハ・アラゴン」レースへの参戦を決意した。
「モーターランドアラゴンでの車検を受けているだけで感情が溢れてきました。初日のプロローグ走行では歓びでヘルメットの中で涙があふれ、路面が見えないほどでした。競技から2年間離れていたわけですが、多くの人が僕のことを覚えてくれていて、停車する時にはすかさず駆け寄ってきて車体を支えてくれたりしたんですよ」
 レースは友人のヴィラルビアがゴーストライダーとして伴走してくれ、停止する時や転倒した際のサポートをし、なんと24位というリザルトを確保した。この経験は自信となり、ニコラはさらに上を目指すことを決意。同年秋にはKTMがファクトリーサポート体制を申し出てくれるまでに至った。
 

 
 2013年シーズンはメキシコのBaja500「アイアンマンクラス」に参戦、しかしあまりに過酷なコース設定およびレース内容で、身体的な限界から完走は叶わなかった。このことから、夏の間に更なるエンデューロトレーニングを積み重ね、次はBaja1000にエントリー。チームメイトのカート・カセリ選手が事故で命を落とすという、精神的にもハードなレースとなったのだが、ニコラは様々な苦労を乗り越え完走を果たす。 
 

 
 次なるチャレンジは当時南米で行われていたダカールラリー。これの参戦資格を得るにはモロッコで行われるメルゾーガラリーで結果を残すことが求められる。彼はこのラリーに参戦しダカールの参加資格を獲得したが、同時に砂丘でのライディングスキルがまだ不十分だと思い知らされる。
 ニコラは砂丘でのテクニック向上のためにモロッコで2週間のハードトレーニングに臨んだが、その時にかつての雪上でのスキーのテクニックを応用できることに気づき、スキル向上につなげることができたのだ。
 

 
 2019年、南米で行われたダカールラリーへの参戦は合計4ライダーで受理されたが、しかしライダー同士で会話できるインターコムシステムの使用は認められなかった。ニコラにとってチームメンバーと会話できないことは致命的だったが、それでもペルーの砂漠で行われた5つのステージを超人的なチャレンジ精神でクリアしてみせた。しかしその後、オーガナイザー側との見解の相違から失格を言い渡されてしまったのだった。

 2020年にはダカールで行われた「アフリカ・エコ・レース」を完走。残るチャレンジはラ・パス~エンセナダ間で行われる2023年Baja1000となった。

 このレースに参戦し確実に結果を残すべく、ニコラはKTMと組んで大規模なチームを結成。レギュレーション上は最大で6人のライダーが1台のバイクを交互に乗ってゴールを目指すことになっているが、ニコラのスペシャルマシンは通常のライダーが乗れるものではなかったため特例が認められた。1台のバイクがスタートからゴールまで走り続けなければいけないことには変わりはないのだが、途中のセクションでニコラがスペシャルマシンで一緒に走った距離についても完走扱いとし、Baja1000のリザルトに正式に反映させる、となったのだ。チームメイトのジュリアン・ヴィラルビア、ルーベン・サルダナ、ジャスティン・ボイヤー、そしてニック・ケイブはそれぞれのステージを走り切り、そしてニコラはそれぞれのステージで合計400マイル以上もの距離をチームメイトたちと走ったのだった。
 

 
 11月16日木曜日の1時、ニコラとヴィラルビアはラ・パスから北を目指してスタート。10kmほど走ったところでニコラのマシンをバンに積み、ヴィラルビアはそのまま200マイル地点まで走行を継続。太平洋側のインスルヘンテスで再び合流し、今度はニコラが稜線の反対側、ロレトの近くに設定された310マイル地点までチームメイトに先行した。試走の時点でチームはニコラが無理なく走行できるルートを下見していたおかげでスムーズにレースを進めることができた。

 600マイル地点でニコラは再びバンに搭乗。東海岸のバハイア・デ・ロサンゼルスまで先回りし、1200マイル地点で再びチームと合流。そのままゴールまで共に走り切った。チームとしての総走行距離は1310マイル、39時間ものチャレンジの末、11月17日、金曜日の夕方に無事ゴールしたのだった。

 四輪・クワッド・二輪の合計で335チームのエントリーの中、ニコラのチームは総合79位でフィニッシュ。プロモト30バイククラスでは4位に輝いた。50時間以内というタイム制限内にエンセナダでゴールできたのは僅か132チームだった。

「13年と3秒」という時間を経て、ニコラ・デットゥは夢を確かに叶えたのだった。
(文: Klaus Nennewitz、写真: Tiziano Interno)
 

 





2024/02/12掲載