フラミンゴ(flamingo)はアフリカ、南ヨーロッパ、中南米の塩湖や干潟に生息する。塩湖やアルカリ性の湖といった特殊な環境に適応しており、数千羽から百万羽程度の巨大な群れを形成する。フラミンゴという名前はラテン語で炎を意味するflammaに由来しているとされる。
1980年代後半から1990年代初頭、ロードレースが華やかな輝きを放っていた時代を若井伸之は生きた。180cmと長身で手足が長く痩せていた。その身体を折りたたむようにGP125ccマシンに密着させ、激しいコーナリングを見せ、イン側の肘や膝を擦った。その姿が優雅なフラミンゴのようだった。
今も、スペイン・へレスサーキットの1コーナーアウト側に、若井の死を悼み、フラミンゴの像がたっている。
■文:佐藤洋美 ■写真:竹内秀信、赤松 孝
第10戦フランスGP・ マニクール 決勝
ロードレース世界選手権(WGP)125ccクラスに参戦する若井伸之からセッティングを教えてもらった坂田和人は「若井を絶対に抜かない」と約束していたが、若井はアクシデントがありセットアップが変ってしまい、本来の力が出せなくなる。
決勝スタートで飛び出したのがファースト・グレッシーニ、それをエンツォ・ジャノーラが抜きトップとなる。2番手にグレッシーニ、ガブリエーレ・デビア、ブルーノ・カサノバ、ダーク・ラウディス、若井、上田 昇、坂田が続きトップ集団を形成。その争いから、ジャノーラはファーストラップを叩き出して逃げ、追いかけるグレッシーニが転倒する。2番手争いは10台が連なる大バトルへと発展していく。
その集団の中で坂田は若井との「絶対に抜かない」という約束を守り、若井の後ろで周回を重ねるが、レースの流れを考えると、このまま若井の後ろにグズグズしているわけにはいかなかった。坂田は横に並んで引っ張ろうとするが、一向に自分の走りを取り戻すことが出来ない若井が遂に坂田の先行を許す。
坂田は「すまん」と若井に合図しスパートし2番手に浮上した上田に追いつき、そして2番手を奪う。が、そこにホルヘ・マルチネスが追いつき3台の争いとなる。2番手の坂田を上田が捉え、坂田のインに3番手のマルチネスが入った。ジャノーラは独走優勝し、2位は上田、3位を死守していた坂田だが、最後の最後にマルチネスが出て4位となる。若井は無念の8位。
WGP観戦に訪れていた原田哲也は250ccクラスのイタリアンライダーたちの激しいバトルが強いインパクトとなり、WGP参戦を現実の目標とした。たった2戦の滞在だったが原田の視野が日本から世界へと広がった。そしてこの意識の変化が、原田の才能を刺激し帰国後の走りが劇的に変わった。本人でさえ知らなかった才能が揺さぶられ覚醒するのだ。
鈴鹿8時間耐久
若井は鈴鹿8時間耐久参戦のために帰国する。コラード・カタラノと組み予選56番手から決勝は26位まで追い上げ完走している。
この時、母、義子は体調をくずして入院、手術が8耐予選日と重なっていたため伸之は立ち会えなかったが、レースを終えると病院に駆けつけた。
ベッドで横たわる義子に、
「俺、今に凄いことするから、そのうち1億くらい稼いでやるから」
と励ましている。
家事など手伝ったことのない若井が、汚れ物はないかと聞き洗濯し、身の回りの世話を焼いた。枕元で静かに義子の顔を見つめる若井の姿があった。我儘に生き、母に何もしてあげられないことを伸之は心の中で詫びていた。
第11戦イギリスGP ・ドニントンパーク
ドニントンパークは、ロビンフッドの故郷ノッティンガムなどの町が点在するイングランド北中部に位置し、戦前から使用されている伝統のサーキットだ。キャッスル・ドニントンの名が示すように広大な領主の敷地だった。緑の広い丘陵地にあり、煉瓦で造られたピット・エリアと、緑豊かななだらかな起伏がある。
125ccクラスのPPはカサノバ、2番手坂田、3番手ジャノーラ、4番手アレッサンドロ・グラミーニがフロントローに並んだ。8番手に上田がつける。若井は15番手となる。
決勝で飛び出したのはグラミーニ、それを、カサノバ、グレッシーニ、ジャノーラ、ラルフ・ワルドマン、マルチネス、ラウディス、上田、坂田、ガブリエーレ・デビアが追う。4周目にはグレッシーニがトップを奪い、グラミーニ、カサノバが集団を抜け出し、追い上げる上田もジャノーラをパスし、カサノバの3台で激しいバトルとなる。上田はマルチネスをシケイン進入で抜いた直後に、そのマルチネスと接触しポジションダウン、マルチネスもオーバーランしポジションを落とす。トップのグレッシーニが逃げ、グラミーニは単独2位。追い上げた上田が3位となる。
坂田はトップ争いに加わるもののエキゾーストパイプにクラックが入り後半の伸びがなくなり6位。10位に若井が入った。
