加藤大治郎の代役として、清成龍一は夢だけを抱いて旅立った。スペインに降り立ち、迎えに来てくれたメカニックと無事に合流する。何か聞かれたが、何を聞かれているのかはわからなかった。「たぶん年齢かなと、20歳ってなんていうのだっけ……」と、クエスチョンマークが、お互いの頭の上に見えるような気まずい時間をやり過ごして、へレスサーキットに向った。だが、トラブルでマシンが届かずに肩透かしを食った。その後、ミシュランタイヤに慣れるために、テストコースで、1日中乗り込む時間をチームは準備してくれた。
- ■文・佐藤洋美 ■写真:赤松 孝
- ■写真協力:清成龍一、チーム高武
■2003 初めてのMotoGP
「当然ですが、そこで、現実に直面するんです。全然乗れなかった」
それで、清成は体当たりでMotoGPと格闘し、初めてのコースに挑んだ。2003年5月25日第4戦フランスGPに初出場し13位となり3ポイントを得る。第5戦イタリアでも13位。第6戦カタルニアGPで11位と躍進。第7戦ダッチTTが17位とポイント圏内から外れる。
「日本のサーキットしか走ったことがなかったので、初走行のコースは、全然ダメで……。でも、スペインのコースではタイムが出て、チームも喜んでくれたんですが、オランダのアッセンはまったく乗れず……。そこから崩れていったような気がしました」
第8戦イギリスGP14位。第9戦ドイツGP18位となり、清成は鈴鹿8耐参戦のために帰国する。ホンダは清成を、この年からMotoGP参戦を開始したニッキー・ヘイデンと組ませる。MotoGPライダーとしてホンダワークスから鈴鹿8時間耐久への参戦だった。
代役とはいえ懸命に挑む清成の成長を、ホンダは信じてくれたのだろう。ルーキー同士のペアは、優勝候補として大きな注目を集めた。エースナンバーの11をつけ、セブンスター・ホンダでVTR1000SPWを駆った。
予選は6番手につけた。だが決勝は序盤の1コーナーの多重クラッシュにヘイデンが巻き込まれ、レッカーに乗せられてピットに戻る。このレッカーに乗った行為がリタイヤの意志を示していると、コースに戻ることが出来なかった。優勝候補の数チームが、同様の判定を受けたことからプレスルームで、緊急記者会見が開かれ、チーム監督たちがレースのやり直しを求めたが却下された。清成は決勝を走ることが出来なかった。
休む間もなく、渡欧し第10戦チェコGP15位。第11戦ポルトガルGP16位。第12戦ブラジルGP15位。第13戦日本GP11位。第14戦マレーシアGP21位。第15戦オーストリアGP18位。第16戦バレンシアGPは14位でチェッカーを受けた。
玉田 誠が当時を振り返る。
「チーム高武で一緒だった大ちゃん(大治郎)とMotoGPを走れることを目標に頑張って、やっとそれを叶えたのに、大ちゃんはいなくなってしまい、その事実を受け止められないところに、代わりにキヨがやって来た。自分もMotoGP1年目で、余裕もなくて……。でも、キヨは比べられないくらい大変だったと思う。それでも弱音を吐くことはなかった。キヨは常に100%、いや100%以上に限界を突き詰める。その姿勢に励まされていた。ストイックに決めたことに突き進む信念のすごさ、ライダーとしてのセンスは抜群のものを持っていた」
ふたりは真剣にレースに取り組み、トレーニングに汗を流し競いあった。時にはコースをじゃれあいながらランニングした。玉田は「二人とも負けず嫌いだから、もう肩を掴み、背中に乗っかり邪魔してでも、前に行こうとするから、気合が入りました」と語る。
メカニックが、モタードトレーニングやバイクが乗れる場所に連れ出してくれた。時間を忘れ、夢中で走り続けた。嫌いで嫌いで仕方がなかったバイクにしがみつくように格闘する清成がいた。バイクに乘り過ぎて「ケツの皮がむけて痛かった」と笑う。
