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小椋 藍が2024年ロードレース世界選手権(WGP)Moto2クラスでタイトルを獲得した。日本人ライダーとしては青山博一以来15年ぶりのチャンピオン獲得となり、WGP史上日本人としては7人目の快挙となった。
この世界チャンピオン獲得は、自身初の偉業というだけでなく『大治郎カップ』や『アジアタレントカップ』出身ライダーとして初のタイトルであり、そこに参戦するライダーたちにとって大きな希望となり小椋 藍のチャンピオンをより一層輝くものとした。今季はトラックハウスからMotoGP参戦を開始、最高峰クラスの挑戦が始まる。


■文:佐藤洋美 ■写真:赤松 孝 ■写真提供:ピレリ、クシタニ

「たぶん3歳くらい。泣いていました。なんとなく覚えている。怖かったんだと思います」
 小椋 藍の最初のバイクの記憶だ。そして、その当時を「楽しくなかったですね」と振り返る。

 小椋の父正治さんは桶川スポーツランドを中心に活動し、地方選に参戦するライダーだった。チームメイトには青山博一・周平兄弟、高橋裕紀・江紀兄弟、のちに清成龍一や高橋巧といったライダーたちがいた通称「桶川塾」の一員だった。
 正治さんは香織さんと結婚して華恋が生まれ、3年後に藍も誕生する。サーキットに家族で出かけ、正治さんがバイクから降りると「華恋が次は自分が乗るものだと思って待っていた」という。
「“乗りたいのか?”と聞くと“乗りたい”と言う。それならとポケバイを始めました。自然に藍も乗り始めます。やるのなら目標は世界で1番になる、頂点を目指そうと言っていました。そういう意識を子供ながらに感じていたと思います。でも、自分の夢を子供に託すとか、そういう気持ちはなかった。だから、華恋にも藍にも嫌ならやめればいいと言っていました」

 母親の香織さんも振り返る。
「藍の性格は父親そっくり、ブレないんです。こうと決めたら何があっても突き詰めていく。あの頃は家族の中心はバイクで、バイクに必要なものは揃えていましたが、藍はボロボロのツナギを着ていた。綺麗なものを買ってあげたかったけど、節約してレース資金にしていました」

 WGPチャンピオンの加藤大治郎さんが2003年から始めた『大治郎カップ』に小椋家は参戦する。正治さんの懸命に支える姿と、香織さんは美形、そして華恋は可愛い容姿と速さで注目選手だった。藍はおさがりの大きなツナギを着てヨロヨロと華恋の後をついて行く姿が愛らしく小椋家はバドックでも目立っていた。
 華恋と同時期に走っていた水野 涼や國峰啄磨はその後全日本ロードレース選手権で活躍している。華恋ちゃんの弟というポジションの藍は成長してミニバイクへとステップアップする。
「ミニバイクの頃から勝ち始めてバイクが楽しいなと思いました。でも、楽しかったのは、あの頃だけかもしれない。地方選からロードレースを始めて、遊びじゃないんだって感じて苦しかったような気がします」
 応援する人が増え責任を感じることが苦しさの正体だった。プロフェッショナルの意識は、この頃から芽生える。「バイクで生きて行こう」と決意を固めたのもこの頃だ。

#小椋藍
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 2014年からホンダは若手育成を目的にアジア圏のライダーを対象にアジアタレントカップを始める。藍はそのセレクションに参加することになる。海外で行われるセレクションには費用が必要で、小椋家は準備して藍を送り出そうとしていた。
 だが、華恋がタイランド選手権の予選で転倒、後続車両に轢かれて肺挫傷、頬骨骨折、顎の脱臼、頭部内出血の大怪我を負う。母は現地に飛んだ。幸い命に別状はなかったが頭部を轢かれ顔に損傷が残るのではないかと心配が残った。たいへんな状況となり藍に「セレクションは諦めて」と告げた。
「号泣したと聞いたけど?」と問いかけると藍は「号泣はしていません。それはない。号泣したことは、子供の頃はあったかもしれないけどないです。行ければ未来につながるけど、行けなければ終わり、その二択だと思っていた。挑戦してダメなら仕方ないけど、それさえできないのかと辛かった」