500ccクラスではレース前に引退表明したワイン・ガードナーが涙の勝利を飾った。250ccクラスで優勝したのはピエール・フランチェスコ・キリだが、4位に入ったルカ・カダローラが年間チャンピオンV2を決めた。
第12戦ブラジルGP ・インテゴラスサーキット
ブラジルGPの開催は1989年以来だが、サンパウロ近郊のインテルラゴス・ホセ・カルロス・パーチェで行われるのは初めてだった。アップダウンが激しく、荒れた路面のため安全性やオフィシャルの対応にライダーから不満の声があがりボイコット騒ぎが起きたが、開催となった。
予選でPP獲得したのは、怪しげな空模様をにらみ、早々にアタックした坂田。若井は6番手グリッドに並んだ。
決勝レース序盤はグラミーニとラウディスのトップ争いとなるが、4周目にラウディスがトップに立つとスパートし独走優勝を飾る。2位にマルチネス、3位にはグラミーニが入った。
6番手争いを繰り広げていたグレッシーニ、上田、若井の戦いはグレシーニが制し上田が7位、8位若井、坂田は14位でチェッカーを受ける。
500ccクラスはレイニーが勝ち、250ccクラスはカダローラが勝利した。
上田はイタリアのテルニ(本拠地)に戻り、イモラの近くにあるロリス・カピロッシの家に遊びに出かけている。まだ十代ながら、2年連続世界チャンピオンに輝いたスターライダーの生活は素晴らしいものだった。車はポルシェからシボレー・コルベットへと変わり、クルーザーも持っている。来季からはワークスライダーとなりNSR250を駆り250参戦が決まっていた。
第13戦南アフリカ ・キャラミ
アフリカ大陸の南端にあるキャラミは、首都ヨハネスブルグの郊外に位置している。適度な高低差を持つ左回りのコースは中低速コーナーを組み合わせたテクニカルなレイアウトだ。
上田は絶好調で、グレッシーニを引っ張り予選1日目はトップタイム。グレッシーニも2番手。ところが予選2日目はエンジンセッティングを誤り、ストレートのスピードが伸びない。その間にライバルは上田のタイムを越えて行く。
グラミーニがPP、2番手ラウディス、3番手カサノバ、4番手マルチネス、坂田が6番手、上田は9番手に沈み、若井は18番手と苦戦する。
決勝ではジャノーラとカサノバ、坂田がトップ集団を形成。坂田は積極的にカサノバをプッシュ、2台は順位を入れ替えながら周回を重ねた。グラミーニは怒涛の追い上げを見せるが、グレッシーニのタイトル獲得をサポートすべく上田の巧みなブロックに阻まれる。
ジャノーラは首位に立ち、マルチネスが追う。グラミーニは猛追して3番手までポジションを上げて来た。坂田が4番手、グレッシーニは5番手で坂田を追う。
激しいトップ争いを制したのはマルチネス、2位にカルロス・ジーロ、3位にグラミーニとなり、グラミーニがチャンピオンを獲得した。
グレッシーニはトラブルを抱えペースが上がらず、チームオーダーが入っていた上田にペースアップのサインが出され、スパートするが5位が精一杯。健闘していた坂田もオーバーランし7位にポジションダウンしてチェッカーを受けた。若井も前に出ようとアタックしていたが7周目に転倒で終えた。
500ccクラスはジョン・コシンスキーが初優勝、タイトルは3位でゴールしたウェイン・レイニーが獲得し3年連続チャンプに輝いた。250CCクラスは新星マックス・ビアッジが初優勝を飾った。
シリーズランキングは上田が9位。若井は昨年同様のランキング10位。坂田はPP3回、4位2回と表彰台まで後一歩と迫る走りでランキング13位から11位へアップした。
2年目のWGPを戦い、その魅力を聞かれた若井はこう語っている。
「ひとりだったらきついだろう。でも、みんながいるからね、楽しくやれたと思う。レースが終わった後にパドックの雰囲気がすごくいい。気楽というか、和む。でも、その気分もレース結果に左右されるけどね。何よりもチャンスがいっぱいあるのが魅力じゃないかな」
1993年シーズンに向けて
1992年、若井はチャンスを掴み250ccクラス参戦を果たし知名度を上げた。
長年GPチームを見ている人から「GPを戦う厳しさ、海外生活のストレス、いろいろなことでチームスタッフはバラバラになってしまうことが多い。だけど若井君のチームは珍しくまとまっているし仲がいいね」と褒められたことがある。若井はこのチームで「夢を掴む」と決めていた。1993年は250ccクラスへのステップアップを模索する。
坂田は「GPは1年目、環境に慣れるだけで精一杯だったじゃないか。やっと今年、レースらしい走りが出来た。勝負は3年目。ここで結果をきちんと残してからだって、250ccクラスは遅くないだろう」とアドバイスする。若井と一緒に走りたかったのだ。
