「その扉の向こうには危険が待っている。望むなら連れて行こう」By ティエリー・サビーヌ 24年ぶりにHondaが帰ってきた! ダカール、復帰1年目を振り返る——チーム代表・山崎勝実さんに聞く

HONDA

 Hondaは2012年を“オフロードの年”と位置づけ、様々な仕掛けをしてきた。まず全日本モトクロスではチャンピオン・成田亮を獲得し、チームHRCが大暴れしたモトクロスシーン、そして春にはCRF250Lをリリース。XR250以来途絶えていた250クラスフルサイズのHonda・デュアルパーパスの系譜に再び火を点けた。
「実はまだ大きな話題が一つありますから楽しみにしていて下さい」——そう言われたことがその時点ではどんな事なのか明らかにされていなかった。

 そうした動きの中で7月に発表された“Honda、ダカールラリーに24年ぶりとなるワークスチームを送り込み復帰”というニュース。
 今だからこそ聞いておきたい、復帰へのいきさつ、そしてこれからを——。チーム代表、山崎勝実さんに聞く。

松井 勉(以下松井):ダカールラリーへの復帰。これはいつ頃からの構想だったのでしょうか。


TEAM HRC——ダカールラリー チーム代表 山崎勝実(以下山崎):まず、我々のビジネスでは、南米ではオートバイが売れている、という状況があります。また、ご存知のように2009年からダカールラリーは南米で開催され、現地では人気のあるレースイベントとして定着しています。そのダカールラリーにHondaも参戦して欲しい、南米のビジネスとダカールを上手く合体できないものか、という声が社内外で挙がってきました。
 そこで、日本本社、南米、欧州など関係者で協議し、ニ輪事業のトップメンバーを経て、参加する、という意志決定をされたのが2012年1月です。
 そこからマシンをどうするのかを検討しました。通常は一つの地域と協議すればいいのですが、ダカールに関しては、南米をはじめ各地域、現地法人などと協議する必要があり、開発のプロジェクトが出来たのが4月の中頃でした。そこから開発担当者を任命し、開発が始まりました。
 その時点では私はプロジェクトメンバーではありませんでした。なにをやっているのか、どんなことが行われているのかは知っていましたが、5月の連休明けにチームのまとめ役の“代表”に就任するようにと、本田技術研究所 二輪R&Dセンター(以下、二輪R&Dセンター)のセンター長兼HRC社長の鈴木哲夫より話があり、チームに合流したのが連休明けです。
 そうこうしているうちに4月に発足したプロジェクトの最初の車ができたのが6月の初旬でした。その段階で契約をしていたライダー、エルダー・ロドリゲス(ポルトガル)とサム・サンダーランド(イギリス:ダカール実戦はテストでの怪我のため不参加)に二輪R&Dセンターに来てもらい、最初にやったのがマシンのクレイモデル(粘土=クレイを使用した外装デザイン検討用モデル)に跨がってもらってのバイクチェックでした。


こちらで動画が見られない方、もっと大きな映像で楽しみたい方は、YOUTUBEのサイトで直接ご覧ください。

パリダカールとは

キャンプ地でダカールラリーの展開と今後に思いを馳せるTEAM HRCの代表、山崎勝実さん。長い夜はまだ始まったばかりだ

11カ国30名以上のチームを束ね、全体を俯瞰する立場だった
キャンプ地でダカールラリーの展開と今後に思いを馳せるTEAM HRCの代表、山崎勝実さん。長い夜はまだ始まったばかりだ。 11カ国30名以上のチームを束ね、全体を俯瞰する立場だった。

松井:各地域とは何を協議したのですか?


山崎:一言で言うと“ビジョン”です。Hondaとして何を目的としてダカールに参戦するのかを協議しました。HRCが1986年から1989年までNXR750で参戦したとき、それは勝利が目的でした。1995年に、朝霞研究所(現二輪R&Dセンター)から2ストロークのマシンで参戦していますが、それは2ストロークエンジンの環境適合への研究開発が目的でした。
 今回はHondaがどんなビジョンをもってダカールに臨むのか。それをしっかり決めておかないとぶれてしまう。Hondaは大きな企業で、各地域に現地法人もある。ダカールはそうした現地法人の協力も得ながら参加することになる。そこで参戦する目的をぶれないようにする必要がある。そのへんの整合性、意思統一です。つまりこのビジョンづくりが肝でした。これさえ決まれば優秀な人材がいっぱいいますから、あとはその人達が推し進めてくれる部分もあります。

松井:そのビジョン、とは?


