-2016年のマルケス選手は、非常に高い安定感を発揮していました。想定通りに戦えたシーズンでしたか。
「ライダーは100点満点に近いですね。2015年を振り返って、マルクとマネージャーのエミリオ(・アルサモラ)、チームスタッフ、我々日本人スタッフで話し合ったときに、『転倒したレースで3位に入っていれば、最終戦までチャンピオン争いをできていただろう。マルク自身の戦い方にも課題はあったかもしれない』と皆で反省をし、マルク自身も『なにもすべてのレースで勝ちに行くことはなかった』と納得していました。2016年はチャンピオンシップを勝つために確実にフィニッシュすることを優先し、頭を切り換えて臨んだシーズンで、最後までその戦い方を通すことができました。もてぎでチャンピオンを獲得したあとの2戦では転倒してしまいましたが、それもある意味ではマルクらしいといえるかもしれませんね」
-技術的な変更が多くて苦労したシーズンだったと思いますが、その面ではどうでしたか。
「ハードに関しては、タイヤがミシュランになり、ECUソフトウェアが統一されたことが、大きな変化点でした。タイヤに関しては、予想していたよりも早い段階からキャラクターを理解し、使えるようになったと思います。ソフトウェアに関しては、開幕戦の段階では我々の理解度がすごく低くて、非常に苦労をしました。わかりやすい例が、ムジェロのレース(第6戦)です。最終ラップの最終コーナーではマルクが一番で立ち上がってきたのに、フィニッシュラインまでの間に抜かれてしまいました。今までの我々なら、あんな負け方をすることはありませんでした。アンチウィリーにせよトラクションコントロールにせよ、トルクを殺しすぎているのは明らかでしたが、普通に走らせるためにはあれくらいトルクを殺さないとおかしな挙動が出てしまい、タイムが伸びなかったのも事実です。
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制御系のスタッフを中心にああじゃないかこうじゃないかとさんざん勉強し、シーズン半ばにはソフトウェアの理解度が深まって、シルバーストーンくらいからハード的にも充分戦えるレベルになってきました。シルバーストーン以前は、ライバル勢の転倒があったり、難しい天候の中でめまぐるしく順位が変わったりするなかで、マルクが確実にポイントを取り続けてくれたので、シーズン前半で大きく引き離されることなく後半を迎えることができていました。我々がハード的に戦える状態になったあとは、ライダーとチームのがんばりで勝って行ってくれましたが、ソフトウェアの理解に関しては、ものすごく苦労をしましたね」
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ホンダ・レーシング 主席研究員 中本修平氏
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-マルケス選手は、シーズンを通してランキングでもほぼリードし続け、ずっと高いレベルで安定していた印象があります。
「今までのマルクは速いライダーでしたが、今は強いライダーになった、という表現ができると思います。チャンピオンらしい速さと強さを兼ね備えたライダーとして、しっかり成長をしてくれたと思いますね」
-それは何か、彼にとって分岐点になったようなレースがあったのですか。
「けっしてそういうわけではなく、開幕戦からすでに心構えができていました。カタールのレースでも無理にトップ争いをせず、できるだけ高い順位で完走するような走りをできていたので、今年は大丈夫だなと思って安心して見ていました。アッセンでも、ジャック(・ミラー)が追い上げてきたときに、無理なリスクを取って勝負するよりも、ポイント獲得を優先して2位でゴールしました。彼の気持ちが切り替わったことを実感できたレースでした。自分は速いという自信の裏付けもあって、確実に状況を見極めるようになっていましたね」
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-過去二回のチャンピオンと比較しても、今年はライダーとしての成長がはっきりとあらわれたシーズンだった、ということですか。
「そうですね。一回目のチャンピオン(2013年)はかなりラッキーな面もあって、その意味では『この選手は何か持ってるな』と感じさせてくれました。二回目(2014年)は、二年連続だったので簡単に獲れたように見えたかもしれませんが、必死で獲ったシーズンでした。じつはあの頃はまだ、飛び抜けた速さを持っていたわけではないんですよ。去年は、一昨年にあれだけ勝てたという自信が、ある部分で過信と言っても良いような状態になって、それが結果的に転倒にもつながっていった。今年は、予選までにやることはやったという本当の意味での自信を持ってレースに臨んで、行けるときは行くけれども無理なときにはしっかり見極めるという精神的な強さを備えることができました。今年は、本当の意味でチャンピオンらしいチャンピオンになったと思います」
-もてぎでチャンピオンを決めたのは、思ったよりも早かったですか?
