11月18日──レースデイ、早朝4時45分。レースの準備中に起きたハプニングによって、戸井さんはサポートのクルーチーフとなってレースを見守ることに。そしてレースの朝はやって来た。

 まだ夜のとばりに包まれたエンセナダ。ホテルの部屋のあちこちで携帯の目覚ましが鳴りはじめる。レースデイ。6時前にホテルを出発。スタートラインまで350 XCF-Wは自走で移動する。そのエンジン音がどこか緊張している。サポートクルーは2台のバンに乗って移動。町の中はスタートの時刻前から交通規制されている。レーススタート後、サンフェリーペ方向に移動しやすい場所を見定め、クルマを停める。シートに納まっていたチーム・エル・コヨーテのクルー総勢12人が、ゼッケンナンバー212Xを見送るためにまだ寒い町を歩き出した。

 スタートラインにはすでに緊張感が漂っていた。6時半から始まるスタートに備え、路面に書かれたゼッケンの場所にバイクを停めている。エンジンが止まっているバイク集団、まだヘルメットを被らずにどこか視点が定まらない感じのライダー達。始まるんだ、バハが──。スタートを見送る方だってどこか緊張してくる。

 エントラントは圧倒的にホンダが多い。彼らが長年バハで積み上げてきたユーザーサポートや戦歴を見ればそれは明らか。AMAのエンデューロなどを見るとそのエントリーリストにホンダの数は正直多くないが、SCOREのレースでは多くがホンダをチョイスしている。

 2011年の話題は常勝ホンダにプロクラスでカワサキが挑む、という構図である。なんでも2010年までホンダチームだったライダーがカワサキに移り、打倒ホンダに燃えているという。1980年代後半、バハではカワサキが本当に強かった。当時のバハではカワサキユーザーが圧倒的に多かった。KX500をあんなに大量に見られたのもおそらくこのレースならでは。ホンダもワークスで出ていたが、なかなか勝てなかった。懐かしい。

 KTMを選ぶユーザーはまだ少ない。エンデューロでは多くのユーザーに支持されているし、バハまであえてやらなくても、ということなのかもしれない。プレランをした僕の印象だが、KTMでバハをもっと多くのチーム、ライダーが楽しむようになれば流れは変わるかもしれない、そう思う。

 ちなみに、僕達以外にもKTMで参加するエントラントが周りに6台いた。

円陣を組んでオー! とはしなかったが、とにかく皆で走り切ろう、という思いは満タンだった。 スタート1分前!

 6時30分。レースがスタート! 30秒間隔で1台、また1台と冒険に飛び出していく。僕達のゼッケンは212X。KTM 350 XCF-Wは2輪ATV合わせて80台目のスタートだ。

 7時10分、その時がきた。スタートは宮崎雄司が担当。朝から熱気に包まれたその場所を走り出し、エンセナダの郊外に向け走り出す。その後、宮崎はコースを包んだ朝霧と前走車がはき出す埃で視界を奪われながらも、約72マイルのスティントに走り出した。

以前、コースを通過したことを証明するためのスタブ(紙切れのようなもの)をチェックポイントでバイクに取りつけた容器にいれていた。でも今はGPSレシーバーを取りつけ、通過したポイント、国道など速度制限のある道を走行したときの速度、ショートカットなど違反の有無なども全て白日の下に晒されることになる。チェックポイント以外にも、今回60箇所以上のバーチャル・チェックポイントが設けられ、そこを通過していなければもちろんペナルティーの対象になる。スタート前にそのレシーバーを専用の容器に入れ、封印する。四輪はリアルタイムでコース場の場所、順位が分かるイリトラックというダカールラリー同様のシステムを搭載する。
KTMライダー達。賞金のでないスポーツマンクラスにエントリー。僕達と一緒のクラスだ。 スタート地点に並ぶライダー達。不思議なエネルギー感に包まれている。

 午前9時45分。

 エンセナダから南東に伸びる3号線を移動し、道路脇にある距離標識48マイル地点。ここで最初のライダー交代をする。ここからおよそ約138マイル先の交代ポイントまでを僕が担当する。350 XCF-Wをプレランで堪能したが、バハ1000参加が11年ぶり、どこか落ち着かない。

 このスティントは戸井さんが転倒して怪我をした因縁のルート。首尾良くいけば4時間半で走れるだろう。

 コース序盤は赤い土地の中に伸びる硬いウォッシュボードが続く。夜に降った雨があちこちに水たまりを作る。交代前、ケガをした戸井さんを見て年配のオフィシャルが話しかけてきた。

「おい、オレはキミを知っているよ。だいぶ前だが、サン・イグナシオのチェックポイントで、疲れているキミをバンの後ろで休ませてあげたことがあるぞ。覚えているだろ。来年のレースではまたサン・イグナシオに居るから疲れたらまた休んでいけばいい。212Xか、1.5マイルぐらい手前を通過すると無線が入るから、通ったら教えてあげるよ」

 戸井さんは伊達に長年バハに出ている訳ではない。ちゃんと足跡を残している。何となくそんな会話を聞いて和んだが、宮崎を待つ僕は体が硬い感じがぬぐえない。そんなことをしていると「来たぞ」と彼が教えてくれた。

バイクの状態を確認し、すぐに跨がり走り出す。舗装路を1マイルほど走り、すぐにダートに。体が眠いというか、切れが悪い。体と心がバラバラで思うように走れていない。少し飛ばしすぎなのだ。落ち着いて行こう。

