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本社の敷地にあるピレリ・ミュージアムにも足を運んだ。ドアを開けた右側の壁にあったのは現在、ピレリが独占供給するF1タイヤ(左)、1930年代のレーシングタイヤ(中上)、1950年代のF1タイヤ(中下)、そしてひときわ大きな右端のタイヤは、1907年に行われたパリ〜北京エクスペディションに参加したイタラに履かせたタイヤ(のレプリカ)。クルーはシッビオーネ・ボルケーゼ、ルイジ・バルツィーの2人。彼らは見事に優勝を果たした。当時タイヤはカーボンがブレンドされてなかったため本物は黒くなかったという。ちなみにホイールは木製。そのでかさは現代のF1タイヤからご想像いただきたい。
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館内の一部屋、気温20度、湿度50%の定温管理された部屋のラックを開けると、かつてピレリが広告で使った有名画家によるイラストの原画など貴重なものが保管されている。創業当時、タイヤばかりではなく衣類も手がけていたピレリ、その後は湯たんぽ、氷嚢、ラバー製の人形、パンプスに着ける雨よけのカバー、レインコートなど衣類というよりファッション部門があった、と紹介したいほどスタイリッシュな製品を送り出していた。
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↑この人こそピレリの創業者、ジョバンニ・バティスタ・ピレリ。
←その中に残る当時の町並みを俯瞰した一枚。一番左端が工場のある敷地。そしてオレンジ色の屋根が並ぶ家々は、従業員のために作られた住居だという。この建物は現存する。周りは農村の風景が広がるのが分かる。
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創業当時のピレリ(左)、そして20世紀初頭、今から100年以上前の工場と従業員。衣類を生産したことで、針子として女性が多く働いていた。写真には子供達が多く写っている。「迎賓館」が託児所として機能していた史実を裏付けるもの。
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かつてカール・ルイスを起用した広告で使われた赤いパンプスも展示されていた。
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かつてピレリが製造していたアンダーウエア。
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時代、製品、ピレリのブランド性を今に伝えるイラスト群。館内を案内してくれたスタッフによると、画家のパトロン的存在でもあったという。
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ミラノの大聖堂。賑わいを見せる街並。かなり離れないと一枚に収まらない大聖堂、ドゥオーモ。近づくとそれは芸術性の高い美術品の集合体のような建築で、教会内も荘厳なまでの装飾が施されている。そうした視点に長けた人がみればまさに「お菓子の家」なのではないだろうか。
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バイクを停めるにストレスはなさそう。これが至る所に見られるミラノの街並。もちろん、多い少ないはあるが、完全に市民権を得ている。バイク、クルマのメーカーが日本同様に多く、サッカー、自転車やその競技、芸術に建築、あらゆる物の基準が美意識と歴史感が混ざり合う中に上手く混在している。
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大聖堂から歩いて5分の距離にあるフェラーリストア。
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そんなミラノにあるピレリのPゼロショップ。ピレリとアパレルのコラボ? くらいに思っていたが、本社のミュージアムで歴史を目の当たりにしたあとにこちらにやってくると、ピレリというメーカーの歩を綺麗にフォローする商品群、ブランディングに感動することに。同郷のアルファロメオの博物館からティーポ33が、そして鮮やかなブルーのランチア・ストラトスが、そしてジレラの古いサトルゥノが・・・・。おいてある椅子にまでビンテージスポーツカーの室内を思わせるバケット調のものが置かれていたり、非売品ながら、長靴やラバーのオモチャ、などがかざってあったり、ゴム引き風レインウエアがあったり、オールドスクールなロードレーサーに真新しいチューブラーホイールを履いたモデルがおいてあったり、もうそれはそれは勉強になるショップでした。
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ホテルの目の前の通りにあったバイク用パーキング。昼間はバイクがいっぱいで白線すら見えなかったが、夜になるとご覧のとおり。
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ホテルの前に停まっていたFXSTC。
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こちらはVRSCDX。
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←街中をスクーターのようにスイスイ泳ぐR1200GSの姿はよく見かけた。
→TMAXの弟分にあたる125/250のXMAXもミラノではモテアイテムらしくメガスクータークラスではダントツの目撃率をほこっていた。
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