数多くの名車、名レーサーが当時のコンディションで保存展示されている世界最大規模のホンダコレクションホール。現在その姿を見られるだけでも素晴らしいのだが、動態保存を基本としており、コンディションを保つためにも走行確認テストが時折開催されている。元祖ドライダー宮城光氏のライディングにより、普段はめったに見られない走行する姿とサウンドを堪能することができ大変貴重なチャンスでもある。ホンダが世界グランプリ(WGP)に参戦を開始して60年という記念すべき今年、海外で切磋琢磨し続けた長い歴史を、いままで取材した動態保存車の動画をメインに振り返ってみよう。
●解説:濱矢文夫・時野 実
●撮影:依田 麗 ●取材協力:Honda https://www.honda.co.jp/ ホンダコレクションホール https://www.honda.co.jp/collection-hall/
前編・WGP初参戦から頂点へ。1959〜1967年
1959年 ついにWGPへ初参戦へ
本田宗一郎氏が世界最高峰のマン島TTレースへの出場宣言したのは1954年の3月。ホンダは市販車改造でレースに出場した経験はあったが、専用車両は初で、試行錯誤の末に完成したRC141、142は、ヨーロッパの人達が初めて目にした日本製レーサーだった。 その後のRCシリーズに受け継がれるダイヤモンドタイプのバックボーンフレームに搭載した空冷4ストロークDOHC直列2気筒125ccエンジンはRC141が2バルブ、RC142はさらに出力を高めた4バルブ。カムシャフト駆動はチェーンではなく、高回転での連続使用にも耐えられるバーチカルシャフトにベベルギアを組み合わせたもの。
1960年 125cc、250ccクラスに本格参戦開始
優勝したMVアグスタに大きく離されたことを課題とし、本格的にWGPへ参戦した翌年は125ccクラスに加えて250ccクラスにも参戦。リーディングリンク式フロントサスペンションをより大きいストロークがとれるテレスコピックフォークに変更。エンジンは35°前傾し、同じ回転数での最高出力を向上。250はRC142エンジンを2つ並べたような世界初となる250cc4気筒レーサーのRC160から大幅に改良したRC161。125同様に35°前傾した4気筒DOHC4バルブエンジンは、4連キャブを採用。カムシャフト駆動はカムギアトレーン化されていた。計6戦を走り、125ccクラスでRC143はジム・レッドマンが4位を2回。250ccクラスでRC161は王者MVアグスタに迫る速さを見せ第4戦西ドイツGPで田中健二郎が3位に入り、初年度に初表彰台を手に入れた。
1961年 念願の日本人ライダー初優勝。125cc、250ccクラスを制覇
初優勝は初めてマン島を走ってから3年目となる1961年。開幕戦スペインGPでRC143を駆るトム・フィリスが125ccクラスで勝利。この年、125ccはカムギアトレーン化されたが、再び2バルブで車体にも手を加えた新型RC144を投入。しかし思うようなパワーが得られず、RC143の4バルブエンジンをRC144の車体に搭載した2RC143をフランスGPから走らせた。トム・フィリスだけでなく、、ルイジ・タベリ、ジム・レッドマン、マイク・ヘイルウッドにより11戦中8勝し、トム・フィリスが年間チャンピオン。250ccクラスでは吸排気バルブを拡大し、前傾を35°から30°にするなど大幅に変わったRC162が登場。第2戦西ドイツGP250ccクラスでは、高橋国光が日本人初のWGP表彰台の一番高いところに登った。11戦10勝という圧倒的な強さを誇り、マイク・ヘイルウッドの年間1位を筆頭に5位までをホンダ勢が占めた。ホンダは125ccクラス、250ccクラスでメーカータイトルを獲得。当然ながらもうホンダを知らない人はいなくなっていた。
1962年〜1965年 350ccクラスへも制覇するもライバル台頭の時代
1962年はRC162をベースに排気量285ccとしたRC170で350ccクラスにも進出。125cc、250cc、350ccクラスでライダーとメーカーのタイトルを手中に納めた。1963年はRC170から排気量を上げたRC172で2年連続350ccクラスを制し、250ccクラスも3年連続制覇。しかし、この頃からよりパワーが出やすく、より簡素な構造で軽くできる2ストロークエンジンが台頭し、125ccクラスはタイトルを逃がした。 2ストロークに対抗するためには、よりパワーを得るためにエンジンをさらに高回転化しなければならない。ホンダが選んだ手法は多気筒化だった。1963年最終戦に4気筒125ccマシン、RC146をデビューさせ、1964年は改良型2RC146を用意した。4気筒は2気筒と同じ回転数でもピストンスピードは下がる。だからピストンスピードを2気筒と同じに高めるとより高回転まで回るのである。もうひとつのメリットは振動が少なくスムーズな特性になること。4気筒のRC146は2ストローク勢を圧倒。タイトルを取り戻した。その125ccクラス4気筒マシンの最終型が1965年の4RC146だ。