山崎:話は、昔にさかのぼります。当時、’80年代後半にNXRで参戦して連勝しました。その時はプロトタイプのマシンでした。プロトタイプはスペシャルなカテゴリーで、制約が少なく何でも出来る。けれども、例えば当時商品とのリンケージがあったか、といえばそうは言えないですね。当時、Hondaのブランド構築は出来たけれども、ラリーの参戦で得たものを商品としてどれだけお客様に貢献出来たか。それは疑問だよね、と。
 そのあとに二輪R&Dセンターから環境の適合というニーズがあり、’95年にEXP-2でダカールラリーに参加しました。その時は技術的な要望だったので明確だったんです。



DAKAR 2013


 そして今回、’80年代後半から24年ぶりにHondaが出るという意味合いはどんなものなのか。ダカールラリーのコンセプトは当時も今も変わっていないと思います。しかし車両のレギュレーションは大きく変わってきている。当時は1000㏄、2気筒、4気筒などいろいろありました。いろいろなニーズ(一部ワークスだけがコストを投下してスペシャルなマシンを作り勝つという図式から、アマチュアイズムを復権させたかった。また、ハイスピード化による事故の多発も速度制限、排気量制限で抑えて行く方向になった)から現在は450の単気筒をベースに、クランクケースは量産のものを使うことなど決められています。改造範囲が絞られています。

 


 ならば我々として量産車を使って出る意味は、ダカールの技術をそれに関連する商品に、お客様が求めている商品に転化することだろうと。それを一つの目標として掲げました。
 お客様に対する技術のフィードバックです。それを目指してやる。
 一方、Hondaのブランドとして勝たないといけないよね、と。またレースファンやお客様と感動を共有しないといけないよね、と。Hondaとして新たにチャレンジする姿を見てもらわないといけないよね、と。これが今回のビジョンです。少し硬い話ですが、充分煮詰めておかないとズレが生じてしまう。そうならないようにしないといけない。意志が統一されていないと充分な仕事が出来なくなってしまいます。この部分はしっかりとしておく必要がありました。あわせて、2年目以降はどうするかという部分も時間を掛けて話しをしています。


CRF450RALLYを短期間で実戦マシンへと育て上げた2012年。しかし2013年に迎えた初戦のダカールではあらためてその厳しさに触れる。ノーズ下に貼られたお守りが印象的
CRF450RALLYを短期間で実戦マシンへと育て上げた2012年。しかし2013年に迎えた初戦のダカールではあらためてその厳しさに触れる。ノーズ下に貼られたお守りが印象的。

松井:今、Hondaではこの先何年ぐらいダカールを続ける、となっているのでしょう?


山崎:今のところ、何年間とは具体的には発言していません。先日、HRCの鈴木哲夫を含めてHonda本社の上層部と会談を持ちました。彼らは、ダカールというのは凄いレースだね、間違いなく世界一のモータースポーツの一つだね、と。これは続けて行くべきだね、と感じたそうです。

松井:HRCの社長であり、二輪R&Dセンターのセンター長でもある鈴木哲夫さんは、ダカールのスタート、フィニッシュ地点に本社の上層部とともに赴き、ダカールラリーのスケールを目の当たりにされた、と聞きました。ラリーのコース脇に並ぶ人がまるで“箱根駅伝”のように途切れることがなく、チームスタッフが移動するサポート用の一般道でも、ダカールラリーの一行を一目見ようと、同じように観客が詰めかけていたと。



DAKAR 2013


山崎:我々も将来的に長く続けていき、お客様へのフィードバックを出し続けられるビジョンのもと、やって行かないといけないと思っています。もちろんビジネスのこと、地域ごとのダカールラリーへの関心の度合い、景気動向、売り上げへの貢献度の違いはあると思います。しかし基本的に続けていけるはずだ、と。何年間やるかが重要なのではないんです。なんのために参戦するのか、という明確なビジョンがあれば、続けていける。そう感じています。