#小椋藍
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 香織さんは「号泣はしてなかったですね。自分の部屋に行ってふとんを被って泣き声が私たちに聞こえないようにしていた。その姿を見てセレクションに参加させなければと思いました。大変だったけど、あの時送り出さなければ、今の藍はいなかったのかも知れない」と語った。
 藍は「家族が頑張ってくれて参加出来た」と感謝を口にした。

 セレクションに合格して2015年アジアタレントカップに参戦する。先輩には鳥羽海斗、佐々木歩夢がいる。この年1勝と2位2回でランキング7位。佐々木がチャンピオンを獲得する。2016年はチャンピオン争いを繰り広げ3勝を挙げランキング2位、この時のチャンピオンが長らくチームメイトとして一緒に戦うソムキアット・チャントラだ。同年はレッドブルMotoGPルーキーズカップにも参戦しランキング11位。ここでも佐々木がタイトルを獲得している。

#小椋藍

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 2017年、MotoGPへの登竜門であるCEVレプソル Moto3ジュニア世界選手権に参戦。第5戦エストリルで3位表彰台、第6戦ヘレスで初優勝しランキング8位。ルーキーズカップでは2勝を挙げランキング5位。この年、2014年アジアタレントカップチャンピオンの鳥羽海斗、佐々木はMoto3に参戦を開始する。
 2018年Moto3ジュニア世界選手権では最終戦バレンシアで優勝を飾る。2位1回・3位2回でランキング5位となる。この年、WGP第4戦スペインGP、オランダGP、ドイツGP、オーストリアGPにスポット参戦した。

#小椋藍
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 2019年はホンダ・チーム・アジアからMoto3クラスに参戦を開始する。第5戦フランスGPで左手を骨折し次戦を欠場するが第14戦アラゴンで2位初表彰台を獲得した。
 2020年はMoto3でチャンピオン争いに加わる。2位2回・3位5回など15戦中14戦でポイントを獲得。アルベルト・アレナスから8ポイント差の2位につけて最終戦ポルトガルGPを迎えたが逆転はならず、ランキング2位にトニー・アルボリーノ、小椋は3位となる。佐々木はランキング16位、鳥羽はランキング18位と苦戦し、日本人ライダーの中では小椋が秀でる。

 2021年にMoto2クラスへ昇格し第11戦オーストリアGPで2位初表彰台を獲得。18戦中12戦でポイントを獲得しランキング8位。
 2022年第6戦スペインGPで初優勝を飾る。第13戦オーストリアGPで2度目の勝利。第16戦日本GPは体調を崩し高熱がありながら予選13番手からトップに浮上し自身初の母国優勝を果たす。日本人ライダーの母国優勝は2006年の青山博一以来16年ぶりだった。
 チャンピオン争いは小椋とアウグスト・フェルナンデスの一騎打ちとなり、第19戦マレーシアGP、小椋はフェルナンデスより先行しながら最終ラップにトップを狙って転倒。再逆転をかけた最終戦バレンシアGPも転倒リタイア。20戦中ポールポジション3回、表彰台に7度登り、3勝を挙げるがランキング2位だった。

#小椋藍
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 2023年、タイトル獲得を期待されるがシーズン前のトレーニングで負った左手脱臼骨折の回復が遅れて開幕2戦を欠場、日本GPではチームメイトのチャントラが勝ち2位に小椋が入りワンツーフィニッシュしてチームは歓喜に包まれた。日本GPを含め3度の表彰台を獲得するがランキング9位に留まる。
 それでも、シーズン中盤には、2024年からMotoGP参戦のオファーがホンダから来たと噂になっていた。遂に世界最高峰クラスへの参戦かと関係者は色めき立つが小椋はMoto2参戦を決めるのだ。