「そうですね(笑)。数字上は可能性があったわけだから、チャンピオンTシャツも最低数は用意していましたが、おそらく本当に獲れるのは、うまくいってもフィリップアイランド、普通に考えるならセパンだろう、と思っていました。レースだからそんなこともあるんですが、あの結果には誰よりもマルク自身が最も驚いていましたよ」
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-マルケス選手は強さを発揮したシーズンだった反面、ペドロサ選手は苦労が続きました。
「ミシュランのプロトタイヤで初めてテストをしたときは他を圧倒するタイムで走っていたので、ミシュランに変わるとダニが来るなとじつは思っていたんですよ。そこからおよそ一年の開発期間で、タイヤの構造や形状がどんどん変わってゆき、フロントもリアもダニの大好きな状態から大きく離れていって、うまくタイヤの性能を引き出せずにシーズンが過ぎていった、というのが正直なところです。
もう少しダニに乗りやすいタイヤになってくれればいいなあ、と思っているんですが、ミザノ(第13戦)ですごい勝ち方をしたでしょ。セットアップが決まったときには手の付けられない速さを発揮する選手なので、充分に勝てるライディングスキルを持っているのですが、彼はとにかく体格が小さいので、バイクの上で動き回って乗る位置を柔軟に対応することに限界があるので、今後のミシュランの開発方向に期待をしたいですね」
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-マルケス選手は80パーセントのバイクでも速さを発揮できるけれども、ペドロサ選手は90パーセントで合わせることができると猛烈な速さを発揮する、と中本さんはよく言っていましたが、その良い面と悪い面が出てしまったシーズンになった、ということですか。
「まさにそのとおりで、マルクは大きく違うセットアップのバイクでも、似たようなタイムで走るんですよ。で、こっちのバイクの方が好きだ、というわけです。彼がそこで何をやっているのかというと、最も効率よく走れるライディングポジションを探しているんです。そこを探し出す能力が非常に高いので、100パーセント満足できなくても、乗る位置や乗り方でなんとなくラップタイムをうまくまとめてしまうんです。マルクはとにかく関節が柔らかいので、転倒しても大ケガをしないし、反射神経もものすごくいい。一方、ダニは体で感じる能力が非常に優れていて、センサーに現れないようなことも彼は感じることができる。それがダニのすごいところです」
-その卓越したセンシング能力が、ときに裏目に出る?
「悪いところはフィルターをかけて忘れてくれればいいのですが、いいところも悪いところも敏感に察知してしまうんですね」
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-MotoGPで長年陣頭指揮を執ってきた期間を振り返ると、ペドロサ選手にチャンピオンを獲らせてあげたかった、というのが正直な思いなのではないですか?
「ケーシーとダニは誕生月が9月と10月で近くて、うちの子供が同じ年の12月生まれだから、なんとなく息子のような気がするんですよ。ケーシーがチャンピオンを獲ってくれたので『次はダニにチャンピオンを獲ってほしいよね』と家内とふたりで応援していました。ダニはメディアの前では比較的物静かですが、プライベートではケラケラ笑ったりして表情も豊かで、すごくいい若者なんですよ」
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「そうですね。2010年は一緒に先頭を切って戦っていた年なので、あの年はチャンピオンを取りたかったですね。もてぎでの転倒がなければ、逆転できたかも知れません。あの年のシーズン後半のダニは、本当に速さを発揮していましたから。2012年も惜しいシーズンでした。私が来る前の2008年も、雨のザクセンリンクで転ぶまでポイントリーダーだったでしょ。チャンピオンを獲れそうだったことが何回もあるだけに、残念でしようがないですね」
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-中本さん自身は、2009年にF1からMotoGPへ戻ってきて、チャンピオンを4回(2011、2013、2014、2016)獲得しました。8年間で4回、50%のチャンピオン獲得率は上々の出来だと思いますか、あるいはもっと獲れたと思いますか?
「強力なライバルのヤマハやドゥカティを相手に戦い続けて、その半分でタイトルを獲れたのだから、出来すぎだと思います。ただ、2008年の12月にF1から戻ってきて、2009年はMotoGPの現状を把握して組織変更や目標設定に取りかかり始めた年だったので、本当の意味での私の戦いは、2010年からなんです。2010年にそれが形になってきた手応えがあって、2011年にケーシーでチャンピオンを獲得できました。だから、個人的な感覚で言えば勝率は50%以上です。いずれにせよ、こんなに勝てるとは思っていませんでした」
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-現場の技術者時代も含めて考えたとき、転機になった出来事はありますか?
