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レース・イベント






2005年全日本ロードレース選手権鈴鹿。生形秀之の引退レースだった。
雨の鈴鹿、土曜日のレース1が終わった夕方のパドックが騒がしくなる。生形に内緒で引退式が準備されていた。妻であり、ヘルパーであり、チーム運営をサポートする麻美が、生形を誘導する。
ピットの両脇にライダーや関係者が花道を作っていた。その先にマシンが置かれ、驚いている生形が進むと拍手が沸き、労いの声が次々と湧き上がる。マシンに辿り着くと、特大の花束やバルーンが贈られた。
晴れていたら、レーシングコースで行う予定だった。生形を応援するファンにも見てもらいたかったが、雨で叶わなかった。
涙を見せる者もいたが、それでも、ぬくもりいっぱいの温かな笑顔があふれた。

■文・佐藤洋美 ■写真:赤松 孝 ■写真提供:生形秀之

 日曜日にレース2が行われた。JSB1000決勝が行われる午後に天候が崩れた。気温も下がる中で、豪雨により視界を確保することが難しいスリリングなレースとなる。レース続行が困難と判断され、序盤にセーフティーカーが入る。
 ピットで見守る麻美は、セーフティーカーが解除された時、路面もタイヤも冷えた状況からの再スタートの危険性を知っていた。心配から、スマホを持つ手が、寒さのためだけでなく震えていた。
 何度も大きなケガをして、言葉にしがたい困難から立ち上がってきた生形を見て来た。無事を祈ることしかできなかった。
 だが生形は、そんな心配をよそにバトルを見せる。ラストレースの生形の雄姿を捉えようとカメラが切り替わる。果敢に挑み、前車を捉える姿が数周に渡ってモニターに大写しになる。生形は前に出ると、後続を突き放してチェッカーを受けた。
どんな状況でも、最善を尽くし諦めない生形を象徴するような走りだった。
 いつだって、生形は諦めることを自身に許さず、不死鳥のように蘇るライダー人生を送った。
「僕の身体の85%は、悔しさと挫折で出来ている」
 生形はそう言って笑った。

 生形は1977年、静岡県清水に生まれた。幼少期からバイク好きの父親と一緒に白糸サーキットに出かけ、PWなどのバイクを楽しんでいた。趣味の世界で、そこから未来へとつながるという意識はなかった。
 中学に上がるタイミングで、父から「続けたいなら応援する」と打診される。しかし、ここから先は金銭的負担が増えることを感じていた。親に負担をかけたくない思いと、同世代の友人と普通に遊びたい思いとでバイクから離れる。
 中学校、高校は「目指せNBA」とバスケットボールに熱中した。今でこそNBAで活躍する日本人がいるが、1990年代当初はバスケットだけでなく、野球もサッカーも世界での活躍は遠い世界だった。
 バイクから離れていたが、レース番組は見ていた。1994年のロードレース世界選手権日本ラウンド、鈴鹿サーキットでワイルドカード参戦した阿部典史が、世界の強豪とトップ争いを繰り広げていた。転倒で終わってしまうが、その雄姿は生形にとって衝撃だった。ノリック(阿部)は生形の2歳上。同世代のライダーの活躍は「レースなら世界に行けるのか」と野望を抱かせた。
 それは、希望や夢といった漠然とした思いではなく強い感情だった。その気持ちに突き動かされ、生形は工業高校を卒業すると父の経営する会社に就職する。機械加工や溶接などを扱っており、ここでの学びは生形の生涯の武器となる。

