手島雄介という男

 
9歳でポケットバイクに触れた少年は、デビューレースで優勝してしまった。才能は開花し、17歳になった手島雄介は鈴鹿4時間耐久でも優勝を果たす。しかしプライベートライダーに苦労はつきまとった。日本はもちろん、アジアのレースにも参戦。2007年にはホンダのワークスライダーとなるが、それも長くは続かなかった……。
2010年には世界へも挑戦した。ライダーなら誰もが夢見る世界チャンピオン。だが、「WGPチャンピオンを目指していたが、それだけが目指すものなのか」──自問自答する。
そしてたどり着いた新たな目標。「ライダーの夢を叶える手伝いがしたい」
それが、手島雄介という男である。

■文:佐藤洋美 ■写真:赤松 孝

 全日本ロードレース選手権ST600に『日本郵便 Honda Dream』が参戦を開始した。監督は手島雄介だ。ライダーは3名。小山知良(♯230)、國峰啄磨(♯55)はタイトル候補、そして育成ライダーとして亀井駿(♯420)を起用する。ゼッケンの230は“ふみの日”、420は4月20日の“郵政記念日”から採用されている。

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タイトルを狙うための布陣。♯230小山知良(写真左)と♯55國峰啄磨(写真右)。

 手島がバイクと出会ったのは9歳の時だ。バイクツーリングが趣味の父がポケットバイクのパンフレットを家に持ち帰った。少年にとってみれば、玩具を買ってもらえるのだから「欲しい」と答えた。その高価な玩具は1週間で届き、その後の手島の人生を決めたのだ。練習もそこそこに千葉県にあるポケバイのメッカである千葉北サーキットの初心者クラスに参戦。そこで手島はデビューレースで勝利する。

 手島少年の心は誇らしさでいっぱいになり、喜ぶ父の笑顔が、その昂揚感を更に高めた。
 そこから、週末は家族でサーキットに通う日々が始まる。上のクラスには後にロードレース世界選手権(WGP)250チャンピオンとなる青山博一やWGPで活躍する高橋裕紀、小山知良らが切磋琢磨していた。ポケバイ家族は、週末にはサーキットに泊まり込むことが多く、自然と絆を深めて行く。コース上ではライバルだが、パドックでは仲間だ。子供同士も友情を育んでいった。

 小山は先に名門チームのSP忠男に入り活動を続けていて、手島を誘ってくれた。手島はノービスライダーの登竜門でありライダーの甲子園とも言われる鈴鹿4時間耐久に参戦し17歳で優勝を飾り、一躍、注目選手となる。だが、プライベートライダーの苦労はついて回った。アライヘルメットで働かせてもらい、レースを続ける日々が続いた。それでも全日本ST600デビュー、アジアチャレンジカップで優勝を飾るなど、力を発揮する。2006年にはJSB1000参戦、ルーキーオブザイヤーに輝き、チャンスが訪れる。2007年ホンダワークスライダーとなる。念願叶いプロライダーとしてのスタートを切るのだが、それも長くは続かなかった。3年目にチーム消滅、手島はプライベートライダーへと逆戻りしてしまう。
「このままでは終われなかった」手島は、奮起し2007年全日本ST600でタイトルを獲得する。鈴鹿8時間耐久では優勝候補のTSRから伊藤真一と組んで2位表彰台へと駆け上がる。2010年には念願のWGP参戦を開始する。
 手島は「日本に戻ったら、もう、WGPに戻れない」と奮闘するが、その願いは叶わなかった。帰国し2012年の鈴鹿8時間耐久では山口辰也、高橋裕紀と、プライベートチームながら2位となる活躍を示す。この年まで全日本ST600で活躍するが、「WGPチャンピオンを目指していたが、それだけが目指すものなのか」と自問自答するようになる。
「ライダーの夢を叶える手伝いがしたい」とやりたいことが明確になる。

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手島は監督として『日本郵便 Honda Dream』を率いる。ライダーは3名。左から亀井駿、小山知良、國峰啄磨。 ツインリンクもてぎで行われた2018年シーズンの開幕戦では、小山と國峰がバトルを演じ、ワンツー・フィニッシュを飾った。