この年のMotoGPはホンダRC211Vを駆るバレンティーノ・ロッシが絶対王者として君臨、そこに大治郎の穴を埋めるかのようにセテ・ジベルナウが4勝を挙げロッシに迫った。マックス・ビアッジとロッシの戦いもレースを盛り上げた。宇川(ホンダ)はランキング8位、中野真矢(ヤマハ)が10位、玉田(ホンダ)は11位。芳賀紀行(アプリリア)が14位、清成が20位、青木宣篤(プロトン)が21位だった。
グレッシーニチームのガレージがあるリミニは、イタリア北東部の海に面したリゾート地で夏は賑わうが、それ以外は人も少ない。清成は近くのホテルで暮らしていた。「秋になると風が冷たくなって……」と初めての海外生活は、決して楽しいものではなかった。
「世界はすごいと知り、もっともっと、もっと頑張らなければならないと思いました。何をしても攻め切れずに、突破口がなかった。チーム高武は根性のチームだったので、セッティングのことはまったくわからず、コンプレッションとかテンションって? イニシャルって何のこと? スプリングって? 何が原因かわからなくて……。遅い原因は、やっぱり自分にあるので……。だから、トレーニングするしかなく……。でも、頑張ればどうにかなる世界ではなかった」
それでもポイント圏内を走る清成の評価は、決して低くはなかった。大治郎の代役を懸命に務めた清成の名は、レースファンの脳裏に刻まれた。清成にとっては刺激に満ちた怒涛の半年だった。しかし、継続参戦とはならなかった。
「必ずMotoGP参戦に戻って来るって思いました。夢見ていたものが現実になって、確実な目標になった」
清成のライダーとしての基準がMotoGPになった。そこで戦う自分になるという誓いは、その後のレース人生にとって大きな指針となる。
これまで以上に妥協も甘えも許さず厳しく自分と向き合うのだ。
■2004 ブリティッシュスーパーバイク
2004年、清成はブリティッシュスーパーバイク選手権(BSB)にHMプラント・ホンダ・レーシング・チーム(CBR1000RRW)から参戦することになった。
「全日本最高峰クラスがJSB1000になり、BSBのレギュレーションが鈴鹿8耐マシンに近いこともあり、8耐テスト、ミシュランタイヤのテストも兼ねて走らせてもらうことになりました。海外参戦を継続させてくれたホンダに感謝している」
BSBの戦いはユーロスポーツによって欧州でライブ放映されており、人気の高いレースイベントとして知られていた。レース発祥の地であるイギリスのモータースポーツの認知度、人気は極めて高く、文化として根付いている。ここでの王者は、サッカー選手やオリンピック選手にも負けない人気を誇り、勝者はスポーツ紙の一面を飾る。
だが公道コースがルーツのBSBはセーフティーゾーンが狭く、コース脇ギリギリに樹木があるなど危険度が高いことで知られる。路面も荒れているところが多く、ジャンピングスポットがあるなど一筋縄ではいかない。そしてイギリスは大西洋からの湿った空気が流れ込み、低気圧が通過するため短時間で天気が変化しやく、小雨、霧雨、にわか雨など弱い雨が頻繁に降る。
2003年にBSBにクレセントスズキから参戦を開始した加賀山は、デビュー直後から攻めの走りで注目され、「Japanese Fighter」 としてファンに親しまれていた。日本人ライダーは珍しい存在で、異国の挑戦者として人気を確立していた。
その年、加賀山はカドウェルパークでのもらい事故で骨盤複雑骨折、内臓破裂などの重傷から感染症にかかり生死の境をさまよっている。2004年に復帰し、クラッシュした同コースで劇的優勝を飾った。復帰シーズンにも関わらずにランキング3位となり、その攻撃的な走りと不屈の精神で絶大なる人気を誇った。