アタフタと交代。地面に足が着いてないフワフワした感じだった。 どっかり腰を下ろした状態で到着。みんなにはごく普通に見えたらしい。

 午前10時50分。

 1台にパスされた。そのバイクがたてる埃を避けるべく少し距離を開けることにする。しばらくするとそのバイクはガソリン補給のためコース脇に構えているピットに入った。僕達もこうしたピットサービスを使っている。50マイル毎に構えているから、ガス欠の心配はない。1人になってからは悪くないペースで走りだせた。落ち着いて行こう。

 そして戸井さんが怪我をしたガレ場エリアに入る。それはここから13マイル弱続く。まだ数日前のことだが、ここから脱出したことなどが遠い時間に感じられた。ペースを落としてでも無難に通過しよう。そう自分に言い聞かせた。

 しかし、その冷静さを一瞬で失う出来事があった。前方にライダーを発見。ガレ場はドンドンひどくなり、登り勾配もきつくなる。しかもそのライダーは僕より遅く、左右にふらつきながら上っている。目の前でラインをふさがれたら面倒だ、抜くなら今のうち。そんなつまらない欲が出た。

 そのライダーと逆の轍を選んでパスししばらく走る。左コーナーの外側のバンクにバイクを這わせながら抜いたライダーのエンジン音に耳を澄ませた。来ない。大丈夫だ。

 その直後だ。意識の7割を後方に向けた僕は、下りのギャップの先にあるひどいガレ場に気がつくのが遅れた。旋回しながらのリアブレーキを強めに掛けると、うかつにもリアをロック、エンジンを止めてしまう。

 クラッチレバーを握って後輪を回し、ギャップを通過。前後ともサスが伸びた瞬間、フワッとバイクが浮き上がった。あ、大丈夫だ。全く問題無いように思えたが、着地した岩だまりでズルリとバランスを崩す。そして左に転倒。しこたま肩を打つ。脂汗が出た。

 バイクのダメージを確認し、バイクを引き起こそうとすると、左肩に力が入らず、痛みが走る。参った。

 もう一度バイクを右手で起こしてみる。深呼吸して起こしたバイクに跨がり、キャメルバックから水を飲む。セルモーターを回すと2秒後にはエンジンが掛かった。さっき抜いたライダーが「大丈夫か?」と声を掛けながら抜いて行く。

 馬鹿なことを。自分の愚行を呪った。24年前、最初にバハに出た時も誰かを抜こうとして転倒、痛い目をみた。そこで誰かを抜くことが絶対な時もある。しかし大抵の場合、それはあまり意味がない。事実、その先にはもっと簡単にパスできる場所があったし、プレランで一回しか走っていない難所で勝負を掛ける意味はあまりない。

 ガレ場セクションはまだまだ続く。が、ギャップに合わせてハンドルバーを引き、フロントをリフトアップしようとすると、左肩が痛い。肩の筋肉を痛めたらしい。

 万事休す。僕はその転倒で深いギャップでスタンディングすら出来なくなり、その先に控える何十キロも続くウォッシュボードのほとんどを座って通過することになる。

 嗚呼! 担当する距離は転倒後の方が圧倒的に長い。

 午後2時45分。

 交代から3時間が経過、例のドライレイクを通過。ガンガンは行けないが、そこそこのペースで走り続けられるのが幸いだった。この頃には肩に痛みを感じないように走ることに馴れてきた。しかし、ボレゴが近づき、硬い路面に出来た深い轍が続くようになった。ちょっとお手上げだった。ボレゴまでをヒーヒー言いながら走り、そしてボレゴを過ぎると砂のパワーラインロードだ。まともに走れない。それでも着実に距離を重ねられることに感謝した。

 そして5時間が経過。ようやく交代ポイントに到着。ほぼ想定通りの時間だったそうだが、自分としては3倍以上掛かったような気がしていた。とにかくバイクを渡す。

後田はこのあと四輪のトップグループに追いつかれ、とんでもない埃を浴びることになる。 走り出す前、戸井さんと冗談を交わす後田。そのまま走っても大丈夫ですよ。自分の知らない所も走ってみたいですし。ま、大丈夫ですよ……が、後で大変なことに(笑)。

 エアクリーナーなどのメンテナンスを手早く手塚が施し、夜間走行に備えたヘッドライトを装着する。エンジンがバラつくので燃料フィルターを交換してみる。ビンゴ。問題解決。

 到着した安堵感と開放感で体から力が抜ける。出ていたアドレナリンが引っ込んだせいか、肩の痛みがずしりと襲ってきた。ヘルメットを脱ぎ、ジャケットを脱ぎ、ブレストガードを外す頃にはその痛みが肩を回すととんでもないことが分かった。

 次のスティントを走る後田繁春が、バンの横でイスに座りながら着替えるのに手間取っている僕のところにやってきた。

「どうですか、ホントのところ。次はいけそうですか」

 場を和ませるニコやかな顔をしながら後田が聞く。彼はここからサンフェリーペまで走り、僕とダンプロードで交代する予定だ。そしてバジェ・デ・トリニダットまでを僕が走り、宮崎に交代。彼がサン・トマスまで走り、そこからフィニッシュまでを後田が走るスケジュールを立てていた。

「もし次が無理そうなら、出来れば続けて走りたいですね。その方が気が楽ですから」

 自分でも次は難しいな、と思った。ダメかも、とも小声で話していた。ただそうなると後田は1人で連続315マイル近くを走ることになる。一応その心づもりをして欲しい。そう伝えて送り出す。後田は軽々と走り出した。

そしてパワーラインロードの延々と続くウォッシュボードに歓迎されながら……。