「何でしょうね……。第一回の鈴鹿8耐にバイク仲間に誘われて見に行ったとき、レースってすごいなあと感動したんですが、ピットボックスの上の観戦エリアからピットレーンを眺めていたときに、たまたま森脇護さんと目が合ったんです。森脇さんはそんなことを当然、憶えていないんですが、そのときに『なんて目をしてるんだ、この人は』と思ったんです。かっこいいんですよ。それ以来、自分もレースの世界に携わりたい、という漠然とした憧れのようなものがあって、大学でもレースをかじってみました。でも、走る方の才能はないんだな、ということは、わりと早い段階で気がつきました。
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鈴鹿4耐に出たくてSS400をやっていたんですが、ダンロップの登りで前の選手をアウトから抜いて『オレも結構やるなあ』なんて思っていると、そのさらに外側の、ものすごく荒れた路面のところを、自分たちが停まってるんじゃないかと思えるくらいのスピードで抜いていった選手がいたんです。あんなところをまず自分は走れないし、そこをさらに全開で抜いていく彼を見て、『これが才能の差だ』と思いました。『早く辞めないと、怪我をするだけだ』と。じつは、その猛烈な速度で私を抜いていったのが、宮城光君なんです(笑)。
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だけど、自分でもレースをやったおかげでオートバイ作りの奥深さを知ることができて、これを仕事にできれば良いなあと思ってHondaに入ったら、たまたまHRCに配属されて、それから17年間、車体設計に携わることになりました。
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その後、F1では日々が勉強の連続でしたが、技術的にはすごく深いところまで関わらせてもらいました。レースは2006年ハンガリーGPの1勝しかできず、佐藤琢磨君やチームスタッフにも苦労ばかりをさせて自分も辛い思いをたくさんしましたが、技術的には愉しめたし、マネージメントすることの難しさも学びました。毎日が勉強と感動と悔しい思いの連続だったので、自分の人生を変えた何か特別な転機があったわけではないと思います。強いて言うならば、第一回鈴鹿8耐で森脇さんと目が合ったことですよ。あれで人生が決まったわけですからね」
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「そうですね。あの当時の私はアンチHondaでヨシムラが勝って大喜びしていたので、まさか自分がHondaに入ることになるとは思いませんでしたね(笑)」
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-では、長年の技術者人生で達成したかったけれどもできなかったことは、何ですか?
「F1でいえば、リーマンショックがもう一年先だったら、もう一個違う勲章をもらえたかもしれない、ということと、もうひとつは、さっきも言ったように、ダニにチャンピオンを獲らせてあげたかった、ということですね」
-2016年はMotoGP、モトクロス、トライアルでチャンピオンを獲得しました。HRCがファクトリー活動をしているなかでまだ勝っていないのは、ダカールラリーだけです。
「もう一回チャンスがあります。年が明けたら、行ってきますよ」
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「こればかりはわからないですね。ダカールは長いレースなので、自分たちはやりきったと思っても、必ず何かが起こります。今の不安材料は、3人の速いライダーを揃えたうち、一名(ケビン・ベナバイズ)がケガで出られなくなってしまいました。それが痛恨ですが、獲りたいですね。ファクトリーで4カテゴリーのレースに参戦して、三つ獲ったんだから、あとひとつも獲りたいですね」
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-引退して現場を離れても、テレビやPCでレースを観戦しますか?
「私は自分がレースをやるのは大好きだけど、ひとがやっているのを座ってじっと観ているのはあまり好きじゃないんです」
「そうそう。マグロと同じで、停まると死ぬんです(笑)」
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-それだけせっかちだと、引退後の計画もすでに綿密に立てているんじゃないですか。
「家内がかなり長いToDoリストを作っているので、それを一個ずつチェックしていこうかな、と思っています。たとえば、今まで私は何度も海外出張をしてきましたが、じつはハワイには行ったことがないので一度行ってみたいし、北米のカナダやアメリカの国立公園巡りなんかもしてみたいですね」
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次回はスズキ篇です。前回同様、寺田さんと河内さんにご登場いただく予定です。どうぞお楽しみに。
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