#小椋藍

 正治さんは、今もサーキット秋ヶ瀬や桶川スポーツランドでレースがあるとまめに顔を出す。昔から正治さんを知る関係者は「本当にレースが好きなのね」と声をかけ歓迎している。
 筆者は「MotoGP参戦を断ったって聞いたけど世界に行けるライダーは一握り、そこからMotoGP参戦を掴むライダーはなかなかいない。来年も同じようなオフォーがあると決まっているわけではないのに断ってしまったことを後悔はしないのかな?」と正治さんに話しかけた。
 正治さんはこう答えた。
「藍はこれまでチャンピオンになったことがないから、どうしてもチャンピオンになりたいと拘っている。だから、今はMotoGPのことは考えられないのだと思う」

#小椋藍
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 アジアタレントカップ、レッドブルMotoGPルーキーズカップ、スペイン選手権、Moto3、Moto2と、タイトル争いを繰り広げるが、決定戦では怪我や転倒などで、タイトル獲得に相応しい速さを示しながらチャンピオンという称号は小椋の手から滑り落ちるように届かなかった。
「どうしてだったと思う?」と小椋に聞いた。
「限界を超えないように一歩引いてポイントを重ねているのが、決定戦になると頑張ってしまう。そこがダメなんでしょうね」
──タイトルを決めるレースでは本来の自分の力を示したい。それを示した上でチャンピオンになりたいと思うから限界を超えてしまうの?
「それは、ちょっと聞こえが良い。そんなカッコ良いものではないです。チャンピオンになれなかったということでしかない」
──それが許せなかった? だからチャンピオンに拘ったの?
「そう嫌ですね。ふっとした時に、俺は2番なんだと思う。そこに区切りをつけたかった」

 2024年はホンダ・チーム・アジアから離れ、Moto2クラスに新規参戦するMTヘルメット-MSIチームへ移籍した。フレームはカレックスからボスコスクーロ、ワンメイクタイヤはダンロップからピレリへとレース環境が大きく変わった。
「チーフメカニックのノーマン・ランクも一緒の移籍だったので、皆が心配するほどのビッグチェンジではなかった。クルーがついて来てくれたので、力を発揮出来るパッケージだと思いました」

#小椋藍
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 小椋は第6戦カタルーニャGPで2022年日本GP以来1年8ヵ月ぶりに勝ち、第8戦オランダGPで2勝目。右手骨折のため第11戦オーストリアGPを欠場する。
 このケガで「今年もダメなのか」と不安が襲うが、第13戦サンマリノGPで3勝目を挙げる。まだ、怪我の痛手が残る中での快走に「行ける」と手応えを得る。
 第16戦日本GPは不安定な天候となり決勝で降り始めた雨のために赤旗中断となった。路面は濡れているが、その後の状況は読めない。小椋は「大きな声に従おう」とノーマンの「スリックだ」との選択を受け入れ濡れた路面に飛び出す。28人中、スリックタイヤを選んだのは8人だけだった。
  小椋よりもドライ寄りのタイヤを選んだマニュエル・ゴンザレスに抜かれてしまうが小椋は2位で表彰台に登る。ポイントを争うライバルはレインタイヤを選んで下位に沈んだ。

#小椋藍
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 第18戦タイGPで小椋はタイトルの可能性を手繰り寄せる。ポールポジションを獲得し決勝ではトップを追うも小雨が落ち赤旗中断でレース成立となり小椋は2位でチャンピオンに輝く。ランキング2位のアロン・カネトに51pt差をつけ、今季残り2レースを残しての決定だった。圧倒的な強さを示してのチャンピオン獲得だ。
 ウイニングランではライバルたちが次々に祝福の手を差し伸べた。セレモニーはノーマンと将棋盤を挟んで小椋が大手を決め、ノーマンが「参りました」と頭を下げた。その将棋盤がチャンピオンプレートとなり、チャンピオンTシャツとヘルメットを受け取り小椋はコースに戻った。

