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レース・イベント






MiniGPの参加資格は10歳~14歳、世界各地で開催され、マシンや競技規則、技術規則などを統一することで、世界中の若手ライダーたちに平等な舞台を提供。競技車両はFIM MiniGP国際規則により規定されたOHVALE(オバーレ) GP-0 160を指定車両とする。シリーズ戦で争われランキング上位者は世界大会への出場権を得る。一般財団法人日本モーターサイクルスポーツ協会(MFJ)の承認競技となり、日本では“ジャパンシリーズ”として2022年より開催。 主催するのは「株式会社P-UP World」、運営は「株式会社Moto-UP」が行っている。MiniGPジャパンシリーズの運営を行っている中込正典氏に話を伺った。
■文:佐藤洋美 ■撮影:赤松 孝

 2022年チャンピオンの池上聖竜はワールドファイナルで3位となり、2023年チャンピオンの富樫虎太郎は2位となった。MiniGPジャパンを主催する中込正典氏は「2024年は1位しかない」と語っていた。
 2024年のFIM MiniGPファイナルはMotoGP(ロードレース世界選手権)最終戦に先駆けて開催された。アンバサダーにはワールドチャンピオンのフランチェスコ・バニャイアやホルヘ・マルティン、ファビオ・クアルタラロ、ペドロ・アコスタが顔を揃えた。

 2024年のワールドファイナルには、世界16か国で開催されているシリーズの上位ライダーが参戦した。そこで国立和玖が1位を獲得して日本人初のMiniGP世界チャンピオンとなった。決勝は不順な天候だったこともあり中込氏は国立を称えながらも「納得した1位ではない」と語っていた。
 そして2025年、納得したチャンピオン獲得のために、MiniGPが動き始めている。

#Nakagome-Interview

 2025年MiniGP開幕戦が茨城県筑波サーキット1000で開催された。中込氏はスタッフの一人として、忙しく働いていた。主催者はコントロールタワーの特別な椅子に座っているというイメージだが、それとはとても遠い姿だ。レース全体が円滑に進行するように、全てに目を配り、誰よりも動いている。
 中込氏はライダーを支援する人物として、レース界では超が付く有名人だ。長島哲太、山中琉聖らが代表格で、他のライダーたちの名前を上げたらきりがない。チーム単位の支援も多く、レース界を支える人物だ。

 その中込氏がMiniGPジャパンシリーズを始めたのだ。FIMやMFJとの調整、サーキットとの日程を決め、オフィシャルやメカニック、アドバイザーを揃えた。他国ではマシン購入は個人だが、中込氏はマシンを自ら購入し参加者の負担を軽減している。参加費用を抑え、主催者がメンテナンスして、完全レンタルで行っている。3台に1名の専属メカニックがつく。保護者がマシンを触ることはない。これはジャパンオリジナルルールであり、徹底した平等のためである。

 この組織作りが短期間で出来上がり、機能していることが奇跡のように思う。さらに、このシリーズを運営する事での金銭的利益はないのだ。ないだけでなく、持ち出しなのだ。企業として考えたらリターンの無い赤字経営なのだ。
 何故、中込氏は、このシリーズを始めたのだろうか?

#Nakagome-Interview
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—バイクの出会いから教えてもらえますか?

「16歳になり米屋のバイトを始める時に免許を取らされました。Hondaのカブで米を配達していました。あの当時は、16歳になると免許を取ってバイクに乘るのは当たり前のような時代だったので、自分もバイト代を貯めRZ250 を買って、友達と峠や、船の科学館の駐車場、団地など走れる場所を見つけて、仲間とあいつが速い遅いってワイワイやっていました」

—それが、レースを始めるようになるきっかけですか?

「友達がレースを始めたと言うので、筑波サーキットに観戦に出かけました。予備知識もレースへの憧れもなく、ただ友達を見に出かけただけでした。ですが、自分たちとは明らかに違うスピードで走るライダーがいて、結果としてタイムが出るので、誰が速いのか一目瞭然です。これはすごい世界だと思い、衝撃を受けました。すぐにレースをしようと思いました。でも、どこから手を付けていいの分からない。それでも、とにかく始めなければと思いました」

—チームに所属したんですか?

「そういったことも分からないので自走して、サーキットのスポーツ走行に通うようになります。18歳になって4輪の免許を取るとハイエースにバイクを積んでサーキットに出かけてSP125クラスに参戦しました。その後にレーサークラスに変えて、1986年頃は20歳前後ですが、1987年開幕戦筑波では3位に入り、6位前後を走るようになり、1988年ジュニアに上がりました」

—その頃はバイクブームで予選には4~500台が集まり、予選時間も10分単位で2~3周出来れば良いというくらいの激戦の時代ですね。1988年ジュニアクラスは原田哲也選手や若井伸之選手(原田はWGP250チャンピオン。若井もWGPで活躍した)がいました。

「原田選手は圧倒的な速さでしたね。若井選手と筑波で3番手争いのバトルをしていてダンロップ下で若井選手がスリップダウンして、真後ろにいた自分も転倒してしまいました。当たったわけではないのですが、避けられずに転んでマシンが大破して、左手首をケガしました。ケガは1ケ月ほどで直りましたが、バイクは全損で、新たにバイクを購入のために、お金を稼がなければならなくなりました」

—世界を夢見ていたのですか?