#生形秀之

 1995年、ミニバイクレース参戦を開始。孤軍奮闘で、メカニックも自分だった。バイクをバラし、組み上げ、整備してサーキットに通った。
 1997年、サーキット秋ヶ瀬で活躍するようになり、その速さはHonda関係者の目にとまり、チーム・エンデュランスを紹介された。1998年にはロードレースへとステップアップ。1999年には全日本へと昇格する。
 2000年から全日本フル参戦を始め、GP125ランキング21位。2001年にはGP125 ランキング12位。2002年、チームプラスワンへと移籍しランキング8位。
 当時、ロードレース世界選手権GP125では 日本人ライダーの活躍が顕著で坂田和人、青木治親ら世界チャンピオンが生まれていた。2002年、生形はワイルドカードで参戦を果たす。宇井陽一、東雅雄、上田昇らがトップ争いを見せ、大きな注目を集めていた。その予選で生形はレギュラー組より速いタイムを記録し力を示す。だが期待された決勝は追突され、あっけなくリタイアに終わった。
 2003年、MAX-SPEEDから声がかかりST600参戦を開始。大きな契約金が動くわけではなかったが、自費参戦から抜け出し、カワサキZX-6RRを駆りランキング18位。そして自身初となる鈴鹿8時間耐久(鈴鹿8耐)への挑戦で、14位の成績を残す。2004年はランキング14位となる。
 さらなる飛躍を求めた生形は、2005年の活動を模索する中で「自分のチームなら、自分の意志で走り続けることができる」と、自ら『エスパルスドリームレーシングチーム』を立ち上げる。Honda CBR600RRを駆り、ST600参戦を継続。その後、鈴鹿8耐にはさまざまなチームで挑戦し続けた。

#生形秀之

 ロードレースを始めた頃から生形の相談役となり、レースを支えてきた小澤広芳が振り返る。
「出会ったのは高校生の頃。J-GP2の最初くらいまで一緒にいたと思います。生形の魅力は──、これは良いところでもあり、悪いところでもあるのだが、言い出したら聞かないところ。自分にも相手にも課したハードルをクリアしていくことを求める。求められる側は鬱陶しいのですが、彼のために頑張ることで、知らないうちに巻き込まれていく。それが彼のストロングポイントだと思います」

 2010年にJ-GP2 がスタートする。Moto2の思想を取り入れ、「エンジンは市販量産、シャシーは自由」という技術開発色の強いクラスで、独自フレームやサスペンションセッティングを追求できた。開発力とライダーの技量が問われる戦いの中で、生形の真価が発揮される。
 2010年、2011年とランキング3位を獲得し、表彰台の常連となる。この時代、地元の支援者の中にバイク好きの人物がおり、多種多様なマシンを所有。それらに生形が試乗し、アドバイスを行う経験を積んだ。
「世界中のバイクに乗る機会があり、その個性や特徴を考えながら試乗することで、ライダーとしてのセンサーが鍛えられた」

#生形秀之
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 2012年はオートポリスで初優勝を飾り、渡辺一樹にチャンピオンを譲る形となったがランキング2位へと浮上。2013年には野左根航汰と生形がタイトル争いを展開したが、惜しくもランキング2位となる。2014年は、世界戦から戻った高橋裕紀、浦本修充、渡辺一馬、デチャ・クラサイト、関口太郎、井筒仁康、長島哲太らトップライダーがひしめく戦いの中で、大きな存在感を示し、再びランキング2位。その後もタイトル争いの主役であり続け、2015年まで4年連続でランキング2位となった。

#生形秀之
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#生形秀之

 2016年の第6戦・もてぎではポールポジションを獲得。水野 涼、関口太郎とのバトルを制し、優勝を飾る。「第3戦のもてぎ戦で悔しい思いをした後の勝利だったので、記憶に残る」一戦だ。ランキングは4位でシーズンを終えた。2017年はランキング3位となり、J-GP2挑戦は最後のシーズンとなった。

 生形を支えた松本圭司はエンジニア兼メカニックとして生形を支えた。
「いろんなことがあり過ぎて……何を言えばいいのかわからない。必死にチャンピオンを目指した時間は、金もなく、人間関係も大変なことの方が多かったが、一緒にバイクと向き合い、創意工夫しながら、お互いにレベルを上げていけた時間だったと思う。もてぎのストレートでエンジンブローして終わった後、同じもてぎで勝ったことは、生形も記憶に残っているはず。もてぎでは突っ込まれて転倒したレースもあり、なぜか悔しいことも嬉しいことも、もてぎで起きている気がする。そのすべてが心に残っている」
 J-GP2時代は、自身のポテンシャルを引き出すマシン作りとセッティングが可能だったことで、生形の才能が一気に花開いた。常にタイトル争いを繰り広げ、レースの主導権を握り続けた。シリーズタイトルには届かなかったが、それは生形が“生形であること”を示す戦いだった。