加賀山の功績もあり、2004年に清成が参戦するとすぐに注目された。加賀山が「あんなコースを走れる日本人は、俺と清成しかいない」と言う。
「BSBは過酷だよ。参戦1年目は結果が出る出ないコースがあってセッティングで悩んだが、もうセッティングじゃないと割り切った。俺は技術があるわけではなく、どっちかっていうと精神面で積み上げていくタイプ。だからオートバイが暴れようが何をしようが、どんな状況でも攻め続けると覚悟を決めた。日本のように綺麗なサーキットで、セッティングをガチガチに追及した状態でしか走れないライダーは無理。何人かBSBに挑戦しているけど、優勝争いをしている奴がなかなか現れないのは、それが理由。清成は違った。俺と同類、覚悟を決めて挑んでトップ争いの常連になっていった。そしてチャンピオンになる。3回も、それも最後のタイトルは、一度BSBを離れて戻って来てなっている。この戦歴は、BSBでも歴史に残るもの。立派だよ。俺はチャンピオンになれなかったから、悔しいなと思う」
清成は開幕前のスペイン、バレンシアのテストに向かう。バレンシアは走行経験があり、ここでスーパーバイク世界選手権(WSBK)の優勝者のタイムを超えるタイムを記録する。だがイギリス、シルバーストーンは走ったことがなく「WGPでダメな自分を知ったので、めちゃくちゃ研究した」結果、適応能力の高さを示す。開幕前からBSB攻略に熱意を傾けた取り組みで、清成は初めてのコースでも、タイムを記録できるようになっていく。
開幕戦で表彰台に登る活躍を示し、さらなる飛躍を狙う清成はフロントタイヤに拘った。第2戦では攻略できたが、それ以降は難しく、チームからは元に戻せとアドバイスされるが、清成は聞かなかった。
「めちゃくちゃ癖のあるタイヤだったんですが、これを乗りこなせなければWGPに帰れないと思って、そのトライを辞めなかった。でも上手くいかず、どんどんはまっていってしまって……。原因は自分にあると思っていたし、何とか攻略したかった。でも、転んでケガして手術して、鈴鹿8耐もダメで、夏休みにホンダが開幕戦で履いたタイヤを含めて取り寄せてくれて、テストコースで走り込ませてもらいました。頑固な自分を見直すきっかけをもらいました」
鈴鹿8時間耐久は鎌田学と組み、セブンスター・ホンダ11でCBR1000RRWを駆ったがリタイア。
インターバル明けには、本来の走りを取り戻す。しかし天候の影響やタイヤの選択ミスなどが重なり、勝てないレースが続く。だが、最終戦ドニントンパークでポールポジションを獲得しダブルウィンを飾る。この年、ランキング6位となる。BSBファンは、東洋から来たサムライライダーの活躍を暖かく受け入れた。
■2005 鈴鹿8耐優勝
2005年清成はBSB続投となり、同チームから参戦しCBR1000RRKを駆った。2年目となり、タイトル争いを繰り広げランキング2位となる。
鈴鹿300kmはチーム高武の先輩でもある宇川と組み、セブンスター・ホンダから参戦し2位。鈴鹿8時間耐久でも組みスペシャルステージで2番手タイムを記録した。
決勝でも清成/宇川組は、好スタートを切って主導権を握る。途中、雨がぱらつく場面もあったが、完ぺきなレース運びで、2位に3周もの差を築き、圧倒的な勝利を収める。宇川は史上最多の8耐5勝目という記録を樹立する。清成にとっては初優勝だった。この勝利を記念に二人はヘルメットを交換している。
宇川は「高武では所属していた時期がずれていて、一緒にいたことがなかったが、雨の速さは聞いてきたし、雨だけでなく難しいコンディションの路面の適応力が高く、そういった場面では清成に任せた」と信頼を示した。
清成は宇川と表彰台の真ん中に立った。(続く)
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