憶測や物議を醸した『鈴鹿8時間耐久』(7月28日)を終えて、全日本ロードレース選手権第5戦2&4(8月18日決勝)がツインリンクもてぎで開催された。4輪との併催でJSB1000のみ開催。事前テストは8月6日7日で行われ、鈴鹿8耐を沸かせた日本のトップライダーたちはスプリントレースへと気持ちをスイッチ。ホンダワークスHRCの高橋巧はマシントラブルからストレートで転倒、右足の腓骨を骨折してしまう。すぐに入院、手術してレースウィークの火曜日に退院。もてぎに移動しメディカルチェックを受けて練習走行に参加した。マシンを降りると右足を引きずるが、トップタイムを記録、予選でも5戦連続のポールポジションを獲得した。だが、数周でピットインし、その後は連続走行が出来ていなかった。
もてぎは、ロードレース世界選手権(WGP)開催サーキットで、その周回数に合わせて通常の全日本よりも走行距離が長く23周で戦われる。酷暑となり気温は35度を超え、路面温度も60度近く上昇。4輪走行でラバーが残り、グリップ感がないという悪条件の中での戦いだった。高橋は「最後まで持つのか、やってみなければわからない」としながらも今季5勝目を目指してグリッドについた。
ヤマハファクトリーの王者・中須賀克行とムサシRTハル・クプロ(ホンダ)の水野涼、そして高橋がトップ争いを展開、終盤は中須賀と水野のトップ争いとなり中須賀が勝利、2位に水野、3位に高橋が入った。高橋はマシンから降りると、すこし辛そうにマシンに寄りかかり、顔を伏せたが、表彰台には自力で登った。3位に入り「最低限の仕事が出来た」とシリーズポイント(P)を164Pと伸ばしランキングトップを死守、2位には中須賀が浮上するが、141Pと、その差は23P、残り5戦でタイトル獲得を狙う。
高橋がチャンピオンにこだわるのは訳がある。
「来季はワールドスーパーバイク(SBK)に行きたい」からだ。
「レースを始めた頃から、世界に出たいと思い続けて来た。そのチャンスを掴むために頑張ってきた。もう29歳だが、諦めたくないし、諦められない」
今年の鈴鹿8耐決勝後に宇川徹監督は「巧頼みの8耐になり、巧を酷使してすまない」と語った。巧頼みだったのは、今年だけじゃない。高橋はホンダのために献身的に走り続けて来たのだ。
12歳の内気な少年が言った。「レースをやりたい!」
F1好きの父は男の子が生まれたら「レーサーになってくれたら」と願った。巧が3歳の誕生日に、まずはポケバイからと購入。会社員の父にとっては、ポケバイ家族が集まるサーキットの熱気は、楽しみというより、鍛錬の日々で、夢中で巧をポケバイに乗せ、週末のレースをこなしていた。走り続け3年が過ぎた頃、ミスター・バイクで、阿部典史(ノリック)がダートを走っていた記事を見て、7歳からダートレースを開始。8歳になると埼玉県の桶川塾(WGPライダー青山博一、周平、高橋裕紀、清成龍一らは先輩となる)に招かれる。同世代のライダーたちと切磋琢磨しながらサーキットを疾走した。夏、春と長い休みには合宿があり、バイクにどっぷりと浸かる日々を過ごす。ミニバイクレースにダートレースと年間30戦をこなした。その間、ノリックが修行に出かけたアメリカ・カリフォルニアのローダイ・サイクルボールへも親子で出かけた。右も左もわからない場所で、手探りで走り、海外の自由な空気を吸った。
だが、レースは、金銭的に厳しい世界である。続けるべきなのか、岐路に立つ。12歳の巧に父は「これから本気でレースをやって行くつもりなのか?」と聞いた。口数が少なく控えめな巧が「やりたい」と答えた。
父が当時を振り返る。
「辛いこともあったと思うが、この子が、バイクを嫌いだと感じたことはなかった。天才肌ではなく、努力の人だと思う。私が付き合えない時は、母親とサーキットに出かけ、休むことなく黙々と走り続けていた。負けたくない思いだけだったのかも知れないが、この時、レースを続けようという自覚が、巧なりに出来たように思う」