ライダーがステージでレースをしている間、チームスタッフもクルマ、飛行機で移動をする。山崎さんたちはホンダ・リッジラインに乗り連日数百キロの道のりを移動。サポートカーにも主催者から支給されたGPSが備わり、違法運転などがないか衛星を使って常に監視されている

ライダーがステージでレースをしている間、チームスタッフもクルマ、飛行機で移動をする。山崎さんたちはホンダ・リッジラインに乗り連日数百キロの道のりを移動。サポートカーにも主催者から支給されたGPSが備わり、違法運転などがないか衛星を使って常に監視されている
ライダーがステージでレースをしている間、チームスタッフもクルマ、飛行機で移動をする。山崎さんたちはホンダ・リッジラインに乗り連日数百キロの道のりを移動。サポートカーにも主催者から支給されたGPSが備わり、違法運転などがないか衛星を使って常に監視されている。

松井:2012年の準備から2013年の実戦を通じて、初年度の結果への評価としては?


山崎:2013年のダカールは、実質半年を切る期間のマシン開発でした。日本でのマシンテスト、モロッコラリーでの実戦テスト、カリフォルニアでの最終テストとライダーの怪我。それらを経験しながら異次元の速さで進んだプロジェクトの中、ダカールラリーに参戦した3名のライダー、エルダー・ロドリゲス、ハビエル・ピゾリト、ジョニー・キャンベルの3名が完走もすることができた。当初の目的は達成したと思います。
 総括すればこの1年は勉強の年でした。いわば24年間参戦をサボっていたわけです。それをいかに一年、実際は半年で取り戻すか。勉強するための年でした。それからすると、現場に赴いたメンバーもいろいろな事を学んで成長して戻ってきているはずです。

松井:ある意味チーム作りの年でもあった……?


山崎:そうですね。それはここにいるメンバーだけではなく、今回、11カ国からメンバーがチームに加わり、言葉は違っても、全員が同じ思いで2週間を過ごした。それぞれが成長したと思います。

松井:そうした混成チームとして頂点を目指していくのか、それとも今後、もっとMotoGPのような優勝請負人達だけのエリートチームのようなカタチになっていくのか。どうするのでしょうか?


山崎:自分は3月1日付けで、二輪R&DセンターからHRCに異動しました。昨年度は開発サイドから参加していたわけですが、二輪R&Dセンターはレース専門会社ではないので、マシン開発のための業務とは別に、レースのマネジメント領域のいろいろな業務や問題が出てくるわけです。例えばライダーとの契約はどうするのかとか、パーツや機材の発送、それぞれとの段取りとか、いろいろありすぎて能力を超えていた。背伸びをしすぎていたと思います。
 そうした部分は、HRCの人にしっかりと動いて頂くべきでしょう、という大きな反省があったんです。自分がHRCに異動し、戦略のようなところをダカールが終わった直後からいろいろと考えている、ということです。



ダカールラリーとの関わりをより深める方針だというホンダ。ワークスチームの活躍もさることながら、プライベートで参戦するホンダライダーに写真のような“ホンダビレッジ”がダカールラリーのキャンプに現れる日も遠くないかもしれない。
ダカールラリーとの関わりをより深める方針だというホンダ。ワークスチームの活躍もさることながら、プライベートで参戦するホンダライダーに写真のような“ホンダビレッジ”がダカールラリーのキャンプに現れる日も遠くないかもしれない。


 MotoGPは、確かに固定したメンバーが集まったプロフェッショナルなチームです。ビジネス的にも盛り上げながら、ブランド価値を上げて行くレースです。それに対し、ダカールを含めオフロードのレースはその根底に草レース的な部分があり、誰でも参加できるのが特徴です。あの“Baja1000”なんかも古くから誰でも参加できるわけです。基本的なマインドは草レースであって、誰でも参加ができる。いろいろな制約はあるものの、広く参加者を受け入れる垣根の低さがあります。ダカールラリーもそれを大事にしていかないと意味がないと考えています。
 ですから、スタッフにしろ、なんにしろ、広い視野で、適正な人材、やりたい人、を集めないと将来的にはシュリンクしてしまう……。

