清成は2006年ブリティッシュスーパーバイク選手権(BSB)参戦3年目を迎えた。HMプラント・ホンダ・レーシング・チームからエントリーしCBR1000RRKを駆った。ドゥカティのグレゴリオ・ラビッラやレオン・ハスラムら強豪と熾烈な戦いを繰り広げ、遂に清成はチャンピオンに輝いた。日本人として初めてBSBタイトルを獲得し、「King Kiyo(キング・キヨ)」の愛称でイギリスファンから絶大な人気を得ることになった。
- ■文・佐藤洋美 ■写真:赤松 孝
- ■写真協力:清成龍一、チーム高武
■2006 BSBチャンピオン
2006年MotoGPに参戦していた高橋裕紀は当時の出来事を、今でも鮮明に覚えている。
「レースウィークでピットにいるとアンドレア・ドヴィツィオーゾが、おいこれ見たか? 見ないとダメだと、BSBの雨の清成さんの映像を見せに駆け込んで来た。その走りが、ものすごいインパクトがあって、闘志むき出しの走りでした」
GPパドックでも清成は話題となっていた。高橋は「今でも、時々、SNSに出てきて、やっぱり見入ってしまう」と言う。
この年の鈴鹿300kmではセブンスター・ホンダから高橋裕紀と組んで走り優勝を飾った。鈴鹿8時間耐久は玉田 誠と組みセブンスター・ホンダ7(CBR1000RRW)から参戦。優勝候補と目されていた。予選2番手からスタートし、序盤はトップを走るが、イレギュラーのピットインがあり、総合5位で終えた。
清成はMotoGPにもスポット参戦している。2005年バレンシアGPにキャメルホンダのトロイ・ベイリスの代役でエントリーしたが結果は12位。
「Qタイヤでフリーを走って、無理やりタイムを上げたりしたのですが、玉田さんに、“お前、何をやっているんだよ”って言われてしまった。どんなことをしてもタイムを上げたかった」
慣れないチーム、いきなりの参戦だけに、納得できるレースをすることが出来なかった。
2006年のMotoGPは、ニッキー・ヘイデンがチャンピオンとなる。メカニックの児浪 大は「清成がMotoGPに行った2003年にニッキーもデビューしているんです。清成も、あのまま、GPでキャリアを積ませてもらっていたら、ニッキーとチャンピオン争いが出来たんじゃないかと思った」と言う。清成を応援している人間は、児浪と同様の思いを抱えていたに違いない。アメリカホンダの強力なバックアップのあったニッキーと、代役参戦だった清成の環境の違いがあった。それでも清成は彼らしい一途さで、レースキャリアを紡いで行く。
■2007 BSBチャンピオン
2007年、清成は連覇を狙う(HMプラント・ホンダ/CBR1000RRK)。イギリス期待のルーキー、ジョナサン・レイがチームメイトだった。レオン・ハスラム(ドゥカティ)やレイと激戦を繰り広げながらも、清成は勝利を重ねV2を飾った。イギリス国内では「Kiyo人気」が高まった。
V2チャンピオン獲得でBSBファンだけでなくヨーロッパ全域のモーターサイクルメディアやファンに名前が知れ渡った。海外メディアには「日本人ライダーとして稀有な成功例」「戦略的かつ勝負強いライダー」として紹介された。
YouTubeには、10歳くらいの男の子が清成のサインをもらおうと、BSB開催のパドックを歩く動画がアップされていた。それは、清成のパネルを持ってレースを応援して清成を探すが、ニアミスで会えない場面が続き、最終レースを終えた清成をピット裏で見つけて、やっとサインをもらう。有頂天となった少年が、満面の笑みでサインを見つめ、夕陽を浴びて飛びあがって喜ぶ動画だった。
鈴鹿300kmはTeam HRCからレイと組んで優勝している。鈴鹿8時間耐久はジェームス・トスランドとのコンビでTeam HRC (CBR1000RRW)からエースナンバーの11を付けて挑んだが、予選4番手、決勝はリタイヤに終わる。
10月21日、全日本ロードレース選手権第7戦(最終戦)鈴鹿のJSB1000に参戦した(2レース開催)。3番手グリッドからホールショットを奪い、それをポールポジションの中須賀克行(ヤマハ)、2番手グリッドの安田毅史(ホンダ)が追う。オープニングラップからハイペースで飛ばす清成についていけるのは中須賀のみ。だが安田が再び追いつく。清成は再びペースを上げファステストラップを記録して突き放し優勝を飾る。
レース2も清成が好スタートを見せトップに立つ。2周目にはファステストラップを叩き出し独走態勢に持ち込みダブルウィンを飾った。
