2019年9月24日
10年の節目に語る 中野真矢の過去、現在、未来 今だから話せることなどなど、ジャーナリスト・西村章が訊く
●撮影:後藤 純
1990年代後半から2000年代に世界選手権で活躍した中野真矢氏が2009年末に現役を引退して、今年でちょうど10年になる。選手時代は、雑誌時代のミスター・バイクで「編集王」という役職(?)に就いていたこともある、なにかと縁の深い人物だ。現在は、オリジナルブランドの56designを運営。豊穣なバイクライフを日本の生活文化に定着させることを目指し、“Life with Motorcycle”というキャッチフレーズとともにスタートしたこの事業は、順調に発展を続けている。また、若いライダーの育成をつうじて二輪ロードレース界への貢献を目指す56RACINGからも、卒業生たちが徐々に世界の舞台へ巣立ちはじめ、少しずつその成果を発揮しつつある。
今回のインタビューでは、現在の中野氏が軸足を置くこれらの活動の詳細にくわえ、今だから話せる現役時代の様々なことがらに関しても、10年というこの節目にあれやこれやと明かしてもらった。というわけで、では早速本題に入るといたしましょう。
「1999年に250ccのフル参戦デビューをしてから、500、MotoGPまで10年、SBK(スーパーバイク世界選手権)で1年。だから計11年ですね、世界グランプリを戦ってきました。さらにさかのぼると、15歳で地方選手権を走って、16歳になるとすぐにオートバイの免許を取り、晴れて全日本ロードレースデビュー。だから、1年地方選をやってから全日本を3シーズン走り、世界へ行った、という経緯ですね。
その当時の日本って〈3ない運動〉の影響がまだかなりあった時代だから、学校選びでも、全日本に参戦するためにオートバイの校則のきつくない高校を探して苦労したんですよ。親に作ってもらった資料を学校に見せて、説明しなければいけないような状況でした。野球やサッカーなら、近所のひとも『がんばれ』とか『すごいねえ』と言ってくれるけど、二輪ロードレースは認知もないわ不良扱いされるわで、子供なりにそれはすごく気になっていました。
でも、ヨーロッパに行ってみるとライダーの認知度がすごく高い。スペインに3年、イタリアに1年住みましたが、レースはスポーツとして長い文化と歴史があるから、たとえばレストランにふらりと入っても『おー、中野か。ピザ一枚サービスするから食っていけ!』みたいな世界じゃないですか。そんなありように、とにかくビックリしましたね。たとえばミラノの街中でも多くの人がスーツ姿でスポーツバイクを通勤に使っていたりして、ファッショナブルだけど肩肘張らないスタイルが生活に溶け込んでいて、とても印象的でした。じゃあ日本はどうなのかというと、当時はライダーの格好と街のたたずまいが、まだあまりマッチしていなかった。ならば、自分はまずそういうところからやりたいな、と。大きく何かを変えられるとは思わないけど、できることからやろう、と思って始めたのが、この56designです。
で、現役を引退した後は、3年ほどレースから離れていたんです。でも、そうやって少し距離を置くことでオートバイ界やレース界についてあらためてわかることもあり、いろいろなことを考えました。56designの事業が少し落ち着いてきた時期でもあったし、『自分の原点は、やっぱりレースだよな』ということで2012年に56RACINGを立ち上げました。僕はごく一般的なサラリーマン家庭で育ったので、多くの方々に助けていただいたからこそGPライダーになれたのだと思っています。だから、今度は自分がお返しをする番だと思ってチームを作り、スポンサーを集めて機材を買って……、とすべて手弁当で活動を続けて、今年でもう7年目。ライダーも少しずつ育ってゆき、56番を背負った埜口(遥希)がRed Bull Rookies Cupで優勝してくれたり(レッドブルリンク Race2) 、第1期生の名越が目玉メットでMoto2に代役参戦(IDEMITSU Honda Racing Team 第6戦イタリアGP、第11戦オーストリアGP、第12戦イギリスGP)できたりと、少しずつ成長をしてくれています。
今、MFJロードレース委員会の副委員をやっているんですよ。これでも(笑)。少しでも何かの力になれれば、と思って、会議にも可能なかぎり出席していますよ」
―中野さんが全日本に参戦していた当時と現在を比べると、やはり違いは感じますか?