精密に作られた4気筒エンジンは毎分18000回転以上回った。 多気筒、高回転化はホンダの技術力の結晶である。1962年から始まった50ccクラスは、DOHC4バルブ単気筒のRC110、RC111でスタートし、世界初の50cc4ストローク2気筒となるRC112を生んで、RC113、RC114と進化しながら2ストローク勢を相手に奮戦。1965年、よりショートストロークにして回転数を上げたRC115は7戦中5勝。北アイルランド出身のラルフ・ブライアンズがタイトルを奪取した2気筒50ccマシンは2ストロークマシンより軽い車重に、14psを驚きの毎分21500回転で発生するエンジンで、最高速度は175km/hまで達した。 250ccは4気筒のRC162から、9戦全勝して1962年の世界選手権を締めくくったRC163、翌年もタイトルを獲得したRC164と続く。しかし、1964年は2ストローク勢に苦戦。そこで終盤のイタリアGPに驚きの新型を持ち込んだ。過去に例のない24バルブの直列6気筒エンジンを搭載したRC165だ。年間チャンピオン争いをしていたジム・レッドマンに与えられ3位。最終戦日本GP(鈴鹿)では優勝。しかし彼はチャンピオンの座を逃してしまったが、その甲高い独特な音と速さは可能性を感じさせるに十分だった。
1966年〜 多気筒マシンが大活躍。前人未到の全クラス制覇へ
次シーズンは究極の速さを求め、マグネシウム合金やチタンなどで軽量化した6気筒エンジンのRC166が現れる。蓋を開けてみると、マイク・ヘイルウッドがなんと10戦全勝という快挙を達成。1967年も6気筒でマイク・ヘイルウッドが連覇。250ccに続いて350ccクラスもマルチシリンダー化を推進。1967年にRC166をベースに排気量を増やした6気筒の新型RC174がサーキットを駆け抜け8戦7勝。ライダーとメーカーの両方で栄冠を掴んだ。 最高峰500ccクラスにも満を持して参戦するため1966年にRC181を走らせた。エンジンレイアウトはオーソドックスとも言える空冷4ストロークDOHC直列4気筒エンジンだが最高出力は500ccクラスの常識を破る80PSオーバー。マイク・ヘイルウッドとジム・レッドマンに委ねられ、ライダータイトルこそ逃したが、メーカータイトルを勝ち取る。これでホンダは50ccから500ccまでの全クラスを制覇したことになる。1967年は排気量を制限いっぱいの499ccまで増やしフリクションロスなどを減らした2RC181へと進化。年間タイトルは逃したが、60周年記念大会となったマン島TTでマイク・ヘイルウッドが2RC181で記録した平均時速108.77マイル(約174km/h)は、1975年まで破られることのないとんでもないものだった。 ホンダのレース第一期は、東洋の小さな国の誰も知らないメーカーによる無謀とも言える宣言からスタートし、高い技術とアイデアによって多くの勝利を掴みサーキットを席巻した常勝ホンダへと至る世界を変えた立身出世の物語であった。
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ホンダが初めて海外のレースに挑戦したのは1954年。ブラジルのサンパウロ市政400周年を記念して開催されたサンパウロ国際オートレースであった。1周約8kmのコースを7周するレースで、十分な準備期間もない中の出場であったが、ドリームE(150cc)をベースに製作したR125(125cc)は22台中13位で見事完走を果たした。 ホンダが初めて製作したWGPレーサーが125ccのRC141、RC142であった。市販車ベースではない完全な専用設計の空冷4ストローク2気筒DOHC4バルブ124.6cc(RC141は2バルブ)エンジンをバックボーンフレームに搭載、フロントサスはリーディングリンク式だった。初陣は1959年6月6日、WGP第2戦マン島TT。社員ライダーの谷口尚己選手、鈴木義一選手、鈴木淳三選手の3台のRC142と、現地で急遽4バルブ化された田中楨助選手のRC141の計4台が決勝グリッドに並んだ。レースは、MVアグスタ、MZ、ドゥカティらの欧州の名門メーカーを相手にそれぞれ6、7、11、8位と見事完走、初出場ながらメーカーチーム賞を受賞した。この経験を元に、翌年の浅間火山レース用にRC142のエンジンを2つ並べたような4気筒250ccレーサーRC160を開発して圧勝。翌シーズンへの大きな足がかりを作った。
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1959年のマン島TTレースに参戦したのは、ホンダの社員ライダーである谷口尚己選手(6位)、田中禎助選手(8位)、鈴木義一選手(7位)、鈴木淳三選手(11位)とアメリカ人のビル・ハントの5名。監督は後にホンダの2代目社長となる河島喜好氏が務めた。 | ||
