テイスト・オブ・ツクバの「ZERO-4」は、1980年代までの車両を対象とする。2スト250cc以下、4スト241〜555cc以下という制限のなか、当時のマシンが今もなお火花を散らす“時代の交差点”のようなクラスだ。ここに亀作和哉が、SP忠男RT・RF48&CSRから永井康友が95年にスーパーバイク世界選手権(WSBK)に参戦していた時と同じカラーリングのFZR400で参戦している。
- ■文・佐藤洋美 ■写真:赤松 孝
永井康友は名門SP忠男レーシング出身で、1987年筑波選手権ノービスF3、SP400ダブルチャンピオンに輝いた逸材。1988年全日本ジュニア250でも頂点に立ち、1989年ヤマハファクトリー入りを果たした。1995年にはWSBKにフル参戦を開始し世界の頂点を目指した。
だが第10戦オランダ、アッセンの2ヒートでエンジンブローした車両が蒔いたオイルに乗り転倒して帰らぬ人となった。
全日本500ccクラスのV3チャンピオン・藤原儀彦やスーパーバイク2冠の吉川和多留にとっては、友人でありライバル、ロードレース世界選手権チャンピオンの原田哲也にとっては兄のような存在だった。埼玉県出身の永井は地元後輩の面倒見も良く、同郷の加藤大治郎や亀谷長純ら、メーカーに関係なく接し慕われる存在だった。
地元のバイク仲間たちにとっては、揺るぎないヒーローだった。
亀作和哉は永井が無名時代からの友人でありバイク仲間だ。彼の死は大きな喪失で、受け入れがたいものだった。今でも仲間たちが集まっての墓参りは欠かすことのできないものになっている。
亀作は永井や仲間たちと団地でバイクに乘り、タイムやテクニックを競った。永井が1986年にロードレースデビューし、勝利を挙げる姿を見て「自分だって」と1988年にロードレース開始。1989年は予選落ちが続くが、1989年には何とか形となっていった。
1990年に4年落ちのマシンで奮闘する亀作を見た永井がSP忠男に推薦してくれた。SP忠男は、ヤマハ入りした塩森俊修や町井邦生らスターを生み出した名門チームで、当時のノービスライダーたちにとっては憧れの存在だった。シーズン途中にチーム員となった亀作は、最新モデルを駆りタイトル争いを展開しランキング2位へと浮上した。1991年の鈴鹿4時間耐久では金山博将と組んで予選7番手から決勝は2位で表彰台に登っている。
同期には加藤義昌、茨木 繁、松戸直樹らがいる。93年には松戸とツクバ500kmレースでポール・トウ・ウィンを飾った。活躍するも金銭的理由で、1994年限りで引退を決めた。
亀作は永井がいなくなった寂しさの中で「永井康友のファンにもアピールしたい。永井というレーサーがいたことを思い出してほしい。忘れないでほしい」という思いを抱いていた。
永井が1987年に筑波選手権でタイトルを獲得、そのマシンを亀作が受け継ぎ、その後も夢を追い掛けるライダーたちに乗り継がれたマシンを、永井の後輩にあたる興末丈司が25年間も保管してくれていた。自身もテイストに参戦する興末が、亀作を誘ってくれた。
そのマシンで参戦を試みたが、コストがかかることで断念。前年までZERO4に参戦していた大根田 隆からマシンを購入し参戦に向けて準備する。
ツナギは、形見分けとして受け取った人物が提供してくれ、レース仲間が経営するレーシングスーツ・YONEZOでサイズを調整した。ヘルメットもメンテナンスしてもらい、吉川はブーツを提供してくれた。マフラーはSP忠男が当時専用設計したものを装着している。自らエンジンをメンテナンスし、オーバーホールしスペアエンジンも用意した。メタルやピストンも変えた。ヘルメットとマシンの塗装を手掛けたのは、SP忠男のチーム員だったアルファレイズ社長の林 修司。タイヤは武中伸浩が協力してくれた。こうして永井レプリカは、多くの人の協力で完成した。
永井の大親友だった西野公章は、MFJのピットクルーライセンスを取り直し、立ち上げから献身的にサポートしてくれた。鈴鹿4耐のペアライダーだった金山も欠かさず応援にかけつける。今回の監督はSP忠男出身の原田伸也(兄は哲也)だ。当時の永井のマネージャーだった荒木 敏もやって来る。亀作と同じように、永井を忘れたくない仲間のバックアップで、2019年に参戦にこぎつけた。
「自分は全日本時代のメッツカラーの永井のマシンの方が好きですが、世界一を目指していた永井の思いを引き継ぐということで、WSBKの時のカラーリングにした」
昨年は念願の優勝を果たし、SP忠男の鈴木忠男社長も祝福に訪れた、今回は予選4番手、決勝も4番手でチェッカーを受けた。
永井は1995年からWSBK参戦が決まり、亀作をメカニックとして帯同してもらおうとしていたが、亀作が就職と結婚を決めたことを聞き、その誘いを胸に収めた。このことを亀作が知るのは永井が亡くなった後だった。
「声をかけてくれていたら、絶対に喜んでついて行ったのにと思う。永井のそばにいられるだけで良かった。面倒見が良くて、いたずら小僧で、いつも笑いがあって、楽しくて……」
亀作は今でもやるせない思いを抱えている。そこには永井との叶わなかった世界を目指す時間がある。
「WSBK参戦の永井のチームメイトがコーリン・エドワーズだったので、その後のコーリンの活躍を見るたびに、コーリンより絶対に速かった永井もMotoGPで活躍したのにと思ってしまう。走り続けてほしかったという思いが、今も、頭の中をぐるぐるとめぐります」
永井が亡くなって30年が過ぎたが、いまだにこのマシンを見て「永井さんですよね」とピットやパドックで声をかけられる。それが「何より嬉しい」と亀作は言う。数年前には参戦を最後にしようと決め、永井の父は亡くなっていたので母を招待した。サーキットで息子を亡くした母親が来てくれるのかと危惧したが応援に来てくれ、表彰台に上がる姿を見てもらうことが出来た。
小学校の先生だった永井の母は、教育者の懇談の会で「自分のことを紹介してくれたと聞きました。今も息子を忘れずに活動してくれる人がいる」と語ったという。
亀作は参戦継続を決め、今も58㎏の体重を維持し、ダイエットを続けている。
「58歳になり、走行を1本走ったら首は痛いし、昨日は足がつりました。若い時はダイエットすれば、脂肪だけ落ちるけど、今は筋肉も落ちてしまうのでトレーニングもしなければと思う」
永井を忘れないために。そして、永井の走ろうとした“その先”を、自分の走りでつなぐために……。
仕事の合間にマシンメンテナンスして、年2回のテイストのレース参戦の継続を誓う。レース日は、同窓会のように仲間たちが集う。SP忠男のトレードマークでもある目玉ヘルメットを持ったファンが、今も亀作の元を訪れる。
(文:佐藤洋美、写真:赤松 孝)
