フラミンゴ(flamingo)はアフリカ、南ヨーロッパ、中南米の塩湖や干潟に生息する。塩湖やアルカリ性の湖といった特殊な環境に適応しており、数千羽から百万羽程度の巨大な群れを形成する。フラミンゴという名前はラテン語で炎を意味するflammaに由来しているとされる。
1980年代後半から1990年代初頭、ロードレースが華やかな輝きを放っていた時代を若井伸之は生きた。180cmと長身で手足が長く痩せていた。その身体を折りたたむようにGP125ccマシンに密着させ、激しいコーナリングを見せ、イン側の肘や膝を擦った。その姿が優雅なフラミンゴのようだった。
今も、スペイン・へレスサーキットの1コーナーアウト側に、若井の死を悼み、フラミンゴの像がたっている。
■文:佐藤洋美 ■写真提供:若井十月 ■写真:竹内秀信、赤松 孝
1993年
若井家の電話が明け方4時過ぎに鳴った。レーシングサプライの福島秀彦からで、母・義子が電話に出ると「お兄さんかお姉さんに代わって欲しい」と言われた。兄の紀良は不在で、姉の十月が電話口に出た。
「若井君が事故で亡くなった」
母は意味がわからないという表情で呆然としていた。十月はそんな母を見て、自分がしっかりしなければと思った。だが、ひどいショック状態の自分を見ている、もうひとりの自分がいるような感覚が襲い、正気に戻るためには何か食べなきゃとパンをかじり始めた。
パンをかじっても正気ではいられずに、何をどうしていいのかわからなかった。
父を起こし兄弟に連絡をした。夜が明けるのを待ってチケットの手配をしたが5月のゴールデンウィークと重なり、ヨーロッパへの便はどこも満席だった。知人のつてを辿ってようやくチケットを手配した。父は心労のあまりに血圧が上昇しドクターストップがかかった。紀良はパスポートの期限が切れており1日遅れの出発となる。末っ子の基宏はオーストラリアに留学中で急いで帰国の準備をした。
義子と十月は飛行機に乗り込んだ。十月は無理に瞳を見開いていた。目を閉じればとめどなく涙があふれ出てしまうことがわかっていたからだ。今、泣くわけにはいかなかった。それでも、大きく開けた目の隙間から涙がこぼれ落ちていた。悲しさはいいようもない強さで全身を包んでいた。母の涙は枯れることのない泉のようで悲報が届いたその時から泣き続けていた。
十月は考えなければ駄目だと自分に言い聞かせていた。「亡くなったというのは、死んだということだから、お葬式をするのね。お葬式には写真がいる」と十月はやらなければならないことを震える手でメモした。
一睡も出来ないままスペインのマドリッドに到着し、セビリアまで乗り継ぎやっとの思いで到着した。迎えの人間を待つためにふたりは空港の椅子に腰を下ろした。向かいに座った人が何気なく新聞を開いた。
その一面に伸之がピットロードに横たわる姿がカラーで映し出されていた。十月は緊張の糸がプツンと音を立てて切れた。
「伸之は本当に死んでしまったのだ。これは、悪い夢なんかじゃない」
見知らぬ人が持つ新聞から目が離せなかった。
セビリアで受け取ったスーツケースは切られ、中身が傷つきめちゃくちゃになっていた。迎えに来た車にどさりと座り込むと、もう何も考えられなくなっていた。
ホテルにはスペインのモータースポーツ協会の人間がいた。若井と親交が深いテック3のエルベ・ポンシャラルが若井を日本に戻すための手続きを手伝ってくれた。
第8戦ヨーロッパGP・カタルニア、上田 昇の優勝
WGP第8戦ヨーロッパGPはカタルニアで行われた。GP125決勝、上田 昇はトップをキープしていたが、追い上げて来たカルロス・ジロが首位に立つ。上田、ラルフ・ワルドマン、エリ・トロンテギ、斉藤 明のトップ集団を引っ張るジロが転倒する。
「ガッシャーンって音が聞こえて、激しく振られる黄旗が見えた。あれでスイッチが入った。このシーズンで自分が勝てるとは思えなかった。どうにもならないマシン、がんばってもがんばっても優勝は出来ないと思っていた。だけど……」
団子状態のトップ集団が最終コーナーになだれ込む。上田はワルドマンのスリップから抜け出しトップでチェッカーを潜り抜けた。
表彰台の下に、レースはリタイヤしてしまった坂田和人と原田哲也が待っていた。2年ぶりの勝利を決めた上田は、でっかいマルボロフラッグを抱え、その重みでハンドルが取られそうになりながらウイニングランをして戻って来た。上田は歓喜に輝く顔で盛大なシャンパンファイトを終えると、ふたりに駆け寄り、ツナギの内側から自身のお守りと一緒に入れていた若井の耳栓を取り出して「勝ったぞ」と報告をした。
「最後は若井が背中を押してくれたような気がする」と泣いた。
あの時、勝つことのできなかった上田は「絶対に勝って若井に報告するのだ」と誓っていた。そして、スペインのカタルニアサーキットで約束を果たした。
1993年、GP500はケビン・シュワンツが初の栄冠に輝く。伊藤真一はランキング7位。宇田川勉はランキング20位。新垣敏之は3戦までの参戦でランキング34位となる。
原田はGP250のデビューシーズンでチャンピオンに輝く。