#生形秀之
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 J-GP2マシンへの確かな洞察力が評価され、2015〜16年にはSUZUKIのテストライダーに就任。MotoGPのテストなどにも関わる。
「J-GP2は、自分でフレームを作ったわけではないが、溶接加工の経験も生かしながらアイデアを出し、より乗りやすく、戦闘力が上がるように取り組めた。その理論やアプローチをメーカーの開発の方が聞いてくれるようになった。自分の感覚が価値を持ち、それを提供できた実感は、大きな充実感を与えてくれた」
 スズキに提出した生形のマシン分析資料は、現在も開発チームにとって重要な資料として読み継がれている。スズキ関係者は「多大な功績」と讃える。
 テストの仕事は SUZUKIのGP撤退とともに終わりを迎えるが、生形にとってはかけがえのない時間となった。

#生形秀之

 2017年、自らのチームで鈴鹿8耐に挑戦。全日本でチームを結成すること自体が並大抵ではないが、鈴鹿8耐はその苦労と同等、あるいはそれ以上の取り組みを要する。人も資金も一気に膨らむ一大プロジェクトだ。
 生形はライダーであると同時に、チーム経営者として営業をこなし、スタッフを集め、チームを構成するプロデューサーとしての顔を持つようになる。地元支援も取り付け、レースの世界への理解を広めていった。
 地元商店街には生形のポスターが掲げられ、「清水のプリンス」と呼ばれる存在となる。レーシングライダーとは分からない装いと端正な容姿に、レースを知らない人々も足を止めた。美しい妻と可愛い子どもたちを含めた“美形家族”として、パドックで有名な生形家は、やがて地元でも広く知られるようになる。清水エスパルスとのコラボレーションなど、活動の場はレースの枠を越えて広がっていった。

#生形秀之
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 2018年には「鈴鹿8耐表彰台」を目標に掲げ、鈴鹿8耐を見据えたマシン調整を含め、全日本最高峰JSB1000クラスへフル参戦。鈴鹿8耐では、生形秀之、トミー・ブライドウェル、渡辺一樹のトリオで4位入賞を果たす。プライベートチームとしては快挙であり、レース界に大きな衝撃を与える結果となった。
 2019年はJSB1000参戦を継続する。鈴鹿8耐にはトミー・ブライドウェル、ブラッドリー・レイとともに参戦するが、生形は金曜日の走行中のケガにより本戦を走ることができなかった。
「この年は、鈴鹿8耐の金曜日の走行で転倒してドクターヘリで運ばれて……。支援してくれていたスポンサーさんとの約束を果たすことができず、支援を失ってしまった。仕方のないことだが、さまざまなことがうまくいかない年だった」
 それでも、生形の中で自分をレースへと突き動かす“世界”への思いが消えることはなかった。

#生形秀之
#生形秀之

 新型コロナウイルス感染症が世界的に流行した2020年。何もかもが不透明だったが、生形はスペインスーパーバイク選手権(ESBK)第6戦への参戦にこぎつけ、16位、14位となり世界への足掛かりをつかんだ。同時に全日本JSB1000にもスポット参戦している。
 世界への道を模索し、世界耐久選手権への挑戦を試みるが、調整の難しさが立ちはだかる。実現直前まで進んだものの、最終調整で合意に至ることができず、断念する。
 2021年はJSB1000のスポット参戦のみ。2022年は体制を立て直し、鈴鹿8耐参戦に的を絞る。調整のため、JSB1000にもスポット参戦した。

