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スズキとのタッグがスタートしたヨシムラは、高度なチューニングを施したGS750/1000を矢継ぎ早にサーキットへ投入。誰もが予想していなかった劇的勝利を飾るなど、東西に巨大なバンクを持つデイトナ・インターナショナル・スピードウェイでは大きな活躍を成し遂げた。山田昇吾と吉村不二雄のデイトナは記憶は今も鮮明だ。
そんな活躍もあり、サイクルニュース紙の広告やライダー達の革ツナギの「ND」マークが話題を呼び、ヨシムラとデンソーのアメリカでの認知度が上がっていく。
そして、一度も休むことなく今も続いている鈴鹿8耐への参戦が始まる。
■文:佐藤洋美 ■写真:木引繁雄、赤松 孝
■監修:石橋知也
■写真協力:デンソー、吉村不二雄 ■取材協力:デンソー、ヨシムラ

アメリカでの認知度が爆発的に上がる!

 1977年6月、スズキから2台のGS750がヨシムラに届いた。Yoshimura SUZUKI GS750のAMAスーパーバイク選手権公式戦デビューは8月11日のオンタリオでのテストを経た9月11日、第6戦ラグナセカだった。
 スティーブ・マクラフリンのSUZUKI GS750は吉村秀雄の手によってチューニングされ、944ccまでボアアップされたエンジンの最高出力はノーマルの68馬力から125馬力まで高められていた。同時に出場していたウエス・クーリーの乗るZ1はリタイアしたが、GS750/944は初勝利を手に入れた

 10月2日にリバーサイドで行われたシリーズ最終戦ではZ1に乗るW・クーリーがスーパーバイクで初優勝を果たした。一方GSはクラッチトラブルに見舞われリタイアに終わった。1977年に入ってからはZ1000(903ccのZ1から進化した1015ccモデル)に対抗する形でスズキはGS1000の開発を開始しており、年初には完成した試作車両はヨシムラの下へも送られてきた。

 山田昇吾がアメリカ赴任で最も印象に残るのが1978年3月のAMA開幕戦、デイトナ・インターナショナル・スピードウェイで開催されたスーパーバイクレースだ。
 デイトナのスピードウェイは、おむすび状のトライオーバル(外周路)とインフィールドが組み合わされた複合レイアウトで、東西に巨大な31度バンクを持つ超高速サーキットとして知られる。メインスタンド前の18度バンクやバックストレートエンドでは300km/h 近いスピードを記録する。31度バンクは、壁を走る感覚に近い傾いた路面だ。東31度バンクからグランドスタンド前の18度バンク(ここでフィニッシュラインがある)や、西31度バンクからバックストレートにかけては、スリップ(米国英語ではドラフト/ドラフティングと表現する)を使い合う高速バトルが繰り広げられる。インフィールドは、まったくカントがなくフラットで低速、中速のコーナーが続く。世界有数の高速でかつ難コースであり、特にエンジンとタイヤには想像を絶する負荷がかかる。

 ヨシムラは、S・マクラフリンにGS1000、W・クーリーにZ1、加藤昇平(秀雄の次女・由美子の夫、ヨシムラパーツショップ加藤の代表)にはGS750/944の3台体制で臨んだ。

#技術のデンソー、パワーのヨシムラ
1977年9月、サイクルニュース紙に掲載されたヨシムラの広告。スティーブ・マクラフリン駆るGS750が初勝利を収めたことに加え、ヨシムラのパーツを組んだZ1が3位に入っている。「Thank you」のトップには「ND Spark Plugs」の文字も。

 この年からアフターパーツの集合管の装着がレギュレーションで認められ、GS1000にも装着された。スターティンググリッドを決める独特の予選ヒートレース(全車を2組に分ける)では、ヒート1に出場したW・クーリーが優勝。Z1フレームを森脇 護(秀雄の長女・南海子の夫、モリワキエンジニアリング創業者)が改良したフレームに変更した事が功を奏し、これまでのように直線で振られることがなくなったのだ。ヒート2では加藤が優勝した。S・マクラフリンのGS1000はクランクシャフト破損によりリタイアとなり、決勝は最後尾からのスタートになった。

 決勝では加藤とW・クーリーのトップ争いとなるが、加藤がリタイア。S・マクラフリンは最後尾から猛然と追い上げ、6周目にはW・クーリーも抜いてトップに躍り出た。不運な事にS・マクラフリンのGS1000が跳ね上げた石が、W・クーリーのZ1のオイルクーラーを破壊する事態が発生し、W・クーリーはそのままリタイア。S・マクラフリンがGS1000をデビューウィンに導いた(彼はGS750のデビューウィンも飾った)。
 山田は「デイトナのバンクでレースを見ることが出来た。バンクから続くフラットなコーナーでのブレーキングで、一番遅く頭を上げるライダーが速いと教えられて目をこらして見ていた。それは、ものすごい迫力でね。レースでは、ビリからS・マクラフリンが追い上げて勝つのだけど、考えられないことが起きた」と、今も笑顔がこぼれる。
 吉村不二雄も、この日のことはよく覚えていて「同じ日の午前に予選ヒートレースがあって、午後に決勝があった。ヒート1でGS1000はエンジンが壊れて、組み直して出た決勝レースだった。このレースはGS1000のデビューでもあり、仕上がっていて自信はあったが、最後尾からの優勝は予想していなかった」と言う。