松井:参戦するビジョンが理解できてきました。


山崎:日本では、ダカールラリーの知名度は以前は高かったけど、今はそうでもない。少しでもダカールに関心を持っている人達を増やし、より盛り上げていくにはどうしたらいいのか、という部分はマシンの開発とは次元の違う話だけど重要です。
 また、今は参加者の半分以上がKTMでの参戦ですが、Hondaはいい結果を出し、そこで得た技術を投入したキット車を造って販売し、ラリーでのHondaマシンのシェアを広げていきたいとも考えています。レースに勝ち、Hondaファンの皆さんの期待に応え続けるためにも、ビジネスとして成立する必要があります。そんなことも考えています。
 ビジョンというのはそういうところです。将来的にHondaはダカールをどのように進めていくのか。そういうところなんです。

松井:ラリー用市販バイクを出しているKTMは一つのビジネスモデルであると。


山崎:真似る気はありません。それでも、僕達はKTMがダカールを11連覇もして凄いな、と思っています。2013年のダカールも終わってみればトップ5、全てがKTMだった。素晴らしいと思っています。その辺の事実は真摯に受け止めてはいます。我々としてはさらにプラスアルファとしてやって行くこと。それを狙っています。

 山崎勝実さんが語るダカールへのビジョンは明快だった。この世界一のモータースポーツに関わり、真正面から取り組み、戦い、時に破れ、強くも人間臭いダカールラリーに欠かせない挑戦者としてHondaが存在し続けること。そしてダカールラリーに挑むというプライベーターの後ろ盾になろうというのである。
 かつてNXR750が走った当時のダカールは超ワンオフの、GPシーンに近かったと言える。今のダカールのルールに当てはめれば、WSBのような市販車の皮を被った狼、というものではなく、スーパーストッククラスなどに見られるファインチューンを積み重ねた強さ、ベースマシンから鍛えなければならないという本気度を計っているかのようだ。それこそ、ダカールラリーがHondaにビジョンの必要性を強烈に認識させた部分もあるだろう。
 2012年、トップ争いを演じるライダー達ですら、日々のスペシャルステージを走り、ライバルに付けられるタイム差は数秒から多くて数分だ。そこにはライダー達の駆け引きも存在するが、パワーがあれば、資本があれば、勝てる、というレースではもはやない。ライダー、サポート、バイク、をワンパックにしたチームの総合力が日々問われるのが今のダカールだ。
 たった2週間だが、ミスなく強い走りを演じない限り、勝利は訪れない。ダカールファンは、だからこそこのラリーの魅力に引き込まれる。私達は、Hondaがこのステージに挑戦を再び開始した、という事をまず歓び、そして2014年ダカールはすでに始まっていることを知っておこう。

 次回はダカールへと続く開発の道、現地での苦悩、苦闘を体験したチームHRCの開発者達の声を紹介したい。(チームメンバー達のダカール編-に続く)



エルダー・ロドリゲス


ジョニー・キャンベル


ハビエル・ピゾリト
TEAM HRCのライダー、エルダー・ロドリゲス(ポルトガル・写真上)、ジョニー・キャンベル(アメリカ・写真中)、ハビエル・ピゾリト(アルゼンチン・写真下)が2013年ダカールに参戦。サム・サンダーランド(イギリス)、フェリッペ・ゾナル(ブラジル)の2名を含めた5名体勢で臨む計画だった。サンダーランド、ゾナルの2名はダカール直前の最終テストで負傷し、出場を断念する。


山崎勝実さんと(左)と、本田技術研究所 二輪R&Dセンターのセンター長兼HRC社長の鈴木哲夫さん
山崎勝実さんと(左)と、本田技術研究所 二輪R&Dセンターのセンター長兼HRC社長の鈴木哲夫さん。

Hondaはダカールラリーに戻ってきた。24年のブランクは大きいが、この先、ダカールラリーの一部となって歴史に名を刻むことになるのは間違いなさそうだ
Hondaはダカールラリーに戻ってきた。24年のブランクは大きいが、この先、ダカールラリーの一部となって歴史に名を刻むことになるのは間違いなさそうだ。

[1・24年ぶりにHondaが帰ってきた! ダカール、復帰1年目を振り返る——チーム代表・山崎勝実さんに聞く]
[2・チームメンバー達のダカール・前編へ]
[3・チームメンバー達のダカール・後編へ]