 スズキ社員としてレース部門で中心的役割を担ってきた鴨宮保雄は、退社後に生形を支える側についた。社員時代から生形との付き合いがあり、新人時代には「そんな走りじゃ速くならないぞ」と苦言を呈し、叱咤激励を続けてきた。J-GP2時代には、ともにマシンに向き合い、助言を送った。ラストシーズンとなる2025年まで、その関係は続いた。
 その鴨宮にとって忘れられないのが、2022年の鈴鹿8耐だ。監督としてチームS-PULSE DREAM RACING・ITECに合流。ラインナップは生形秀之、津田拓也、渥美 心。予選では、生形がコースイン直後にエンジンストップ。Tカーで再出走し18番手。津田は天候不順でタイムを記録できず、渥美は急成長を見せタイムアップするも、予選13番手でトップ10からは漏れた。それでも決勝でも立て直す。
 優勝はTEAM HRC、2位にKawasaki Racing Team Suzuka 8H、3位にYoshimura SERT Motulと、優勝経験を持つチームが表彰台を独占したが、そこに迫ったのがS-PULSE DREAM RACING・ITECだった。
 生形は安定したペースを刻み、ミスのないスティントでチームを鼓舞した。渥美はラップタイムの落ち幅がない走りを貫き、津田は上位陣に迫るタイムを記録。スタッフもミスのないピットワークで3人をバックアップした。このチームワークは上位陣と遜色ない完成度を示し、3位争いに肉薄した。

#生形秀之

 監督の鴨宮が振り返る。
「スズキワークスの経験もある自分にとって、プライベートチームの戦いの大変さを実感するレースでもあった。あれもない、これもないという状況から準備を重ね、予選の天候悪化で津田が予選落ちかとハラハラしたが、起死回生のように決勝で良い戦いができた。初参戦の心の成長も感じ、津田も速さを示し、それをまとめる生形の力量も感じることができた。読み通りの展開で、ワークスチームでは味わうことのできない達成感だった」
 生形にとって2度目の総合4位。プライベートチームとして、この結果は特筆すべきものであり、ライダーの力量だけでなく、チームとしてのポテンシャルの高さを示すものだった。

#生形秀之

 鈴鹿8耐表彰台獲得を掲げて邁進するが、2023年開幕前のもてぎテストで、生形は転倒。前日の雨が残るコースだった。跳ね上がったマシンが生形を直撃する。
 ドクターヘリが飛び、関係者は「生形だ」と、心配そうに空を見上げた。
 その後、チームからの正式発表はなかったが、パドックでは深刻なケガだとの憶測が飛び交い、復帰は難しいのではないかと囁かれた。ケガの状況は深刻で、骨盤がバラバラになる破壊的な損傷。それをつなぎ合わせるのは困難と診断される。
 麻美はレントゲン写真を見て「ハート形のおせんべいがバリバリに割れているようだった」と語る。医師は「歩けるようになるか……」と告げた。搬送先の病院では手術が難しく、人脈をたどって執刀医を探さなければならなかった。奇跡のように、骨盤外傷の日本一とされるドクターにつながる。
 医師は「通常であれば、ここまでの骨折では他臓器の損傷もあり、外科に回ってくる可能性は低い。こうした患者に巡り合う機会はなかなかない。論文に残せるレベルです」と語った。誤解を恐れずに言えば、医学的な見地からも挑戦する価値があり、強いやりがいを持って生形と向き合ってくれた。
 後日談として、「ここまで酷い状態だと、亡くなっていることが多く、亡くなっていれば手術はしないでしょう」、だから外科に回ってくる可能性が低いのだ。命を落としていても不思議ではない大ケガだった。
 生形は食器洗浄機のような機械に入れられ、洗浄され、手術の時を待った。動くことのできない状態で天井だけを見つめる時間は、永遠に続くかのようだった。痛みは断続的に襲い、寝返りを打とうとすると、我慢強い生形でさえ悲鳴が上がった。
 痛みと戦い、思考が止まってしまうような日々から、生形は復帰に向けて考え始める。ミニバイクを始めた頃から、サーキット秋ヶ瀬の砂ぼこりが舞うパドックで、メンタル強化の本を読み漁っていた。ライダーとしての技術を高めること、マシンへの理解を深めることと同時に、メンタルを鍛えることにも取り組んできた。

