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レース・イベント

「ひとり目はぜったいに忘れられっこない。ふたり目はふにゃちん。……6人目は、わたしの17歳の誕生日だった。……18人目との別れは悲しかったな……」アンディ・マクダウェルが恋愛遍歴を数えあげてヒュー・グラントの目を丸くさせる『フォー・ウェディング』のシーンを真似ると、バレンティーノ・ロッシは思わず笑い出した。映画では「で、恋人は何人いたんだい? 32~33人くらい??」という問いに続くのだが、ロッシのリストの場合はさらに長い。彼の最初の〈恋人〉は1996年3月31日のマレーシア・シャーアラムサーキットだ。そして、そこから399戦の〈恋人〉と時を過ごしてきた。ロードレース世界選手権のレースは1949年から現在に至るまで939回開催されてきたが、ロッシが参戦したのはそのうちの42.5パーセント。そして今回、オーストラリアGPの開催されたフィリップアイランドサーキットで、400戦目を迎えた。その節目のレース前日に行ったインタビューをお届けしよう。
■インタビュー・文:パオロ・イアニエリ  ■翻訳:西村 章 ■写真:Yamaha

*   *   *   *   *
 

-バレンティーノ、今までの全戦を覚えていますか?
「全部は覚えてないよ。いい思い出のやつだけだね。いや、悪い思い出のレースも覚えているけどさ。でも、バイクに関してはいい思い出ばかりだよ」
-年を言えば、すぐにチャンピオンの名前を挙げることができるそうですが。
「そうだよ。それでテレビに出られるんじゃないかな(笑)。そういうクイズ番組なら勝てる自信があるけどね」
-明日の決勝でレースキャリア400戦目を迎えますね。そのなかで最も印象深い勝利を10個挙げるとしたら、どれを選びますか?
「上位3つは不動のベストスリーだね。トップはヤマハの初勝利、2004年の南アだ。僕のレースキャリアのなかでも最重要な勝利で、伝説の一日、といってもいい。偉そうに聞こえるかもしれないけど、バレンティーノ・ロッシに〈神話〉があるとすれば、あの日だね。当時のホンダは最強のバイクで、今よりも圧倒的に強く、ホンダでなければレースに勝てない、と言われた時代だった。なのに僕はホンダを去って、問題だらけのヤマハへ移籍したんだ。自分でも、バカじゃないかと思ったよ(笑)。まあ、およそ頭のいい人間のすることではないね」
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2004年・南アフリカGP(※以下、写真をクリックすると大きく、または違う写真を見ることができます)
-今、あの時代に戻っても、また同じことをしますか?
「もちろんするよ。だってあれは僕のライダー人生で最も重要な出来事だからね。あの頃、僕はホンダで勝ちまくっていたから、正直なところ、ちょっと後悔すらしているんだ、『あのままあと5年ホンダにいれば、いったいどれくらい勝てていただろう』と思うとね。アゴスチーニの記録だって塗り替えていたかもしれない。ヤマハではそこまで勝てなかったけど、でも、最善は尽くしたし、正しい選択だったと思う。だから、当時の僕は頭がおかしかったとは言わないにしても、勇敢だった、とは言ってもいいと思う」
-今もそうですよね。
「うん。でも当時はもっと腹が据わっていたよ。南アの優勝は、僕のレースキャリア前半に燦然と輝く勝利だと思う。その時代、年に10勝以上挙げて100ポイントをリードしていたような、僕が圧倒的に優勢だったシーズンは2005年末で終わる。その後は下降線を辿って、2006年と07年はタイトルを逃してしまった。普通なら、最高峰クラスで5回もチャンピオンを獲った後は、もう勝てなくなってもおかしくない。当時もよく言われていたよね、『ロッシはもう終わりだ。全カテゴリーで合計7回の世界タイトルを獲得して、最高峰でもミック・ドゥーハンに並んだ。もうピークは過ぎた』って」
#46
-しかし、まだそこでは終わりませんでしたね。
「ベスト3レースの残りふたつは、2008年と2009年から選びたいね。ベストレースの2番目は2008年のラグナセカだ。2007年は、ケーシー・ストーナーがドゥカティで僕を打ち負かした。時代の流れは彼に移ったように見えたかもしれないけど、ぼくはそこでまたひとつ勝負に出たんだ。『向こうの方が若いけれど、ブリヂストンを履ければ彼に勝てる』ってね。あの年のラグナセカでストーナーに勝ったことで、タイトルの行方が決まったんだ」
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2008年・アメリカGP
-たしかあのレースは週末を通じてストーナー選手が圧倒的に速く、0.5秒くらい差をつけていたように記憶しています。
「プラクティスから速くて、予選でもポールを獲っていた。あそこで彼に勝ったことは、僕のレースキャリアのハイライトのひとつだよ。で、あの年のことで忘れないうちに言っておくけど、中国の優勝も重要な勝利だね。ベストスリーに入るわけじゃないけど。なにしろ久々の勝利だったし、ブリヂストン初優勝があの中国なんだ。シーズン序盤はなかなか勝てないレースが続いて『ほら、ロッシはブリヂストンを履いてもやっぱり勝てない。もう終わりだ』なんて言われていたから、なおさら勝てて気分が良かった。
-しかし、まだそこでは終わりませんでしたね。