「久しぶりの全日本なので楽しみにしていたら、予選では逆に緊張してしまいガチガチになっていた。金曜日が雨だったので土曜日だけしかセットアップする時間がなかったが、2レース制はBSBで慣れているので、第2レースは、最終ラップ以外はうまく走れたかな。周回数を間違えていて、もう一周あるかと思っていたらチェッカーだった。BSBでは納得できるレースが一度もできなかったけれど、このレースと鈴鹿300kmは、いいレースができた」
凱旋レースで清成は、その力を示した。
「BSBでトム・サイクスや、カル・クラッチローとかジョニー(ジョナサン・レイ)と走れたこと。とても層が厚くてレベルの高いレースで勝つことは難しく、難関だったと思う。そこで、育てられた」
清成は静かに語った。
BSB終盤にはスーパーバイク世界選手権(WSBK)のチーム関係者が視察に訪れている。オフシーズンには2008年のHannspree Ten Kate Hondから清成の参戦が発表される。BSBチャンピオンとして世界戦でも結果を残すことが期待された。
■2008 WSBK
2008年の世界選手権スーパーバイクレース(WSBK)に、HANNspree Ten Kate HondaはMotoGPからスイッチしたカルロス・チェカと、BSBで2連覇を達成した清成龍一の2人がフルモデルチェンジしたCBR1000RRで参戦した。レイも同チームから参戦を開始。芳賀紀行(ヤマハ)、加賀山就臣(スズキ)、青山周平(ホンダ)、玉田 誠(カワサキ)、中冨伸一(ヤマハ)ら日本人ライダーに加え、ドゥカティのトロイ・ベイリスとマックス・ビアッジ、そしてヤマハにはトロイ・コーサーらがいた。
テンケイトチームは独自路線でマシンをモディファイし、その力に誇りを持ったチームだった。自分たちのセッティングに絶大なる自信を持ち、「これでタイムを出せ、結果を残せ」と、ライダーの意見は聞かない。まずは結果を残して、話を聞いてもらえるライダーになることが先決だった。新型になったマシン、初めて履くピレリタイヤ、口うるさいサスペンション担当者にてこずり、清成は苦戦する。それでも第5戦イタリアでは3位表彰台に上がる。
■鈴鹿8耐優勝
鈴鹿8耐は、ホンダにとっても清成にとっても大きなターゲットであり、ダンロップタイヤのテストをマレーシア、フィリップアイランド、鈴鹿と繰り返す。だが本番はブリヂストンへと変更になる。チェカが、ペアライダーに清成を指名し、エースチームへと格上げされた。
清成は、実はブリヂストンタイヤに苦戦しており、モリワキエンジニアリングの森脇 護社長は、「バイクに乗るのに、そんなに力入らないだろう。もっとリラックスして」とアドバイスしている。子供の頃から清成を見ている森脇社長は、清成の戸惑いを敏感に察知していた。清成はライディングポジションを変化させ試行錯誤して、自分なりの答えを見つけていく。
鈴鹿300kmではチェカと組んでDREAM Honda Racing Team 11から参戦し2位となるが、まだ悩みの中にいた。鈴鹿8耐最後のテストで、やっとタイムが上向く。
鈴鹿8時間耐久の決勝は、ドライコンディションから途中一時的な豪雨によりウェットに変わる難しいコース条件だったが、清成はその難しい路面を攻めチームを勝利へと導き、最後の走行はチェカが務めた。
「最後の走行の時、フロントブレーキが効かず、エンジンブレーキとリアブレーキでなんとか走行した。最後まで緊張したよ。最初に清成が飛ばしてくれたのが勝因だ」
鈴鹿8耐初勝利のチェカが、清成を讃えた。
「ブレーキのトラブルは僕の最後の走行の時からあったので、火花が出ているのを見て不安だった。最後の1時間は本当にハラハラした。無事に走り切ってくれ、勝てて本当に嬉しい」
2勝目の8耐勝利を、清成は喜んだ。
鈴鹿8耐を制した翌週に行われた第10戦グレートブリテン島のブランズハッチではダブルウィンを飾った。続く第11戦ヨーロッパ、ドニントンパークの2ヒート目を制して3勝目を挙げる。清成はパーツテストの役目もあり、ライドハイドデバイスを先駆けて取り入れていた。GPS機能を使い、コーナー毎にアジャストするなど先鋭的なテストをしていた。清成はそのテスト中で転倒して鎖骨骨折。折れただけでなく、筋を傷つけ首が動かなくなってしまう。何とか最終戦に復帰するが、思うようなライディングとはならなかった。
トロイ・ベイリスがチャンピオンを獲得。芳賀がランキング3位、清成が9位、加賀山が11位、中冨19位、玉田20位。青山は30位だった。
■2009 WSBK
2009年はTen Kate Honda Racing から参戦。芳賀がドゥカティに移籍、ヤマハにはAMAチャンピオンを3度獲得したベン・スピースが加入した。中野真矢が復帰したアプリリアから参戦開始、加賀山はスズキ、玉田はカワサキからの参戦だった。