#生形秀之

 日本のスポーツ界・ビジネス界に科学的メンタルマネジメントを持ち込んだ第一人者、西田文郎との出会いも大きかった。
「困難な時ほど、これをチャンスだと思え」という言葉は、くじけない心を育んだ。
「幸せの法則は、振り子のようなもの。最悪な状況に振れれば振れるほど、そこから這い上がった時の幸福度は大きくなる。今は、振り子が大きく最悪へと振れている状態だが、絶対にこのままでは終わらない。諦めるわけにはいかない。自分を信じて応援してくれている支援者、家族に、ライダーとしての自分をもう一度、見てもらわなければ」
「ライダーとしての復活」という強い気持ちがなければ耐えられない日々は、祈りの時間以外の何物でもなかった。

 麻美は見守るしかなかった。
「自分の好きなことをして生きられる人は一握りだと思います。それは、とても幸せなこと。だから、それに挑めるのなら……」
 麻美は、レースを知らない医師にライディングの写真を持参し、フォームを見てもらった。映像を用いて、身体がどのように動くのか、どこに力がかかるのか、何が必要なのかを確認してもらっている。
「無茶ぶりですか?」という麻美の問いに、医師は「歩けるようになったらいいと思ってほしいのだけど……がんばるね」と答えた。
 生形も手術の説明の際に、「ここが柔軟に動かないと走れない。靭帯の動きは確保してほしい」と懇願する。医師は、健常者として日常生活ができるだけでも難しい状況であることに変わりはなかったが、生形と麻美の熱意を受け取り、アスリートとしての復活なのだと意識を変えてくれた。

#生形秀之
#生形秀之

 手術は成功し、リハビリが始まる。だがベッドから起き上がれない。意志の力を総動員しても、身体はピクリとも動かなかった。まずは車椅子へ移動することから始まった。
 過酷なリハビリが続く中、この時サポートしてくれた理学療法士・西郷和史は、生形の姿を驚きと感嘆をもって記憶している。通常は痛みで続けられない患者を励ます立場だが、生形に対しては、無理をするなとストッパーになった。

 2023年、過酷なリハビリを乗り越え、鈴鹿8時間耐久参戦へとこぎつける。さすがにライダーとしての復帰は難しく、監督としてチームを率い、8位でチェッカーを受けた。
 そして全日本ロードレース選手権最終戦・鈴鹿で、ライダーとして復帰する。その年の復帰は難しいと関係者は理解していた。だが奇跡のようにレーシングスーツをまとい、生形は走り出した。
 復帰は自己判断。医師は何も言わなかった。
 麻美は「来年へとつなげるために、最終戦で自分がいることを示したかったのだと思います」と、生形の行動に理解を示していた。
 だがヘアピン手前180km/h走行中110Rで転倒し、大腿骨と足首を骨折してしまう。
 その場にいたカメラマンに、生形は「もう、レース辞めるからさ、写真撮っておいて」と、激痛に苦しみながらも声をかけた。
「さすがにあの時はもう、辞めようと思ったんです。自分が思い描いてきた復帰劇のストーリーとは違うものになって……。必死で頑張ってきた時間も崩れ去って、さすがにもう無理だって……。でも、そこから怒りに似た感情が湧いてくる。情けないというか、数日後また、“やってやる”というふうに、気持ちが変化していった」
 腹部には、尿道欠損のためのチューブが3月から刺さったまま。骨折の手術後、ある程度のリハビリが終わると無理を言って退院し、復帰に向け動き始めた。麻美は「バリアフリーの病院で、じっくり治してもらった方が……」と言いながらも、いつも先回りしてドアを開け荷物を持ち、献身的に支えた。
 そこに、スズキが鈴鹿8耐に参戦するというニュースが飛び込んできた。まだ公表前だったが、生形はスズキ関係者に「ライダーラインナップに加えてほしい」と打診する。(続く)


2026/03/14掲載