 大声援を受けながらピットロードに入り多くの関係者の祝福を受ける。スタッフに抱え上げられ、不安定な姿勢での胴上げではあったがスタッフの喜びが伝わるものだった。表彰台のセレモニーの後にはシャンパンボトルを抱えて小椋はチームスタッフにシャンパンを浴びせかけた。雨とシャンパンがスタッフの歓喜の涙を隠した。
 そこには笑顔ではしゃぐ小椋の姿があった。あんな無防備な笑顔を初めて見たファンも多いはずだ。藍の喜びが伝わり見守る人達にも笑顔が広がった。 

#小椋藍
#小椋藍

 家族も駆けつけ藍の願い続けたチャンピオン獲得を見届けた。今も変わらずにオフのトレーニングでは小椋専用メカニックとして奮闘する正治さんに「やっぱり泣いてしまいますよね」と訊いた。
「それは、嬉しかったですよ。でも、日本とタイは走り込んでいるし勝たなければならないところ。決定戦も勝つと思っていたのに2位だったから泣けなかった。勝たないと喜べない」
 父の辛口の返答だったが、その喜びの深さは計り知れない。
 藍のレースで泣いたのは怪我明けや、怪我があっても力を示したレースなのだと教えてくれた。今年は初めてのトライが続く中で、初めてを言い訳にせずに、走行直後にタイムを記録する走りに成長を感じたと言う。
「親としては大治郎カップからどのレースも変らないんですよ。レースの重みの違いはあるのかもしれないけど心配しながら応援している。どのレースも大差ない」
 それでも、藍が区切りをつけ、新たな一歩を踏み出せたことを誰よりも喜んでいるのは正治さんのような気がした。

 小椋はもみくちゃにされるような手荒な祝福と歓喜のセレモニーを終えると青山博一を訪ねている。アジアタレントカップから指導してくれた恩人でもあり、2023年まで青山監督と一緒に戦って来た。小椋はタイトル獲得の報告と感謝を伝えている。
 青山博一は2009年WGP250王者であり、MotoGPライダーとして活躍、現在はイデミツ・ホンダ・チームアジアの監督であり小椋を良く知る人物だ。アジアタレントカップ参戦ライダーの指導にあたり、そこをステップにWGP参戦を果たしたライダーを見て来た。小椋もそんなひとりである。

#小椋藍

 青山は自身のチームでタイトル獲得とならなかったことは「残念ですが」としながらも、小椋にとって、他チームを経験することは成長のためにプラスになるだろうと小椋にアドバイスし快く送り出している。
「藍の父親とは同じチームでレースをしていたんです。だから、藍よりも先にお父さんやお母さんと会っている。ご両親が藍をたいへんな思いをして支えて来たことも知っているので、藍の世界チャンピオン獲得は、両親の思いも感じて特別な気持ちになります」

 子供の頃は姉の華恋の影に隠れ、アジアタレントカップや、Moto3では鳥羽や佐々木の方がフォーカスされ表に出ることのあまりなかった小椋の力を、青山は認めていたと言う。
「藍は、みんなと一緒にいるよりもひとりでいる方を好み口数が少なくて大人しい子でした。真摯にレースに向き合い確実に力を付けて速さを身に着けた」
 青山も現役時代に他メーカーチームからMotoGPの誘いを受けたが、それを蹴って250チャンピオンに拘った経験があり、小椋の気持ちが理解できると語った。
「チャンピオンになったという自信は精神的な支えになる」
 青山はエールを送る。
 さらに青山は「アジアタレントカップから世界チャンピオンになってくれたことも嬉しいことで、このプロジェクトが成功したことを示すことでもある」と小椋のタイトル獲得を称賛した。
 小椋のチャンピオン獲得を受けて、アジアタレントカップ時代の小椋のレースが、多くのSNSで流れた。
 また、加藤大治郎が立ち上げた『大治郎カップ』出身ライダーとしても初の快挙だった。大治郎カップは加藤が“世界を目指す子供が育ってほしい”と20年ぶりにサーキット秋ヶ瀬でポケバイを復活させたものだ。大治郎カップを主催するデルタエンタープライズからチャンピオンマシンと同じカラーリングの74Daijiroが小椋に贈られている。