 どんなに才能があっても、欧州が本場のWGPでは、日本人は不利だ。同等の能力なら、欧州のライダーが選ばれる。この現実を目の当たりにした手島は「日本人の地位を上げたい」とチーム作りに奮闘する。ライダーは小山しか思い浮かばなかった。その才能を手島は誰よりも認めていた。小山はWGPチャンピオン目前まで迫る才能豊かなライダーで、欧州のメーカーを渡り歩き、そのライディングテクニックを疑うものはいない。だが、体制に恵まれず、世界GPの頂点を目指すことが難しくなった時に、手島から懇願され「手島のためなら、もうひと踏ん張り、頑張ってみようか」と手弁当でひと肌脱ぐことになる。
 無名時代にサーキットに泊まり込み、世界への夢を語り合ったふたりが、10年の歳月を経て、監督とライダーとして、また違う夢を追い掛けることになった。

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手島の目はアジアに向いた。2017年の最終戦には6名のライダーがチームからエントリーした。

 手島は「アジアではバイクブームが起きていたこと、そこに可能性を感じた」とアジアロードレース選手権(ARRC)に参戦を開始する。監督、ライダー、メカニックと、たった5人で始まったチームは、タイトル争いをするまでに成長して、昨年の最終戦には6人のライダーで、総勢30人のスタッフが働いていた。
「走る所がないから手を貸してほしいと頼みこんで来るライダーや、スポット参戦したいと相談するライダーで、いつの間にか、大所帯になってしまった。でも、そんな駆け込み寺のようなチームもあっていいと思う。いつでもチャンスを探すライダーの助けになりたい」
 手島の考えはブレない。

 2013年から戦いを挑み、2015年には小山はランキング2位となり、2016年にはチャンピオン獲得まで迫った。だが、最終戦でトラブルリタイアとなり、タイトル獲得とならなかった。小山の力を再認識したホンダから2016年、AP250への参戦を請われる。小山はプロフェッショナルライダーとしての生き方を見つけた。また、アジアを舞台に手島が育てた羽田太河は、小山の抜けた穴を埋めチャンピオン争いをするまでに成長していた。今季は、エースライダーに羽田太河、若手インド人2人を走らせている。

 アジアでの基盤を築いた手島は、日本に目を向けた。郵便局では配達に、昔も今もバイクがなくてはならない存在だ。手島は、バイクが必需品の日本郵便とのコラボレーションを提案し、2年前から活動を開始していた。熊本地震の被害があった熊本の人々を元気付けたいと『日本郵便Honda熊本レーシング』として鈴鹿8時間耐久に、手島はライダー復帰して参戦。翌年も、その活動を続けた。

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アジアロードレース選手権(ARRC)にも参戦を続けている。小山の抜けた穴を羽田太河(写真右端)が埋める。 才能豊かな小山が、「手島のためなら、もうひと踏ん張り、頑張ってみようか」と手助けする。

 今季は『わくわくプロジェクト』として全日本参戦を日本郵便局員やファンに向けて発信している。開幕戦4月8日開催の栃木県ツインリンクもてぎでは、小山と國峰がチーム同士の一騎打ちのバトルを展開、小山が優勝を飾り、僅差で國峰が入る1、2フィニッシュという最高の幕開けとなった。2戦目の6月17日開催の宮城県スポーツランドSUGOでは、不順な天候などの悪条件もあり、小山は4位、國峰は転倒して左手を痛めてしまう。3戦目は茨城県筑波サーキットで2レース開催され、レース1は小山2位、國峰5位、レース2は小山2位、國峰3位と揃って表彰台に登った。現在、小山はランキング2位、國峰は5位、亀井は21位に付ける。