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RC142でマン島を走る谷口選手。MVアグスタ、ドゥカティ、MZなどの老舗強豪メーカーを相手に初出場ながら6位完走という予想外の好成績を収めた。 | マン島参戦後の8月、浅間火山レース用にRC142のエンジンを2つ並べたような手法で製作されたRC160。わずか2ヶ月という開発期間ながら見事優勝を飾った。 | |
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ホンダWGP参戦の翌年、テレスコピックフロントフォークの採用などで車体を見直したRC143が、マン島においてデビューし6位から10位までを占める。1961年はさらに改良を重ねた2RC143により125ccのライダーランキング1、3〜6位をホンダが独占、マニュファクチャラーズタイトルとのダブルチャンピオンを獲得した。翌年は11戦10勝を挙げ、125ccクラスにおいては1962年のRC145まで、熟成を重ねたDOHC4バルブの2気筒エンジンが完璧といえる活躍を続けた。 迎えた1963年は、欧州老舗メーカーに替わって力を付け、前年ホンダから唯一1勝を奪ったスズキが、新開発の2ストローク2気筒エンジンRT63を投入、9勝を挙げたスズキに125ccのタイトルを奪われてしまった。軽量ハイパワーな2ストロークに対抗すべく開発されたのが4気筒エンジンのニューマシンRC146。1963年最終戦の日本GPに投入され、2位入賞と健闘をみせた。翌シーズンは盤石の体制で臨むべく、高出力高回転に磨きをかけた改良型の2RC146で参戦、7勝を挙げ見事にチャンピオンを奪回した。
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ホンダのWGPにおける初勝利は、1961年の開幕戦スペインGPの125クラス。オーストラリア人のトム・フィリス選手がRC143で挙げた。 | ホンダ125cc最後の2気筒レーサーRC145。最終シーズンとなった1962年は、ルイジ・タベリ選手、高橋国光選手らの活躍により10戦10勝と完璧な最後を飾った。 | |
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勝てない闘いが続いた1964年、土俵際に追い詰められたホンダは第7戦以降をキャンセルし、新エンジン開発に総力が注いだ。その切り札が空冷5気筒エンジンのRC148であった。27.44mmという超ショートストロークの50cc2気筒レーサーRC115のシリンダーを5つ並べたようなエンジンは、20500rpmで34psを発揮する超高回転高出力型の権化ともいうべき他に類を見ない、世界初の空冷5気筒125エンジンであった。
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1962年から開催が決定したWGP50ccクラスに向け、ホンダは単気筒DOHC4バルブのRC110を開発(後の市販レーサーCR110のベースとなった)、同年の東京モーターショーでお披露目された。実戦には9速ミッションとしたRC111も投入されたものの、小排気量での2スト有利を覆すまでには至らず苦戦を強いられた。そこで開発されたのがRC112であった。世界初の50cc2気筒エンジンはDOHC2バルブをカムギアトレーンで駆動、エンジンは17500回転で10馬力を発生した。1962年鈴鹿サーキットオープンを記念した第1回全日本ロードレース(国際規格ではない)でデビュー、初勝利を飾った。しかし、さらに安定した戦闘力アップのため、翌シーズンの50ccクラス参戦を回避したため、RC112の実戦はこの1戦のみとなりWGPを走ることはなかった。 満を持して1963年末に登場したRC113は4バルブへと進化、さらに高回転型となるとともに軽量化も行われた。最終戦の日本GPでルイジ・タベリ選手がこれまたデビューウィンを飾った。 そしてWGP50ccクラス参戦最終年となる1966年に登場したRC116は、究極まで進化した2気筒DOHC4バルブエンジンで、14ps/21000rpm(23000rpmまで高めたという説もある)という超高回転型で、そのエンジンは、電球のソケット程のシリンダーにマッチ棒のように細いバルブが入るまさに「時計のような精密機械」とまで言われた。RC116は、共に6戦3勝というスズキとの激しいバトルの末、僅差で制し2年連続マニュファクチャラーズタイトルを獲得、小排気量でもホンダの技術の高さを全世界にアピールした。
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2ストローク勢に対抗するため1962年に開発された世界初の50cc2気筒DOHCエンジンのRC112。デビュー戦で優勝したが実戦投入はこの1戦のみだった。 | RC112の戦闘力をさらにアップするため4バルブとなったRC113は1963年の最終戦に登場しデビューウィンを飾った。翌年後継モデルのRC114へ進化。 | |