あの当時は、ロレンソがミシュランで開幕から3戦連続ポールを獲得して、第3戦のポルトガルで優勝した。『ロッシは終わったな。これからはストーナーとロレンソの時代だ』と言われていた頃だよ。でも、僕は中国で勝ったし、そこからシーズンの流れも大きく変わっていったんだ」
-ベストスリーの3つ目は?
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「2009年のバルセロナ。2008年はストーナーに勝った。当時の彼はちょっと問題を抱えていて、バイクもヤマハのほうがドゥカティよりも良かった。でも、2009年はロレンソが相手で、いわば同門のチームメイト対決だ。あの頃のロレンソは溢れんばかりの才能で速さと強さを兼ね備えていたし、自信と集中力も並外れていた。バルセロナのレースの後、僕と彼とストーナーは全員106ポイントで横一線に並んだんだ。それはともかくとしても、激しいレースだったよ。週末を通じてロレンソと一騎打ちになり、決勝では最終ラップの最終コーナーでオーバーテイクした」
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-あれは歴史的なオーバーテイクでしたね。
「バトルなら大得意だからね。あのときロレンソは言っていたんだ、『倒すべき相手はバレンティーノだ。最終ラップで捕まえて目にもの見せてやる』って。でも、レースでは僕が彼をやっつけた。あのオーバーテイクは、超きもちよかったよ」
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2009年・カタルニアGP
-これでベストスリーが揃いましたね。
「アプリリアで125ccと250ccを走った時代にも、忘れがたい優勝があるな。生まれて初めてチャンピオンの座を射止めた1997年のブルノとか。でも、同じブルノなら、グランプリ初勝利の1996年も印象に強く残っている。人生最初の優勝は、やっぱり忘れられないよ」
-優勝したことで、何かが自分の中で変わりましたか?
「そうだね。どんどん強さを発揮できるようになっていたけど、レースに勝つことで『やればできるんだ』という気持ちを持てるようになる。初表彰台を獲得したのは、ブルノのひとつ前でA-1リンク(現レッドブルリンク)だったけど、そこからすべてが始まった、ということなんだろうね。98年には250ccクラスにステップアップして99年にチャンピオンを獲り、その翌年に500ccに昇格したんだ」
-そして伝説への道を踏み出すわけですね。
「子供のころから500ccクラスで走ることが夢だったんだ。グラツィアーノやウーチョと一緒に家のテレビでいつもレースを観ていた。記憶に残っている最初のレースは、1986年のアッセンだ。500ccはシュワンツ、ドゥーハン、スペンサー、レイニー、という錚々たるスーパースターたちが走っていたクラスで、その最高峰で僕が最初に勝ったのは2000年のドニントンだった。このレースはベストレースの4番目だね。得意じゃなかったウェットコンディションでの勝利だから、うれしかったよ。そして2001年に、ここフィリップアイランドで初めて最高峰クラスのチャンピオンを獲得した。ビアッジと熾烈なバトルになったレースだった。
#46
 ベストレース5番目は2001年のブルノ。あれもすごいレースだった。ビアッジは前戦のザクセンリンクで勝った勢いもあって、最高に乗れていた。しかもブルノは彼の得意コースだったけど、そこで僕は彼を打ち負かしたんだ」
―少し時間を早送りしましょうか。
「レース人生第三期、いや、第四期かな。僕は脚や肩の負傷があって、ヤマハはロレンソを確保していた。その後、ドゥカティで2年間を過ごしたけど……あのときは自分でももう終わりかなと思ったよ」
-本当にそう感じていたんですか?
「いや、まだ行けると思っていたけどね。2013年、僕は34歳になった。2005年に『もう終わりだ』と言われたロッシが、だよ。僕はヤマハに復帰した。離婚した相手との電撃再婚、と見えたかもしれないね。最初は『いや、ムリです』と言われたんだよ。正直なところ、あのときヤマハに戻れなかったらレースを辞めていたと思う」
-それどころか、リン・ジャーヴィス氏があなたの家へやってきたのでしたよね。
「そうそう。リンが尽力してくれて、話し合いがスタートしたんだ。ヤマハ内部では反対する声もあったみたいだけど、大半の人たちは僕の復帰に尽力をしてくれた。そしてヤマハへ戻った僕は、その年のアッセンで優勝した。これもベスト10に入るだろうね。2010年のセパンも忘れがたい優勝だね。ロレンソがチャンピオンを決めたレースで僕が優勝したヤツだ。優勝するのはそのとき以来だったけど、やっぱり気分が良かったよ。
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というわけで、これでベスト10レースが揃ったよね?」
―ありがとう。そして400戦おめでとう、バレンティーノ。
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【パオロ・イアニエリ(Paolo Ianieri)】
国際アイスホッケー連盟(IIHF)やイタリア公共放送局RAI勤務を経て、2000年から同国の日刊スポーツ新聞La Gazzetta dello Sportのモータースポーツ担当記者。MotoGPをはじめ、ダカールラリーやF1にも造詣が深い。

[第十一回 アルベルト・プーチインタビュー2]
[第十二回 バレンティーノ・ロッシ インタビュー3]
[第十三回]

2019/10/30掲載