#小椋藍
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 大治郎カップから世界へと巣立ったライダーの中に富沢祥也がいる。小椋は子供の頃にプレゼンターとして訪れた富沢からトロフィーをもらっている。
 小椋は加藤の永久欠番となった74と富沢祥也の48をつなぎに縫い付けている。MotoGPライダーになっても「それは変らない」と言う。

 2024年年末には子供の頃から走り今もトレーニングに通う桶川スポーツランドのシーズンエンドパーティがあり、ゲストとして呼ばれた小椋のお祝いがサプライズで行われた。大きな花束とケーキが用意され、サーキットの仲間たちが「おめでとう」と声をかけた。
 2025年1月にはアライヘルメットのイベントに参加、500人を超えるファンが集まった。抽選となったチャンピオン報告会には300人の人が訪れ大きな達磨に片目を入れ健闘を誓った。

 そして、いよいよMotoGPへの挑戦が始まる。
「これまでのクラスは、このライダーには勝てるかなと何人かには感じることがあったけど、MotoGPにはいない。全員がやばいライダーばかりだ」
 小椋は、共にMotoGPに上がるチャントラとの雑談で語っていた。
 今季はメカニックのノーマンとも離れ、新たなチームでのスタートとなる。小椋は「ノーマンとは2024年にちゃんとやり切ろうと約束してそれが果たせたと思う。だから、離れることに後悔はない。今年は、そういった意味でも新たなスタートになります」と語った。
 チームマネージャーのダビデ・ブリビオは「まずはMotoGPバイクがどんなものなのかを学ぶこと、それに経験を積んでいくこと、それに失敗することが大事なシーズンになると思う」と語る。

 プレシーズンテストは、2月5~7日にマレーシア・セパンサーキットで開催され、ルーキーライダーの小椋は、それに先駆けて1月31~2月2日に行なわれるシェイクダウンデーから参加した。開幕は3月2日タイから始まる。

追記:まだ、4歳か5歳くらいだったのだろうか? 藍君がバイクの置いてあるテントの奥で、澄んだ瞳から大粒の涙を流していた。レースで負けた悔し涙だ。あんまり切なくて可愛そうで可愛くて慰めたくて声をかけようとしたら、ミニバイクの重鎮のライダーに「そっとしておいてあげて下さい」と言われた。「大丈夫、また次がある」って言葉を飲み込んだ。
 こんなに小さくて可愛いのに、もう、立派なライダーなのだなと思った。そして、こんな負けず嫌いの男の子は、きっと速くなると思った。その男の子は、Moto2の世界チャンピオンになり、最高峰のMotoGPライダーになった。藍君を知る全ての人は、その誇らしさで胸をいっぱいにしている。
 天才ライダーというワードに小椋は「自分は、たとえばロレンソやストーナー、マルケスのような感覚でバーンと行けてしまう天才ではない」と言い切った。彼らとは違うかも知れないが、努力する天才ライダー『小椋 藍』としてじっくり、ジワジワと上がって行ってほしいと願う。思慮深く冷静な小椋がチャンピオン決定で見せた弾ける笑顔を、また、見せてくれる日を、ファンと一緒に待ちたいと思う。
(文・佐藤洋美、写真:赤松 孝、写真提供:クシタニ)

#小椋藍

2025/02/27掲載