高橋は「ずっと、バイクばかりで、他に何をやればいいのか考えられなかった。自分にはこれしかないと思った」と、12歳の決断を語った。
高橋は、真っすぐにレースへと突き進み、13歳で国際ライセンス昇格、15歳から全日本GP250で走り始め、4年目となる2008年5戦中4勝と圧倒的な強さでチャンピオンに輝く。ワイルドカード参戦したWGPでの走りを見た海外チームから声がかかるが、高橋は日本で腕を磨くことを選択する。18歳で、初めて鈴鹿8耐に参戦、レースウィークにケガをしたライダーの代役としていきなりの参戦だった。JSB1000の経験がほぼない状態ながら高橋は3位表彰台に登ったのだ。
「表彰台率100%」──鈴鹿8耐での活躍。
2009年にハルク・プロに移籍し、JSB1000参戦開始。この年の鈴鹿8耐でも3位に入る。
2010年には清成龍一と組む。清成はマシンセッティングを見直し高橋をリードし勝利に導く。全日本でもランキング3位となり高橋はトップライダーとして認知され始める。2011年鈴鹿8耐も3位となる。
過酷な戦いで知られる鈴鹿8耐で表彰台に登ることは至難の業だが、高橋は、4年連続で表彰台に登り、「表彰台率100%」と呼ばれるようになる。全日本ではランキング2位へと浮上。2012年清成と再び組み、青山博一の3人で挑むが、清成が首位を奪回しようと挑み転倒、マシンが炎上、煤だらけのマシンをピットまで運び修復し、41位で完走した。
2013年エースライダーとなった高橋は、SBKのレオン・ハスラム、スーパースポーツ600で初参戦のマイケル・ファン・デル・マークと初の顔合わせで挑む。ハスラムは左足を怪我しており、ファン・デル・マークは初めての鈴鹿8耐で、しかも大排気量マシンの経験が少なく、この時は1回しか走行せず、高橋への負担が大きくなる。それでもスタートライダーを務め、4時間を走行し、終盤に雨が落ちるコンデションの中で、冷静な判断でチェッカーライダーを務め勝利へと導いた。
2014年は、同メンバーで挑み、スタート直前に大粒の雨が落ちレースディレイ、4回もセーフティーカーが入る荒れたレースとなったが、ここでもスタートライダーとチェッカーライダーを務めチームを引っ張り2連覇達成。2015年には、MotoGPチャンピオンのケーシー・ストーナーとファン・デル・マークと組むが、ストーナーがトラブルから転倒、肩と足首骨折でリタイヤ。2016年はニッキー・ヘイデン、ファン・デル・マークと挑む。高橋はファーステストラップを記録する速さを示すが、マシントラブルでリタイヤ。2017年は中上貴晶、ジャック・ミラーと挑むが、中上の転倒、トラブルとアクシデントが重なり4位。そしてこの年、高橋はJSB1000参戦9年目で念願のチャンピオンに輝く。
そして2018年、遂にホンダワークスが10年ぶりに復活。高橋はエースライダーとして移籍、鈴鹿8耐もワークスチームとして参戦。MotoGPライダーとなった中上、SBKのパトリック・ジェイコブセンと挑んだ。スタート直前に豪雨となり、不安定なコンディションとなった戦い、前半4時間中、高橋は3時間半を走りトップ争いを繰り広げ2位。全日本では中須賀克行が8度目のタイトルを得て、高橋はランキング2位となる。
今年、JSB1000では4連勝を飾り、鈴鹿8耐テストでもほぼトップタイムを記録。念願の清成と組むが、清成は体調不良で走らず。ステファン・ブラドルと組み、最後は連続走行でSBKで4度の王座につくジョナサン・レイとのバトルを繰り広げ3位。
表彰台で「本当に悔しい。悔しいです」と珍しく語気を強めた。
世界への道を阻んだのは「8耐」だったのか?
