ところで、バハ1000ってどんなレースなんだろう。
レースの発端は1960年代初頭、オフロードバイクや4WD車を使ったオフローダー達が、南北に細長いバハ・カリフォルニア半島のスピード縦断記録に挑んだことだった。そして1968年、正式に“メキシカン1000ラリー”として、半島北部にあるアメリカとの国境の町・ティファナから半島南部にある町・ラパスまでの約1000マイルで競われた。
実はこのレース、世界の冒険オフロードレースの先駆け的存在で、かのパリ~ダカールラリーの創設者、ティエリー・サビーヌもダカールラリーを始める前に、BAJA1000の主催者にイベントのノウハウを直接聞きに来たほど当時からメジャーなイベントだった。
今年で44回目を迎え、アメリカとの国境から南に60マイルほど走った太平洋岸の町・エンセナダをスタートし、再びその地に戻る全行程710マイル。スタートから32時間以内でフィニッシュすれば完走扱いとなる。
さて、戸井十月さんと仲間達“チーム・エル・コヨーテ”の2011年バハ1000。11月17日にレースの受付・車検、そして18日レーススタートというスケジュールに向け、チームはどう動いたのか。
11月6日──チームは成田からロサンゼルスに向け出発した。レースの準備をすること、そしてレース前にレースコースをプレランする事から逆算すると、実はこれでもギリギリだった。
11月7日──ロスアンゼルスからクルマで2時間弱の距離にあるサンバーナディーノへ。ここにあるシャパレル・モータースポーツというバイクとバイク用品のメガマートで買い物。そこからフリーウエイで20分ほどの距離にあるリバーサイドに移動。この地で長らくショップを構える伝説のライダー、マルコム・スミスのお店、マルコム・スミス・モータースポーツにてKTM350XCF-Wを2台購入。さらにその足でKTMノースアメリカのガレージを訪問。この日は丸一日ツアーとなった。ホテルに戻るとレンタカーのオドメーターは軽く300マイルを超していた。
11月8日──ホテルでバイクの準備を開始。注文をしていたパーツを取りつけ、レース車両の準備に没頭。メカニックとして同行した手塚は時差ボケにもめげず作業を進行。というか、メゲてる余裕が無かったのだ。
- メカニックの手塚正芳。普段は都内府中市にあるモトショップ・ストラーダ( http://ms-strada.com/ )で働いている。2000年のバハの時にもエル・コヨーテに同行。それ以来11年ぶり。KTMをレースで触るのは初めて。ダカールラリーにメカニックとして参加した経験も持ち、環境が整わないところでバイクをイジりだすと、妙に燃える男?
11月9日──作業を進めるうちに必ず出てくるのが新たに必要になるパーツ。それを探しに再び買い物ツアーへと出る。準備開始3日目。フリーウエイに迫る宵闇にどことなく気持ちが焦る……。
11月10日──予定より1日遅れてロスアンゼルスからプレランへ出発。この日、ちょっと買い物をするため再びシャパレルへ。ついでなのでもう一度マルコム・スミス・モータースポーツに寄りダメ押しのパーツを物色。その後、フリーウエイの入り口近くにあったレストランで昼食。先日は吉野屋で牛丼を食べたが、今日はハワイアンスタイルのランチ。ご飯に刻んだキャベツを載せ、そこにチキンカツ。上には甘辛いソース、となんだか書くとすごいが、食べるといける。でも、量が多すぎて(どれも全般的にコチラに来てからの食事はそうだが)食べ疲れする。完食は断念。一路バハ・カリフォルニアを目指して南下を開始した。オーシャンサイドからサンディエゴまでの間、驚くほどフリーウエイが渋滞。この週末、アメリカは3連休のため、と後で知る。国境を越えたところにあるイミグレーションでツーリストカードの申請をする。マストです、これ。
国境を越えティファナの町に入る。アメリカから入ると“整然”から“混沌”に場面が変わったように思えるほどガラリと変化。懐かしい。そしてなぜか時間を追うごとに和んでくる。有料道路の料金所を3回通過してバハ1000がスタートする町、エンセナダに入る。今回、この町で泊まるのはクゥインタスパパガヨというコテージスタイルの宿。以前にもバハ1000の時に泊まった。雰囲気は同じだったが、レストランなどしっかり今風に進化していた。午後10時、エンセナダ着を祝って乾杯。
| 前のページへ | このページのトップへ | 次のページへ |