世界GPにおいて、2ストローク・500cc4気筒ユニットをヤマハは単純にTZ250のそれを連装して造り上げたが、逆にスズキは“超ハイテク”を駆使した’60年代のGPシーンに立ち戻り、根本的なエンジン設計から着手し始めた。結局、それは1963年11月の日本GPで、名手エルンスト・デグナーが駆り鈴鹿にその名を残したいわくつきの250ccレーサーRZ63スクエア4を、10年ぶりに2倍サイズで復活させることになるのである。
開発ライダーのバリー・シーンは’74年からGPにそれを持ち出し、’76〜’77年にチャンピオンを得る。だが、一方のヤマハも負けじとケニー・ロバーツにYZRを与えて’78〜’80年のタイトルを奪う。
そのため、スズキの技術陣は、ケニー・ロバーツをライダーの差ではなくてマシンの差で打ち負かす、を目的とするさらなるRGB、RGΓの開発を進めていくのだ。アルミフレーム、16インチタイヤ、ウイング付きカウル等のトライは、結果として’81年にマルコ・ルッキネリ、’82年にはフランコ・ウンチーニをチャンピオンに導いている。
この栄光のGPレーサーのレプリカが市販RG400/500Γなのだ。ロータリーディスクバルブ吸入、500の54mmボア×ストロークは’76年〜’81年のワークスと同値である。日本向けは64psだったが輸出仕様は95psで230km/hと、ライバルRZVにここでも大差をつけている。