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1965年の日本GP50ccクラス。RC115のタベリとブライアンズを挟んでライバルのスズキRK65がグリッドに並ぶ。 | これも1965年日本GP。RC114をショートストローク化したRC115をライディングするのはタベリとブライアンズ。 | |
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1959年のRC160に始まるホンダの4気筒250ccレーサー。1960年の西ドイツGPでRC161の田中健次郎選手が3位に入賞し、日本人ライダーとマシンのコンビで初めて表彰台へ上った。ダブルバックボーンフレームなどで改良された1961年のRC162は、デビュー戦となった5月、西ドイツGPにおいて高橋国光選手が日本人ライダー初優勝を成し遂げた。1962年はクロモリ鋼管フレーム、大径ブレーキなどを採用したRC163が、エース、ジム・レッドマン選手(1位6回であとの3回は2位)らの活躍により、参戦した9戦(最終戦は不出場)すべてを優勝で飾る快挙を達成した。
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RC160の進化版RC161。カム駆動はベベルギアからスーパーギア方式に改良され、車体回りもオフロードの浅間からマン島用に手直しを受けた。 | ダブルバックボーンフレームを採用したRC162。デビュー戦となった1961年第2戦西ドイツGPで、高橋国光選手が日本人初のWGP優勝を飾った。 | |
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1964年は4気筒のRC164ベースのマシンで参戦したが、ヤマハRD56は後半戦になると急速に力を付けて4連勝、ホンダは王者の座を奪われてしまった。ヤマハの猛烈な追い上げに対し、密かに開発が進められていた6気筒マシンは最終戦目前の第11戦イタリアGPでお目見えした。カムフラージュのために走行直前までマフラーは2本が外されており、新機種と悟られぬよう4気筒のRC164改良型を示す3RC164と呼ばれた。世界初の6気筒250ccレーサーは、膨大な発熱によるオーバーヒートに悩まされながらも、ジム・レッドマン選手により3位で完走した。最終戦日本GPでは発熱対策がなされたRC165へと進化、ジム・レッドマン選手はわずか2戦で6気筒に初勝利をもたらした。 新型6気筒によってチャンピオン奪回が期待された1965年だが、ジム・レッドマン選手の負傷による欠場などもあってヤマハが連覇。後のない1966年、さらに高回転型となりパワーアップされたエンジンに、軽量素材を多用し軽量化など各部の徹底的な改良が行なわれたニューマシンRC166が投入された。MVアグスタから復帰したマイク・ヘイルウッドは初戦から8連勝、出場した10戦(第9戦は未出走、最終戦日本GPはコースの安全性を問題にホンダは全クラス参戦をボイコット)すべて優勝という結果を残した。
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初の250cc6気筒マシン3RC164は、翌年RC165となりデビューしたが、当初はオーバーヒートに悩まされた。オイルクーラー装着など改良を重ねた。 | 1965年の最終戦日本GPにはRC165に発熱対策を施した2RC165が登場。マイク・ヘルウッド選手のライディングによって6気筒に初勝利をもたらした。 | |
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1962年、ホンダは350ccクラスへの参戦を開始した。MVアグスタが連覇を続けるこのクラスへの参戦用に、安定した強さを見せた4気筒250ccレーサーRC163のボアを3mm拡大したRC170(284.53cc 49ps)を投入した。しかし285ccではパワー不足は否めず、第7戦から350cc専用に設計された新エンジンのRC171(339.43cc 50ps)にスイッチ、3連勝を挙げ、参戦初年度からチャンピオンを獲得した。翌年は排気量を349.5ccにアップした53psのRC172へと進化し、2RC172(349.5cc 60PS)、RC173(349.5cc 70PS)と年々パワーアップを行ない1966年まで5連覇を果たした。
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1966年、数々の勝利を重ねたホンダは、最後に残された最高峰クラス500ccへ挑戦するためRC181を開発した。参戦以来蓄積し続けたノウハウの集大成ともいうべきマシンで、高回転高出力型の4気筒499ccエンジンは最高出力85ps、最高速度260km/h以上とRCシリーズの頂点にふさわしいハイスペックを誇った。この数値はライバルメーカーを凌ぎ、500cc開幕戦となる第2戦西ドイツGPにおいてジム・レッドマン選手が、王者MVアグスタのジャコモ・アゴスチーニ選手に大差をつけ圧勝した。次戦も勝ったものの、重い車量とパワーに対してポテンシャル不足のフレームなど扱いにくいマシンであったことも事実。軽量なMVアグスタの改良型マシンの登場で接戦となり、共に3勝ながら僅差でライダーチャンピオンは逃したもののマニュファクチャラーズタイトルを獲得、ホンダは前人未踏のWGP全クラスでマニュファクチャラーズタイトル制覇を成し遂げた。