 喜びに沸くヨシムラ陣営を招いて、山田は祝勝会を開いた。この時は、デンソーロスアンジェルスOFFICEの大岩社長も視察に訪れていた。近くのメキシカンレストランを予約した。
 参加者はチームスタッフの20人くらいだったはずなのが、スタッフの彼女や、その友人たちが押し寄せ、人数は倍以上に膨れ上がり、大騒ぎで祝杯を挙げた。もちろん加藤のGS750 のヒートレース勝利も祝った(デイトナの日本人優勝は初の快挙)。

#技術のデンソー、パワーのヨシムラ
1978年、デイトナ・インターナショナル・スピードウェイでのW・クーリーとZ1。ゼッケンプレート下の巨大なオイルクーラーに石が直撃する不運に見舞われる。

 また、1977~1979年にかけてW・クーリーやS・マクラフリン(1977年2戦、1978年1戦)などヨシムラライダーの革ツナギに胸には、デンソーの「ND」マークがデザインされていて、これも大きなアピールになった。

#技術のデンソー、パワーのヨシムラ
ヨシムラとデンソーの当時のパートナーシップを現すひとつが、ライダーの胸に描かれた「ND」マーク。写真は1979年のデイトナ。

 山田は不二雄と相談して、アメリカのサイクルニュース紙(週刊の新聞)に広告を出すなど、PR活動を展開し、ヨシムラもデンソーも、アメリカでの認知度を爆発的に上げた。山田がディーラーやパーツショップに行くと、サイクルニュース紙を見ている人が多く、ヨシムラが使っているプラグだと商談が進んだ。
「ヨシムラが使っているならと購入が確実に増え、売り上げの上昇につながった」
 現場ではパーツの開発も進めていた。不二雄は「山田さんが、いくら良い人でも、製品としての優秀さがなければ、それを使い続けることはない」と言い切る。
 当初は、4輪で性能が確認されたプラグを提供していたが、マシンの馬力が上がると、プラグに求められるレベルも当然、上がって行く。

第1回鈴鹿8時間耐久オートバイレース

 日本では、1970年代半ばのオイルショック後、景気が持ち直し、1977〜1978年頃から 若者によるバイク人気が急上昇。Honda CB400 FOUR、Kawasaki Z2、YAMAHA RD400 、SUZUKI GS750と、今も名車と言われるマシンが登場し、ヨシムラのデイトナ優勝でGS1000にも注目が集まった(ただし、国内正規販売は750ccまでだった)。
 各メーカーの技術開発競争が激化し日本のバイクは世界トップレベルへ急成長した。日本のバイク文化が一気に“大ブーム”へ向かって加速した。
 ヨシムラは、第1回鈴鹿8時間耐久オートバイレース(鈴鹿8耐)が開催されると聞くと、すぐに参戦準備にかかった。ヨシムラは鈴鹿8耐の前身と言われる1964年に開催された鈴鹿18時間耐久で優勝を飾っており、ヨーロッパ耐久レースでの実績もあり勝利への自信があった。

#技術のデンソー、パワーのヨシムラ
#技術のデンソー、パワーのヨシムラ

 世界耐久選手権ではホンダRCBが1976年に8戦中7勝、1977年はシリーズ9戦全勝で「無敵艦隊」と呼ばれた。1978年のこの鈴鹿8耐も、その強さを日本で示すためのレースのはずだった。
 秀雄は「勝つためにはスプリントレース並のタイムで走り続けることが必要だ」とW・クーリー、マイク・ボールドウィン、モリワキエンジニアリングからはグレーム・クロスビー、トニー・ハットンというスプリントに特化したライダー体制で8耐に挑んだ。マシンはスーパーバイクスタイルだ。
 7月中旬、秀雄は単身帰国し、ヨシムラパーツショップ加藤でGS1000の調整を始める。その直後に不二雄もレースで使うグッドイヤーのスリックタイヤを携えて帰国した。

1978年7月30日に開催された鈴鹿8耐の記念すべき第1回大会のリザルト。ヨシムラのGS1000を駆ったW・クーリー/M・ボールドウィン組が194周を走って優勝。3位にはG・クロスビー/T・ハットン組のモリワキZ1も。