清成が「巧はミスをしない転ばない信頼できるライダー」と語るように、雨でも晴れでも、微妙なコンデションでも、高橋はブレることなく最速タイムを刻む。これまでの鈴鹿8耐、エースライダーとなってから誰が来ようがチーム最速を記録し、チームの要になってきた。困ったときには高橋を頼り、コースへと送り出してきた。高橋はその責務に応え続けた。
ホンダは高橋を鈴鹿8耐の絶対要員として頼り、世界への夢も「鈴鹿8耐優先」が邪魔してきたのではないか。高橋が駆り続けてきたCBR1000RRは名車だが、ライバルメーカーに対して非力だった時代もあり、リニューアルされたが、そのマシンを駆る最速ライダーとしてサテライトチームで奮闘して来た。念願のワークスライダーとなり、2年目の今季は、高橋の願うマシンに近くなり、その才能を引き出すことに成功している。
「勝たないと、結果を出さないと言いたいことが言えない。だから、勝ちたい、タイトルを取って、来年は世界へと言いたい」
2017年は開幕2連勝の褒美にWSBへのワイルドカード参戦を経験、今年もスポットの話が出ているようだが、ワイルドカードで力を発揮するのは難しい。ましてやSBKは、ピレリワンメークで、ブリジストンで開発を進めて来た高橋にとっては、まるで、別物のマシンでの戦いになる。それでも、世界で自分を高めたい気持ちを抑えることが出来ない。
レイとのバトルが、来年は「世界」で見られるのか。
今年の鈴鹿8耐の最大の見せ場は、レイと高橋の意地の張り合いのようなトップ争いだった。エンジンもタイヤもライダーも路面も厳しい状況の終盤に連続走行で飛び出しタイムアップしバトルを繰り広げた。高橋は「最後の走行では、こんなに攻めたことはないと言えるくらいに攻めた。結果的に負けたことを受け止めるしかないが、納得していない」と語る。
レイと勝負するためにはSBKで真っ向勝負するしかない。
来季はSBKライダーとなり、更に腕を磨き、世界の高橋として鈴鹿8耐に帰って来て、念願の鈴鹿8耐勝利を挙げてほしいと、多くのファンは、そう願っている。日本で力を示すことで海外への夢を掴めると高橋が示すことは、若手ライダーを鼓舞することにもつながる。
全日本ロードレースは、残り3戦5レースの戦いが続く。王者中須賀の復活、若手ライダー水野や野左根航汰(ヤマハ)らの台頭と、全日本の戦いも過酷だ。痛手を負う高橋にとって楽な戦いではないが、力を示すことで夢を手繰り寄せようとしている。次戦は9月1日岡山県岡山国際サーキットで開催される。
PS.
清成と組んで鈴鹿8耐初優勝した2010年、高橋は最後の走行を清成に託し、優勝のチェッカーをくぐる清成を涙で濡れた目で見つめた。
本人は泣いてなんかいないと言うが「清成さんに頼りっぱなしだった自分が情けなくて……」と後日語っている。まだJSB10002年目の20歳の高橋にとって、チームをひっぱり勝利へと導いた清成の姿が理想のライダーとして刻まれたように思う。そんなライダーになりたいと高橋は努力し、そんなライダーになった。そして、いつか、その恩返しがしたいと願い続けた。
高橋は「今年の鈴鹿8耐で、ヤマハが勝ったら、中須賀さんとマイケルが5勝になって宇川さんが持つ最多5勝に並ぶ。それは阻止したかった。清成さんは走れなかったけど、自分が勝てば、4勝の記録を持つ清成さんを表彰台に連れて行ける。清成さんが5勝になって宇川さんに並ぶ、そうしたかった」と語っていた。
清成の速さ、強さを疑う者はいない。まだ、気が早いが、来季の鈴鹿8耐はオリンピックイヤーで、7月19日決勝、高橋の恩返しが叶うのかも含めて注目したい。
(文:佐藤洋美)
●2019 JSB1000 Race Calendar
第6戦 8/31(土)~9/1 (日) 岡山・岡山国際
第7戦 10/5(土)~10/6(日) 大分・オートポリス
第8戦 11/2(土)~11/3(日) 三重・鈴鹿
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