ヨシムラ創業者である故吉村秀雄さんの妻であり、現代表取締役社長・吉村不二雄氏の実母・直江さんが2023年8月5日、8耐の予選日に永眠した(享年98歳)。その直江さんを偲ぶ会が開かれ、約200名が訪れた。
会場には祭壇が設けられ、壁には思い出の写真が飾られ、テーブルにも直江さんの写真が置かれた。会場のコーナーには、秀雄さんが亡くなってから、初めて趣味を持ったと言う直江さんが作成した切り絵や、トールペインティングが置かれていた。在りし日の直江さんのビデオも流された。
長男の不二雄氏は「両親は、父がいいなずけのいる母を奪うという、今で言う略奪婚で一緒になりました。母は航空機関士だった父と結婚して、新婚旅行中に戦争が始まり、台湾にいた母を信頼する同僚のパイロットに託し福岡まで連れ帰ってもらうように頼み、自身は病院で治療中という、たいへんなスタートだったようです。戦後の焼け野原からヨシムラを始め、頑固な父の決断ひとつで、九州から東京、アメリカと動く父を母は支え続けました。そこには、相当の苦労があったと思います。母のおかげで、今のヨシムラがあると言っても過言ではありません」と語った。
95歳になってもヨシムラのある神奈川県から三重県鈴鹿までひとりで電車を乗り継ぎ8耐の応援にかけていた直江さん。
長女の南海子さんは「心配する私たちに、大丈夫だからと母はひとりで鈴鹿までやって来ました。母にとってレースは薬でした。赤と白のヨシムラのウェアを着ると背筋が伸びて歩き方まで変わりました。ヨシムラの一員としてきちんとしなければと思っていたのだと思います。本当に元気でいてくれて、コロナ後の8耐は、ピットに入る人数が制限されましたが、母は観客としてピットウォークに参加、1コーナーから最終コーナー近くにあるヨシムラのピットまで歩いて激励に行きました。ピットロードは上り坂になっているのに母はしっかりとした足取りで歩いて行きました」とレースを応援し続け気丈に生きた母を偲んだ。
南海子さんの夫で、モリワキ社長の森脇護氏は「最後は、鈴鹿の私たちの家で過ごしてくれました。働き者で、洗濯や掃除、料理と動いてくれ、すこし休んだ方がいいと声をかけるほどでした。ヨシムラでマフラー作りを手伝い、バルブのすり合わせまでした義母は、働き者で、もの事への集中力が高い素晴らしい人でした。生きようとする力が強く、私たち家族にとっては、大きな支えでした。110歳まで生きようと言っていたのですが……」と涙ぐんだ。
この会を準備したヨシムラチームを率いる孫の加藤陽平氏は「どれくらいの方が来てくれるのかわからず、少なかったらおばあちゃんがさみしがるかなと心配していましたが、本当に、たくさんの人に集まっていただき、おばあちゃんも喜んでくれていると思います。祖母、ヨシムラの1番のサポーターでした。こらからも天国で祖父母が応援してくれていると思って頑張りたい」と誓った。
孫の森脇尚護は「天国でおじいちゃんと仲良く楽しく過ごしてほしい。それが、孫たちの願い」と語った。
南海子さんが「父(秀雄氏)が“生まれ変わっても、一緒になろう”と言った言葉に、苦労が多かった母は“そんなこと言われたけど、答えなかった”と言っていたのが、父との別れの時、棺に眠る父に“また、一緒になってやるから”と声をかけていました」と教えてくれた。
直江さんは働き者の料理上手で、日々の食事も美味しかったが、お正月にはおせち料理も丁寧に手作りして家族にふるまった。思い出の味として、小豆から作るおはぎは絶品で、思い出の味と紹介され、会場では最後に直江さんを偲んでおはぎが振る舞われた。
戦後の混乱期から、ヨシムラを立ち上げ、アメリカ時代は、日本食しか食べない秀雄氏のために材料の調達に苦労しながら食事を用意し、さらに従業員の食事もまかなった。車社会のアメリカでの直江さんの移動は自転車で、荷台にたくさんの食料を積み、自宅と工場を往復していたと言う。ヨシムラ社員、ライダーを可愛がり、応援し続けた。不二雄氏が言うように直江さんは、昭和、平成、令和を生き抜き、ヨシムラを支え続けた。
(文:佐藤洋美)
■直江さんビデオ
https://qrtheater.jp/memorial_video/8d141c7a5c42c80f2cd48938c9add23245458?step=4
※この動画は 2023/12/18(月)まで閲覧できます。
■ヨシムラ・モリワキ
ヨシムラは第一回鈴鹿8時間耐久(8耐)で、故吉村秀雄氏(1995年没)が率いる町工場チームが大企業ホンダを打ち破ったことで知られる。ヨシムラからは、名ライダー、メカニックが生まれ、ヨシムラで働いていた森脇護氏は、吉村氏の長女南海子さんと結婚しモリワキを設立した。ヨシムラ、モリワキは、日本のレース界の老舗ブランドとして愛されている。