 GS1000はデイトナで優勝した時の仕様を基本に、ヨシムラパーツショップ加藤で整備されていた。加藤と社員メカニックの大矢幸二が組み上げ、加藤が設立したレーシングチーム「ヨシムラレーシング」のチーム員だった浅川邦夫が慣らしを行った。森脇南海子もRCBのデータを取り、W・クーリーやM・ボールドウィン達の世話を引き受けた。手続きは加藤昇平/由美子夫妻が担当。加藤に至っては第3ライダー登録となり、ヨシムラとモリワキは一族総出で挑んだ。
 練習走行が始まると、GS1000にはクラッチトラブルが頻出した。スズキから送られた部品とヨシムラの加工で問題は解消されたが、このトラブルの対策を巡って秀雄と不二雄が対立する。秀雄の「俺の邪魔をするなら帰れ」と怒鳴り、不二雄が帰り支度をするのをW・クーリーが止めた。

 7月30日の鈴鹿は快晴となり、午前11時30分、ル・マン式スタートが切られた。トップはヨシムラのGS1000が快走するが、スタートから4時間が経過した109周目、フロントタイヤ交換の際にフロントアクスルを固定するアクスルホルダーのスタッドボルトがねじ切れた。だが、スタッドボルトのネジ部がほんの少し残っていて、辛うじてナットがかかり、M・ボールドウィンは脱落の危険性は少ないと考え、対策を練る時間を捻出するためにそのままコースへ戻り、ルーティンを守った。
 メカニックは対策品の加工に取り掛かり完成すると、M・ボールドウィンはルーティンのピットインを行ない修理。W・クーリーに交代して無事ピットアウトした。

 苦境を乗り越え、無敵艦隊を破り、W・クーリーが優勝のチェッカーを潜り抜けた。
 不二雄は鈴鹿8耐後に打ち上げられる花火を家族全員で見上げたことを覚えている。山田も同様に、この日を忘れることはない。
 巨大メーカーであるホンダに町工場のヨシムラが勝利し、ヨシムラ伝説の始まりと呼ばれた。観客は公式発表で7万人。異例の動員と報道された。その後鈴鹿8耐は、10万、15万人と観客動員数を増やし、日本のバイク文化を支えるイベントへと成長して行く。ヨシムラは一度も休むことなく、このレースにデンソープラグと共に参戦を続けている。

#技術のデンソー、パワーのヨシムラ
#技術のデンソー、パワーのヨシムラ
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2017年の鈴鹿8耐で、第1回大会で優勝を果たしたライダーのひとり、W・クーリーが当時の仕様を再現したマシンでデモ走行、ファンを大いに喜ばせた(クリックすると別のアングルの走り写真を見ることができます)。革ツナギも「ND」マーク入りとなる当時のデザインが踏襲された。

#技術のデンソー、パワーのヨシムラ
#技術のデンソー、パワーのヨシムラ
ヨシムラは一度も休むことなく、日本のバイク文化を作り上げたひとつにもなっている鈴鹿8耐にデンソープラグと共に参戦を続けている。写真は2025年、結果は3位(216周)。

 1978年の第1回鈴鹿8耐を優勝で終えたヨシムラは、フランスのポール・リカール・サーキットで9月16、17日に行われるボルドール24時間耐久の主催者から招待された。
 GS1000を鈴鹿8耐時の997ccから1085ccまでボアアップし、W・クーリー、ロン・ピアースという体制で臨んだ。急遽参戦を決めたために、慣らしが出来ておらず、現地サーキットの山道を、人目につかないように走行して、慣らしを終えている。
 序盤こそ3位につけていたが24時間用にSTDオルタネータを新たに装着したため、その質量が大きくエンジンの加減速時にクランクのテーパー雄部とオルタネータのテーパー雌部の間に緩みが出来走行不能になった。
 不二雄は「このまま終わるのはどうしたものかと……。バイクを修理して、コースに出て特大のウイリーをして観客にアピールしては」と言った。その後はバッテリーを交換しながら走行を続けたが、5時間でリタイア。翌日の新聞には、これが、鈴鹿8耐で無敵艦隊を破ったヨシムラだとウイリーする姿が一面を飾った。欧州にもヨシムラの名は轟く。

#技術のデンソー、パワーのヨシムラ
#技術のデンソー、パワーのヨシムラ
#技術のデンソー、パワーのヨシムラ
鈴鹿8耐もシリーズ戦に組み込まれている世界耐久選手権(EWC)、その1戦であり長い歴史を誇るボルドール24時間耐久においてヨシムラは3連覇を成し遂げている。写真は2024年。

 秀雄は鈴鹿8耐のようにスプリントの要素を残す耐久レースと、ボルドール24時間耐久のような耐久レースとではその戦略やマシンの方向性がまったく違うということを改めて思い知らされた。いつかはリベンジをと誓ったが、秀雄が生きている間に、叶うことはなかった。
 その願いを孫の加藤陽平(父昇平、母由美子)が叶え、2023年から2025年の3連覇というとんでもない記録を打ち立てることになる。(つづく)

#技術のデンソー、パワーのヨシムラ
1979年3月、サイクルニュース紙の見開き広告。「ND」マーク入り革ツナギを着たライダー達が操るヨシムラチューンのGS1000がビクトリーレーンを独占した時のもの。。


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2026/01/14掲載