「世界までは考えてなかったですが、国際A級に上がりたいと思っていました」

—レース資金調達のために起業されたのですか?

「すぐに起業したわけではなく、数年は忙しく働いて、稼いだお金はパーッと使ってしまってレースへの復帰が伸び伸びになりました。30歳の頃はガソリンスタンドで働く従業員教育やセールスプロモーションの仕事をしていたのですが、アメリカ視察に出かけた時に携帯電話に目がいき、これからは携帯電話だと思い、その販売を始めました」

#Nakagome-Interview
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—独自の展開で急成長され、若手起業家として注目を集める存在になりました。社会的にも大成功されて、今度はライダーとしてではなくレース界に関わるようになるんですね。

「余裕が出来た時に、もう一度、レースをしようと思ったんです。125ccクラスは、さすがにハードルが高く、S80に乗ってみたんです。ブランクもありますが、ダメダメで、これは応援する側に回ろうと思いました。息子が3人いたので、レースをやってもらいたいと思いました。興味を持ってもらいたくて、鈴鹿8時間耐久に仮面ライダーチームが参戦していた時、佐藤 健さんが主演の時ですね。チーム支援をしてスポンサーとして息子を連れて鈴鹿8耐に出かけました。仮面ライダーは喜んでくれましたが、レースにはまったく興味を示さず、“早くプールに行こう”と言われました。翌年も仮面ライダーチームを応援して再挑戦したのですが、子供たちの反応は変りませんでした。バイクにも乗せたのですが、一人がケガをしてしまって、危ないからと家族の雰囲気が出来てしまい諦めました」

—それでも、レースを応援しようという気持ちが残った。

「レースをしていた頃に行ったことがあるレーシングチーム・ハニービーに飛び込みで支援させてほしいと訪ねました。チームを応援していたんですが、チームオーナーの菅原会長が事故でケガをされ、縮小されると聞き、ショップとチームを引き継ぎました。自分でもチーム運営を始めて、そこで出会った長島哲太を応援するようになったのです」

—金銭的な支援だけでなく衣食住を含めた環境をしっかりと整えて送り出していることが素晴らしいと思っていました。

「走ること以外に気を使うのは一番無駄だなと、住むところは? 食事は? 移動は? フライトはどうしようとか考えることなく、レースに集中出来るように整えようと思いました。単身でヨーロッパに出かけたら、若いライダーはそれだけで雰囲気に押されてしまう。力を出せないのではと思いました。メカニックだけでなく、参戦当初は生活面のフォローをする人などを帯同させました」

—長島選手はMoto2で勝ち、日本を代表するライダーになり、ホンダファクトリーの鈴鹿8耐チームに呼ばれるライダーへと成長します。

「どうして哲(長島哲太)を長い間、応援し続けるのだと言う人もいますが、彼は毎年決めた目標をクリアしているんですよ。CEV(スペイン選手権)を走っていた時にケガをしてしまい、レースに出るのは厳しい状況でドクターストップがかかった。結果が残らなければ、支援は打ち切るという場面でした。哲は医務室でケガをした身体で腕立て伏せをして、ドクターストップを解除してレースに参戦して目標を達成している。そしてWGPに戻り技術を磨いて成長して行きました。その時々で話し合い、タイムだったリランキングなどシーズン前に決めた約束を守れなかったら終わりです。それを毎年、哲は乗り越えて行きました」

#Nakagome-Interview
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—多くのライダーやチームを支援されていますが、MiniGPをやるというのは、違う取り組みになります。コースを決め、人を集め、ルールを決め、運営して行く。考えただけでも大変な作業です。

「最初は応援したいなという気持ちだったんですが、誰もやる人がいないので、“やってもらえませんか?”と打診されました。ミニバイクレースを主催した経験があり、その時に集まったのは自分と同世代の人が多く、それも良いですが、若い人にも集まってほしいと思っていました。出来れば未来につながることがしたかった。なので2021年のMotoGP最終戦に哲と視察に出かけました。ドルナ(MotoGP主催団体)との話し合いを経て開催を決めました」

—車両は1台80万円、それを50台購入し、スペアパーツを入れたら車両代金だけで、相当な金額になります。それらのマシンを運ぶためのトラック、メンテナンスのためのガレージなどの準備。開催スケジュールを決め、コースを貸し切り、メカニックや運営スタッフなど考えただけでも、軽く数千万円は超えます。とても大きな決断だったと思いますが。