だが、若井は答えた。
「今あるチャンスを逃したら、二度と掴むことが出来ないかもしれないだろう」
坂田は「頑張れよ」と言うしかなかった。カサノバも「125ccクラスに残ればチャンピオンだって狙える」と引き止めたが、若井の決意は固かった。
自分たちでスポンサーを集め、オフには仕事をするなどして参戦資金をかき集めることも多いプライベーターたちが多くいる125ccクラスと違い、250ccクラスは活動資金が跳ね上がる。しかしワークスマシンを手に入れない限り勝負は難しい。世界に誇る日本のメーカーが造り上げたワークスマシンは、芸術品であり、値段が付けられない。お金があれば手に入れられるとものではない。
それを操るライダー、マシンをメンテナンスするスタッフ、チーム構成、それらをメーカーの認めるものでなければならない。メーカーの威信を傷つけるようなチームにマシンを渡すことは出来ないのだ。最新の技術が注ぎ込まれたワークスマシンが高嶺の花を言われる由縁である。
若井が望み、それを手に入れることができるのか……。
若井は帰国すると支援してくれる株式会社ケーユーの氏家正訓部長と共にスズキ株式会社・松岡修二輪営業部長を訪ねた。松岡は「氏家さんの熱意、若井選手の明瞭で真剣な態度に感銘を覚えた」とマシン貸与を約束した。
だが、マシンの用意が出来ても、それだけでレースは出来ない。スポンサー獲得に奔走するが、なかなか目標金額に到達するのは難しかった。若井にチャンスをくれたテック3を頼ったら良いのではと氏家は助言するが、若井は「これまでお世話になったケーユーやサプライヤーのためにやっていきたい」と譲らなかった。
1993年の準備のために忙しくなった若井は、これまでのように坂田と時間を過ごすことも少なくなった。それでも連絡は欠かさずに「さんちゃん、いつか自分のチームを作るから、一緒にやろうぜ」と声をかけている。
このオフ、坂田と若井が、足周りのセッティングに定評のある阿部 修メカニックに同時期にオーダーを出した。若井は「さんちゃんが駄目なら諦めるよ」と自ら身を引いた。だが、「阿部ちゃん次第」と考えていた坂田は、阿部に選択をゆだねた。
阿部は「250ccクラスに挑戦してみたい」と答えた。
恋人・瑛美とは離れている時間が長くなり、たわいのないことで、喧嘩をすることも多くなった。「もっと、一緒にいる時間を作って欲しい」と若井にイライラをぶつけることもあった。瑛美の願いはなんでも聞いてくれる若井だが、「じゃ、GPに行く俺と、GPには行かずに他の仕事をする俺と、どっちがいい?」
黙ってうつむく美和に「俺にはGPしかないから……。さみしいのはわかるけど、俺にはこれしかないから、我慢して欲しい」
「わかった」と美和は答えた。
若井は企画書をアタッシェケースに入れスポンサー活動に追われていた。その忙しさはこれまでの比ではなく、寝ている時間はあるのかと家族や瑛美が心配するほどだった。瑛美との電話でさえ寝息が聞こえる。
「ちゃんと、ベッドで寝てね。おやすみ」
ろくに会話することなく受話器を置くことが増えた。
たまに会うと「ライダーじゃなくてビジネスマンね」と瑛美は若井をからかった。若井は苦笑するしかなかった。瑛美はどんどん変わっていく若井を見て不安だった。
「あなたを信じてついて行っていいの?」
「中途半端に答えることは出来ないから、少し時間をもらってもいいか」
と若井は答えた。
瑛美は、すぐに返事をもらえないことにさみしさはあったが、若井は絶対に嘘がつけない性格であることを知っていた。考えてから返事をくれるという態度に誠実さを感じていた。どんな答えであろうと若井の正直な気持ちが知りたかった。
そして、若井は瑛美を呼び出し、一言「いいよ」と答えた。
瑛美は涙がこぼれそうだった。これが、若井のプロポーズだった。
巷ではスニーカーのエアジョーダンVII やGショックが人気だった。尾崎豊の追悼式に3万人のファンが参列した。
バルセロナ・オリンピックの水泳で金メダル獲得した14歳の岩崎恭子が「今まで生きていた中で一番幸せです」と言い、マラソンでは給水所で押された優勝候補の谷口治美が「コケちゃいました」と8位となるが爽やかな言動が話題となった。冬のアルベール・オリンピックのノルディックスキー複合団体で金メダルを獲得。日本のアスリートの活躍が続いた。
宇宙飛行を終えた毛利衛は「宇宙からはいっさい国境は見えません」と語り話題となる。
バブル景気はこの年には過去のものとなり、景気悪化が進む。就職氷河期の最初の世代となる。この世相は、ライダーたちのスポンサー獲得にも次第に影を落とすことになる。
(続く)