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1966年に登場したホンダ最初の500ccマシンRC181。ボア57mmで489.94cc。最高出力84馬力。開幕戦を制したジム・レッドマン選手だが第3戦で転倒し引退へ追い込まれた。 | ジム・レッドマン選手が戦列を離れた1967年、最後のシーズンはマイク・ヘルウッド選手がMVアグスタのアゴスチーニ選手と熱い闘いを繰り広げたが僅差でライダーズチャンピオンを逃した。 | |
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ホンダワークス、再びサーキットへ。1976年〜
ヨーロッパ耐久へと舞台を移し参戦開始
ホンダのワークスレーシングマシンがグランプリから去って時は経ち、70年代に入りヨーロッパでは市販車を改造した大排気量車による耐久レースが盛り上がりをみせていた。欧州製2気筒エンジンから日本製の4気筒エンジンが主役となり参戦チームや観客は増える一方で争いは激化。その流れから1975年にFIM(国際モーターサイクリズム連盟)の選手権へと昇華、ヨーロッパ耐久選手権となった。純粋なレーシングマシンで戦うグランプリとは違い、身近にある市販車をベースにしていることもあり販売に直結しやすい。欧州の現地法人や有力ホンダディーラーチームはCB750FOURをベースにしたマシンで戦いながらも、カワサキの勢いに押され苦戦を強いられていたこともあり、本社に助けを求めた。
圧倒的な強さをみせた無敵艦隊RCB
ヨーロッパ市場でのブランドイメージを重要視したホンダは支援を決定し国際レースに復帰することになる。勝てるマシンという命題に1975年から開発がスタート。市販車にないエンジンレイアウトも検討されたが、CB750FOURと同じ空冷直列4気筒エンジンだった。クランクケース寸法は同じでシフト関係やトランスミッションに流用部品があったが基本的にクランクケースの材料からしてまるで別物。SOHC2バルブのCB750FOURに対し、DOHC4バルブのヘッドを採用してカムシャフト駆動はチェーンではなくセミカムギアトレーン。クランクシャフトはホンダのワークスレーサーとしてはプレーンメタル式を初めて採用。ホンダ初の耐久マシン、RCB1000が世に出た。初年度の1976年から頭角を現し、最も観客数を集めるボルドール24時間レースでは前年を87周も上回る速さでジャン・クロード・シュマラン/アレックス・ジョージ組が優勝。RCB1000はこの年から4年間、ライダーとメーカーの両タイトルを掴み、その強さから「無敵艦隊」と呼ばれるようになった。
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WGP参戦から7年と3ヶ月で、全5クラスでマニュファクチャラーズタイトル獲得という世界初の偉業(それまでの記録はMVアグスタの4クラス)を達成した翌1967年(最終シーズンは250、350、500クラスのみ参戦)を最後に、大型市販二輪車モデルや四輪車開発、F1参戦に集中するためホンダはWGP参戦を中止した。その後CB750FOURを始めとした市販車を送り出し、名実ともに世界一の二輪車メーカーとなったホンダは、1976年、再びサーキットに戻ってきた。舞台はWGPではなくヨーロッパ耐久ロード選手権であった。それまで参戦していたホンダフランス、ホンダブリテンの2チームを、日本で新設されたレース部門のH.E.R.T(ホンダ・エンデュランス・レーシング・チーム)が統括するという3国混成ワークス体制での参戦であった。 参戦に際しホンダが用意したワークスマシンはCB750FOURをベース(とはいえレギュレーションのためクランク周りは流用したが、他はほとんどが専用部品)にしたRCBであった。DOHC4バルブヘッドに、ボア68mmストローク63mmの915ccの空冷4気筒エンジンは、最高出力110馬力以上、最高速度は270km/h以上を発揮した。 1979年からはRCBのノウハウが投入された市販車CB900FをベースとしたRS1000へとバトンを渡しサーキットを去った。後継車のRS1000もヨーロッパ耐久のチャンピオンを獲得、1981年の鈴鹿8耐で優勝したこともあり、日本のファンにも人気が高い耐久レーサーであった。 |
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