「僕も若井君も目指していたのはチャンピオンだった。若井君の事故の悔しさがバネになったのだと思う。若井君の代わりというか……。僕がチャンピオンになったら若井君が喜んでくれると思って、最後まで頑張れたんだと思う」
原田はそう言った。
原田の部屋には、マレーシアで若井とひそひそ話している姿を写した写真が飾られている。
「この写真を見ると若井君と過ごした楽しい6年間を思い出すことができる」
GP125はダーク・ラウディスがタイトルを獲得。坂田がランキング2位へと浮上する。辻村 猛が3位。上田は5位になる。斉藤が6位、青木治親は14位。和田欣也は17位。小野真央は第4戦のクラッシュでその後を欠場したがランキング18位にランクされた。
その後
上田と若井のお揃いのストップウォッチは5月1日から若井のいない時間をカウントし続けている。メカニックの新国 勉の腕にも若井からプレゼントされたスピードマスターが、今も変わらずに時を刻んでいる。
若井のGP参戦が決まると若井家に貼られた大きな世界地図で伸之の居場所を記して来た。印はスペインのヘレスから動くことはなかったが、それでもこの地図を見つめた日々を過去にすることが出来ずに貼られたままだ。
上田が囁いた。
「神様は気に入った人から近くに置きたがる。若井は神様に好かれたんだ」
十月は、その言葉に救われたような気持ちになった。そんなふうに励ましの手紙やカードがたくさん若井家に届いた。
その中にわら半紙を半分に切り、表紙にフラミンゴの絵を色鉛筆で丁寧に描かれたものがあった。
「若井伸之選手に憧れていた。長い手足を折りたたむようにマシンと一体になりサーキットを疾走し、コーナリングでは肘、膝が突き出る独特のフォームを決して忘れることは出来ない」
若井への思いを記して送ってくれたファンがいた。
伸之を慈しんでくれる人々の思いはありがたく家族の心を癒した。
一周忌には伸之が通っていた予備校の仲間で作ったツーリングクラブのメンバーが中心になって若井の会が開かれた。楽しいことが好きで、賑やかなことが好きで人に囲まれていることが好きだった若井が喜ぶことを考えたものだった。「WAKAI」と描かれた会員証が発行され、手作りの屋台が並んだ。灯された提灯の明かりの下で「いらっしゃぁーい」と明るく弾む声を響かせ、若井のいない悲しみを押しやろうと、皆は精一杯にはしゃいで夜を過ごした。
三回忌には十月が中心になり写真集が発売された。
そして、若井家に「TEAM WAKAI」と名付けたレーシングチームでミニバイクレースに出たいので承諾してくれないかと連絡があった。若井レプリカヘルメットをかぶり、若井をイメージしたツナギで走るという。今も伸之のことを思い出してくれる人のいることに感謝し、承諾の返事をした。
その後、「チーム・ワカイのレースを見に来ませんか?」と誘いの電話を受けたのは十月だった。十月は、応援にでかけることにした。そこで、その電話の主が、あのわら半紙にフラミンゴを描き、家族を励ます手紙を書いた人だと知る。
親密さを増したふたりは、その後、結ばれることになる。母は「伸之が亡くなってから十月は、すべての時間を伸之のために使って来ました。適齢期と呼ばれる時期を伸之のために過ごさせてしまったことを申し訳なく思っていました。でも、伸之が姉の幸せを考えないわけはなかったのだと思います」と伸之が出会わせてくれた縁に感謝した。
フラミンゴカップと名付けられたレースがモンゴルで開催された。そのコーディネーターが若井家を訪れた時に飾られたタコメーターを見て「これは何ですか?」と聞いた。十月は伸之が、自身が事故にあった時のヤマハSR400の記念に残したものだと説明した。
「それはおかしいですよ。だって、これ、最高速が70km/hですからね。ミニバイクか、スクーターのものでしょう。400のバイクだったら、もっと最高速表示があるでしょう」
十月は絶句した。まさか、伸之が嘘をつくとは思いもしなかった。
「でも、私のバイクを売ることで、伸之がレースを始めるきっかけとなったなら嬉しいかな」
そんなにしてまでバイクが欲しかったのだと伸之の思いを知り「まったく、伸之らしい」と思った。伸之の友人にタコメーターの話を聞くと「あの時は、かなりいい金額で売れたと思いますよ」と十月に真相を打ち明けた。
瑛美(仮名)は帰国し若井家を訪ね伸之の部屋に入れてもらった。押さえていたものが突然こみ上げ、座り込み嗚咽する瑛美には誰も近づくことが出来なかった。
あれから年月が流れ、瑛美は幸せな結婚をして女の子ふたりの母になっていた。彼女の家の近くで待ち合わせた。雑踏の中で、白のパンツに淡いピンクのシャツを着た瑛美は、若井が出会った時と変わらず、初々しく美しい女性だった。ひとつひとつの言葉をゆっくりと確かめながら、夢見るように若井との思い出を教えてくれた。
「若井君は何に対しても一生懸命で、無邪気な人、レースが大好きなんだなっていつも感じていました。125から250にステップアップして、500に乗るのが夢でした。それを着実に叶えていた。その夢を叶えたら、次はどんな夢を見るのかなと楽しみでした。自分の夢を叶えることの出来る、とてもしっかりした人。