「コロナの影響もあり開催に間に合うかが心配でした。参戦ライダーが小学生、中学生と若いので、安全を1番に考えました。車両のコンディションを整えること、ハンデが無く挑んでもらうためにデータを集めたかった。マシンに対する苦情があった場合に、データロガーを見て、タイムが出ないのはマシンなのか、ライダーの問題なのかも示せるように、しっかりと準備したかったというのがありました。シリーズ戦ですが、ライダーが同じバイクに乗ることはなくシャッフルする。優勝したライダーは次戦では最下位のバイクになります。親が『バイクのせいで負けた』とならないように、平等であることを徹底したかったからです。だから開幕前の準備は大変でした」

—エアバッグの装着義務を含め、ヘルメット、タイヤサービスが揃い、本格的なシリーズ戦が始まりました。アドバイザーには長島選手を始め、尾野弘樹選手、渡辺一馬選手、藤井謙汰選手ととても豪華です。他の国では、自らバイクを購入して、メカニックを雇うか、親がやるなどするのが通常のスタイルだと聞きました。日本のライダーはとても恵まれています。

「日本のライダーのレベルはとても高いと思いますが、ヨーロッパや、他のアジアに比べて走行時間を確保するのが難しい。マレーシアのコースでは午後4時~6時までは占有走行枠があるところもあります。そこが課題でもあります。参戦環境は恵まれているかもしれませんが、日本の環境と考えると、決して恵まれているわけではないと思います」

#Nakagome-Interview
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—昨年は、公約通り参戦3年目で世界チャンピオンが誕生しました。

「天候が悪く、速さで勝ったというよりも経験と技術で勝った。それも素晴らしいと思いますが、今年はぜひ、速さで世界一になってほしい」

—何故、そこまで情熱をかけて支援するのでしょうか?

「初めて見たレースの衝撃が大きかったですね。忘れられないんです。当時はサーフィンをするかバイクかという時代で、自分的にはサーフィンは軟派でレースは硬派のイメージでした。男ならバイクと、単純ですが夢中になりました。決してレースをしていた年数は長くはないですが、そこに取り組んだ時間は、自分にとってはかけがえのない時間でした。バイクにレースに出会えたことは、財産だという気持ちがあります。あの時があったから、頑張れるというところがあるんです。自分は資金がなく走り続けることができなかったので、資金がなくてもレースが出来る環境をつくりたい。経済的な問題で続けられなかった人の中には秀でた才能を持ったライダーがいるかもしれない。それを少しでも救うことが出来たらと思っています。まだ日本人で最高峰クラスの世界チャンピオンはいません。その誕生に少しでも貢献したいと思っています」

 ⅯiniGPのスタッフは20人を超える。その中の10名は、中込氏の会社の社員だ。ボランティアとして手伝っており、昇給や評価には全く影響がない。それを承諾した上での参加だ。他スタッフは外部委託だが、多くの人が中込氏の取り組みに惹かれて集まっている。

 MiniGP上位卒業ライダーはMotoUP ジュニアチームに所属している。2022年の池上聖竜、松山遥希は、イデミツ・アジア・タレントカップ参戦。2023年の富樫虎太郎はSDG Jr. 56RACINGに所属し、MotoUP ジュニアチームではないが、卒業生としてのフォローは継続されている。国立和玖と2024年の知識隼和に加えて中谷健心の3名はMotoUP Racingから全日本ロードレース選手権J-GP3に参戦する。

 中込氏のもとには多くのライダーやチームが訪れ支援を願って訪れる。しかし、誰でもが支援を受けられるわけではない。中込氏の心を動かした者だけが、その恩恵に預かれる。Moto3で活躍する山中は約束を守れずに支援を打ち切られたが、その後も世界を走り続けるために、多くの企業に企画書を送り自ら資金を調達した。その熱意に打たれて中込氏は足りない部分の支援を継続している。

「MiniGPは10年計画です。現在は4年目、後6年です。6年後には自分は65歳になるので引退を考えています。後を引き継いでくれる者が現れるかはわかりませんが、そこまでは続けたいと思っています。それまでに世界チャンピオンが生まれてくれたらと願っています」
 中込氏はそう言った。

 中込氏と出会ったことで人生が変わる者が確実に存在する。大きな時代の流れの中で、その幸運を掴み取り、たゆまぬ努力で成長したものだけが栄光を得る。自身の中に眠る才能を磨くのは己自身であることを示しながらMiniGPは開催されている。
(文・佐藤洋美、写真:赤松 孝)

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[『2025年 MiniGPジャパンシリーズ開幕戦 筑波サーキット1000』へ]

2025/06/23掲載