 手島は「小山に関して、自分が言うことは何もないが、國峰にはきついことも言います。今回は怪我もあり、辛いレースだったと思いますが、奮起してくれた。きっと、速くなりますよ。亀井は、まずは経験を積んでほしい」と願っている。
 國峰は「手島さんと出会ったのは小学校の頃、ポケバイのイベントででした。全日本のチャンピオンで、鈴鹿8耐でも表彰台に登っているすごい人だって思って見上げていた。その手島さんのチームで走らせてもらうようになって、やっと自分らしいレースが出来ていると思う。筑波では手の痛みが激しかったけど、表彰台に登ることが出来た」と言う。
 表彰台で國峰は涙を抑えることが出来なかった。事前テストを走ることが出来ず、フリー走行もまともに走れずに、手の痛みを抱え、それでも、レースを諦めることが出来なかった。その思いをぶつけての決勝で勝ち取った3位は、この時の國峰にとって大きなものだった。

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天候不順だった第2戦の菅生大会。國峰は転倒し、左手を負傷する。 手島は國峰の才能を高く評価している。だからこそ厳しい事も言う。

 74Dijiroの卒業生でチャンピオンにもなった國峰は、そのガッツあふれる走りで、全日本デビューから注目のライダーだった。2013年には全日本J-GP3ランキング2位となり、2014年にはスペイン選手権と欧州を戦うタレントカップのライダーに抜擢されて海外に飛び出したが、思うように力を示せずに帰国。昨年から手島のチームで走り始めた。タイトル争いを繰り広げてランキング2位となり、今季は、堂々のチャンピオン候補として走り出した。
 チームメイトに小山が加わったことで、國峰の才能は更に開花している。國峰は「小山さんの速さや技術は高く、そこに追いつこう、負けたくないと思うことで、昨年より1秒~2秒もタイムが詰まっています。筑波では、苦手だったレースの組み立てを考えることが出来たし、弱いと思っていた精神力も鍛えられたと思う。最後まで集中して走り切ることが出来た」と言う。手島は國峰の背中を押し、彼の才能を引き出したのだ。

 手島は、現役時代からポケットバイク74Daijiroの普及にも取り組んでいる。2013年からはキッズスクールを開催、日本郵便のイベントでも、子供とバイクが触れあえる場を提供している。
「僕の目標は74DaijiroからMotoGPまで、ライダーの夢が繋がること」だと言う。

 手島は、バイクや車は手段であり、そこにある思いが大事だと言う。レースで戦う、優勝を目指す。そこにはライダーの願いだけでなく、送り出すメカニックや、スタッフの思いが乗っかっている。郵便を配達する郵便屋さんは、手紙や贈り物に込められた人々の思いを運んでいる。モータリゼーションは利便性を求め、形を変え発展して行くだろうが、その先にある未来は、人々の思いが届く世界であるべきだと言う。
 手島は「出来れば、同じバイクを使う仲間として全日本開催スタンドが郵便配達員で埋まり、レースを応援してもらえたら素晴らしいと思う。SNSの時代だからこそ、文字を書いて、思いを届ける日本の手紙文化を広めたい。バイクは、移動手段だが、それだけではないことを多くの人に知ってもらいたい」と語る。そして、究極の目標は「モータースポーツの国技化」だと言う。

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「目標は74DaijiroからMotoGPまで、ライダーの夢が繋がること」だと、手島は言う。そして、その先にはもっと大きな夢がある。

「日本企業は、鉄で発展してきた。バイクや車は鉄でできている。そのハードは、世界中に認められているが、それを使って行われるモータースポーツは、欧州では社会的に認知されているのに、日本ではなかなか市民権を得ていないのが現状。日本企業が活躍しているモータースポーツは、日本人の誇りに他ならない。国技として認められてもいいものだと思う」
 世界で1番になるというライダーの夢を懸命に追いかけていた手島は、チームを作りライダーの夢を応援しながら、更に大きな目標を掲げ、力強く歩んでいる。手島の夢を信じる力に多くの人が巻き込まれ、いつか、モータースポーツが「国技」になる未来が見えるような気がして来た。

 日本郵便が応援する「Red Bull Honda with 日本郵便」が参戦する鈴鹿8時間耐久は7月29日決勝。手島の応援する「大治郞カップ」の第3戦が、8月5日に埼玉県サーキット秋ヶ瀬で開催。全日本ST600は9月2日に、大分県オートポリスで開催される。ぜひ、モータースポーツの国技化に向けて、その魅力に触れてほしい。



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