いつも元気でエネルギーに溢れていたから亡くなってしまうなんて……。死というイメージから、とても遠い人だと思っていました。レースは危険なものだと感じたことはなかった。私を置いていってしまったことはひどいじゃないって思う。でも、一緒に過ごした時間は大切な思い出。出会えたことに心から感謝しています」
モニュメント
十月はヘレスのコースを案内された時、車の窓からたくさんのモニュメントを見た。
「亡くなっても英雄として称えられているように思えて、ノブ(伸之)のも立てられたらいい」
十月はそう考えた。
へレスサーキットの関係者に、その思いを伝えると友好的な返事だった。十月はモニュメント設立のための募金を集める。募金も順調に集まり目標金額に届く。最終的な確認のためヘレスに連絡を取ると対応が変わり駄目だと言い出した。
若井家の兄弟3人がヘレスにモニュメント設立の交渉のために出向くことになる。ヘレスに到着すると大使館から手に入れた日本人の通訳者のリストを見て最初に書いてあった人物に電話を入れた。偶然にも伸之の取材通訳をした経験があり、すぐに駆けつけてくれた。
交渉のテーブルにつくとヘレス側の人間は強硬にNOと言う。すると、通訳の人が「なんでも良いから日本語で話しかけて」と十月に囁いた。十月は何のことかわからず「今日のご飯は何にしましょうか」と話しかけた。すると通訳の人はスペイン語でまくし立て、ヘレスの関係者に詰め寄った。ヘレスの人は驚愕の表情を浮かべながら大きく頷いた。通訳は「交渉成立」と微笑んだ。
事務的な打ち合わせを終え外に出た時に「なんて言ったの?」と聞くと、「ガキの使いじゃないんだと怒鳴ってやったの」と笑った。十月たちは、「この人がいなかったら、モニュメントは出来なかっただろう。ファンの人たちから集めたお金が無駄になってしまうところだった」と胸をなでおろした。
早速、フラミンゴの製作に入った。そして完成したモニュメントを、十月たちは見上げた。青い空をバックに凛とした趣で立つフラミンゴが誇らしげだ。まだ、冬の冷たい風を受け、柔らかな日差しを浴びたフラミンゴが輝いていた。
あんなに反対していたへレスだが、今もモニュメントを大切にし続けてくれている。
- モニュメントに記された言葉
- 魂と肉体の翼いまだに衰えぬまま
- この地に止まりて眺むは
- 汝ら志ひとしき同胞
- 飽かず疾駆する勇姿なり
- エリック・クラプトン「Tears in Heaven」
- Would you know my name
- If I saw you in heaven
- Would it you be the same
- If I saw you in heaven
- I must be strong
- And carry on
- ‘Cause I know I don’t belong
- Here in heaven
- Time can bring you down
- Time can bend your knees
- Time can break your heart
- Have you beggin’ please
- Beggin’ please
- あっちでも僕の名前を
- 覚えていてくれるかい
- あっちでもみんな同じだと
- いいんだけど
- 僕は強くそして人生を
- 続けなきゃいけない
- だって僕は生きているんだから
- 時には凹んだり
- 膝ついたり
- 心が張り裂ける
- だから、僕のために
- 祈ってくれ
若井の事故を受け、WGPのパスコントロールは厳しくなり、ピットロードに部外者は入ることが出来なくなった。ピットロードのスピード制限も実施され安全に多くの人員が割かれるようになった。
1994年にはゼネコン汚職のニュースが飛び交い、価格破壊と騒がれた。就職氷河期と言われ、一流大学を出ても就職先がない時代となる。ヤンママ、茶髪が流行語となる。スポーツ界ではイチローが活躍しJリーグに押され気味だったプロ野球に活気を取り戻した。イノセントワールド(Mr. CHILDREN)が110万枚を売りヒットした。
坂田は1994年・1998年とGP125世界チャンピオンに輝きトップライダーとして活躍、2000年にWGP参戦を最後とした。上田は2001年までWGPライダーとして走り続けて通算160戦出場、1412ポイント獲得はGP125史上最多記録だ。
原田は1993年WGP250チャンピオンとなり、アプリリアワークスから熱望されて1997年に移籍しタイトル争いを繰り広げた。2002年にはMotoGPへとステップアップし、2002年を限りに現役引退した。
2025年、WGPには2024年Moto2チャンピオンになった小椋 藍がMotoGP参戦を開始、Moto2、Moto3にも日本人ライダーが多数参戦している。
(■文:佐藤洋美 ■写真提供:若井十月 ■写真:竹内秀信、赤松 孝)
[第20回|最終回|]