清成は懸命にトライをするが、その闘志が空回りする。第5戦イタリアでは1ヒート、2ヒートと3位で表彰台に登るが、転倒もあり痛めていた鎖骨が悪化する。前年に入れたプレートが邪魔をして手術が上手く行かず、スポンジで鎖骨を保護する。しかし痛みは消えず、ライディングに支障をきたすようになる。それでもレースを諦められずに走り、ケガは悪くなる一方だった。終盤は欠場をせざる得なくなる。
ベン・スピース(ヤマハ)がチャンピオンとなった。芳賀が2位、清成11位、加賀山12位、中野14位、玉田は27位だった。
鈴鹿8時間耐久はWSBK第10戦チェコ・ブルノと重なり参戦できなかった。
BMWからオファーが来るが、テストが条件であり、ライダーとして専念できる環境を求めた清成はBSBのHMプラント・ホンダ/CBR1000RRKからの参戦を決める。
「WSBKは、大きなモーターホームがひしめいて、ものすごく華やかで盛り上がっていました。凄いライダーが走っていた。ここでしっかり勝って終われていない。また戻ってきたいと思いました」
シーズン途中にサスペンションが変わったことでリズムを崩してしまい、何とか乗りこなそうとして転倒して鎖骨を痛めた。オフシーズンには、痛めた鎖骨に骨を移植する手術を受ける。
■2010 BSB復帰
熱狂的なBSBファンはKing Kiyoの帰還を歓迎した。
この年から清成はトレーニングを見直すようになる。トレーナーの意見を聞き、自ら情報を収集して、独自のメニューを作った。「レースで疲れるのが嫌」だと、アスリートとしての自分を鍛え直したのだ。
セッティングに関しては「なんとか突破口を見つけようと、これまでは考えなかったようなセッティングにトライしました。イニシャルを1ミリ、雨は0にしたり……ギリギリを攻め続けた」が、独自のエンジンチューニングはうまくいかず、トラブルが続いた。
清成は気分一新、床屋に行くのが面倒くさいのもあったが、行き場のない思いを断ち切るようにスキンヘッドにして挑んで第4戦で勝利を挙げる。
真夏の鈴鹿8時間耐久には、MuSASHi RTハルク・プロから参戦する。JSB1000クラス参戦2年目の高橋 巧と組む。リザルトには、この時全日本ST600クラス参戦の中上貴晶の名があるが、清成/高橋のふたりで挑んだ。
酷暑となり路面温度は60度を超えた。清成はバイクを見直し、鈴鹿8耐に向けたセッティングを瞬時に導き出す。スタートライダーを務めた高橋が2番手で清成にライダー交代、首位に出るとその差を広げ、高橋にバトンを渡す。独走体制を築き、高橋を支えて最後は1.5時間を担当して優勝のチェッカーを潜り抜けた。清成は8耐3勝目、20歳の高橋が最年少優勝を果たした(記録上は未出走の18歳中上)。2位にはKeihin Kohara Racing Teamの伊藤真一/玉田 誠組(CBR1000RR)、3位にはFCCTSRホンダ秋吉耕佑/ジョナサン・レイ組(CBR1000RR)と、強豪を押さえての勝利だった。
清成が振り返った。
「巧も自分も腰が痛くなりきついレースでした。巧の最後のスティントの時、辛くなったら、帰って来いって送り出したら、すぐに足を出して戻って来て。おい、若いんだからもうちょっと、頑張れよって思ったんですけど、後は自分が引き受けた」
高橋は、この時に誓った。
「自分は何も出来ず、清成さんのお陰で勝てた。この恩を、いつか必ず返す」
転倒者が多く出た過酷な8耐勝利に高橋はピットで泣いていた。あまり感情を表に出すことのない高橋の初めての涙だった。清成の超人的な走りと劇的勝利に、中上も、当時J-GP3を戦っていてヘルパーとして参加していた浦本修充も号泣した。
「巧が自分に合わせてくれた。体力には、ちょっと自信があったので、気温40度近くなった暑いレースで、他がテストや予選で出したタイムより落ちたが、自分は落ち幅が少なくいけた」と、清成は勝因を振り返る。
高橋が、清成への思いを語る。
「この8耐から、いつか清成さんに恩返ししたいと、それが出来るライダーになりたいと頑張っていました。その後、チームオンの合宿に10年以上参加させてもらって、バイクに乘るだけでなく、フィジカルに強い清成さんのトレーニングの仕方を見て研究しました。レースに向かう意識など、学ぶことが多く、一緒に過ごすことが出来た時間に感謝しています」(続く)
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