「僕たちの時代は、全日本でチャンピオンを獲ったらチャンスを掴んで世界へ行けましたからね。僕は、坂田(和人)さんやノビー(上田昇)さんの活躍を目の当たりにした世代です。原田(哲也)さんが全日本でチャンピオンを獲り、その翌年にWGP250ccにフル参戦して、市販ベースのTZM250で世界チャンピオンになった。それを見て、『原田さんがいたチーム(SP忠男)にぜったい行く!!』みたいなね。そういうモチベーションがあったんですよ。
さらに、僕たちの頃は250ccクラスでもファクトリー活動をしていたので、YZR250を日本で開発していました。だから、1999年にTech3からWGPへ挑戦したとき、マシンのことをいちばんわかっていたのは僕なんですよ。チームメイトのオリビエ(・ジャック)のほうがもちろんコースやグランプリの世界を知っているけど、マシンは僕の方がわかっていた。だから、最終的になんとなく帳尻が合っていたんですね」
―それこそが、日本でファクトリー活動をやっていた強みですね。
「そういうことです。自分たちの好みでバイクを仕上げていますからね。だから、僕たちがヨーロッパに行くと路面の特性も違うしコースも違うけれど、それを学んでアジャストすればよかった。今はバイクのことはわからない、コースも知らない、タイヤも違う、しかもトレーニング量はヨーロッパのライダーの方が多い……。そりゃあ勝てないですよ」
―だから、当時の全日本のライダーたちは、鈴鹿の日本GPにワイルドカード参戦すると、フル参戦のヨーロピアンライダーを引き離して日本人同士で表彰台争いをできていたんですね。
「そうなんですよ。マシンを知っていて、タイヤも知っている。さらに地の利を活かして鈴鹿で走る、となると、これは大きなアドバンテージですからね」
―特に最近のMotoGP小排気量クラスで活躍している日本人選手は、ATC(アジアタレントカップ)やルーキーズカップで結果を出して認められた選手たちがほとんどですね。残念ながら、全日本でチャンピオンを獲って勝ち上がっていく、というルートを歩んでいない。
「確かにそうですね。でも、これは矛盾することを言うようだけれども、圧倒的な才能を持った選手が今の全日本に登場したら、世界へ行く道は必ず開けるはずです。
昔と今の違いは、〈パイの大きさ〉という側面もあるんです。昔は参戦選手がとにかくたくさんいて、予備予選を通過したうえでさらに各予選の上位に入らなければ決勝レースに出られない、というような大激戦でした。それだけ激戦だと人材も出てきます。その当時と比較すると、今はレース人口が圧倒的に違いますからね」
―そのような現状のもとで、中野さんはどういう目標を持ってチームを運営しているのですか。チームを立ち上げた当初は、やがて全日本や8耐、ひいてはMotoGPへとチームを大きくしていくつもりなのかとも思ったのですが、今は56RACINGで育成した若い選手を、たとえばHARC-PRO.へ送り出したり、あるいはATCへ繋いだり、と、発掘した人材を次のステージへ押し上げる活動になっていますね。
「もちろん、かつては〈Road to the WORLD〉と考えていたし、自分自身も世界で戦った以上はいつか世界GPチームにしたいとも思うけど、それはあくまでも究極の夢ですよ。現実的には、56designの仕事もあるし、そっちで世界に挑戦する道だってある。この現状で、僕が仕事をしながら若い子たちのお手伝いをなにかできるとすれば、タレントカップに送り出したり全日本のトップチームに送り出したり、ということが自分の使命なのかな、と考えています。昔は、地方選手権にもたくさんのチームがあったので、そこで学ぶ機会も多かったんですが、今はその機会も減りつつある。ならば、草の根レベルからそこを分厚くして支えるお手伝いをするのが自分たちの役目だろう、と思います。
でも、面白いもので、やっているうちに、『あ、これだ!』とわかる瞬間があるんです。たとえば、ヤマハから全日本に参戦していた時代に監督から言われたことや、WGPに行ってTech3のポンちゃん(エルベ・ポンシャラル)に教えてもらったことを、今は自分が若いライダーに教える立場になったことですごく活かせるんですよ。それがとにかく面白くて楽しい。初めて全日本にスポット参戦したレース(2018年第5戦筑波)でも埜口が優勝しちゃって、あのときは自分のレースより感動して泣いちゃってましたもんね。自分のレースでも泣いたことがないのに(笑)」
―自分のレースといえば、中野さんの選手時代は非常に多くのライバル選手がいたと思います。
「いましたね。ハンパじゃなくすごいライバルたちが、本当にたくさんいました。昔は、ノービスクラスの戦いでも、チームの背後にメーカーの影がちらついていたりもしましたから。
僕が16歳でSP忠男に入ったときに、ワークショップにヤマハの人が出入りしているのを見たときは、ドキドキしたものです。他のチームを眺めても、たとえばJhaの武田雄一君なんてホンダのファクトリーみたいなバイクに乗っていて、それで4耐で真っ向勝負の対決をするわけでしょ。今と比べれば環境面の大きな違いはありますが、当時は子供なりに背負っているものも違っていました。そして、そこを達成すればファクトリーやプロフェッショナルの世界がうっすらと見えていた。そう考えると、プレッシャーというものは、能力を発揮して成長していくためにはある程度必要なのかな、とも思いますね。今の自分は若いライダーを預かる立場ですが、子供の人生がかかっているから真剣勝負です。そこはすごく責任を感じますね」
―自分自身のライバル関係の話でいえば、もっとも強烈に意識したライバルは誰ですか?
「やはり、加藤大治郞さんですね。僕は一歳年下なんですが、彼はポケバイ時代からすでに大スターでした。僕は当時、そこまで目立った存在ではなくて、全日本でヤマハのワークスに入ったときに、ようやく少しだけ追いつくことができた、と感じました。あちらはホンダでこっちはヤマハ、というメーカー対決もあったので、チームの人に『挨拶するなよ』と言われるくらいすごい緊張感でピリピリしていた、そんな時代でした」
―中野さんは憶えているかどうかわからないのですが、ふたりがWGP250ccクラスに参戦していた時代に、週刊プレイボーイで対談をしてもらったことがあったんですよ。
「あー、そんなことがありましたっけ。憶えてないなあ」
―ふたりの性格がすごくよく出た対談で、中野真矢選手はすごく皆に気を遣って、その場にいたいろんな人たちに話題を振ってくれるんですが、加藤大治郞選手は、たとえば中野選手から「……ですよね、大治郞君?」と話を振られても、けっして中野選手の目を見ようとしなかったし、司会をしていた私に向かってしか返事をしなかった。すごく進行しづらかったのを憶えています。
「シャイな性格、ということもあったのだろうと思います。こちらは一歳年下だから当然いつも挨拶はしますが、話を振ってもあまり向こうからは乗ってこなかったですね」
―それはきっと、加藤大治郞さんが中野真矢を自分のライバルとして強く意識していたからなのではないか、という気もします。
「だったとすれば、それはすごく光栄なことですね」
―それにしても、あんなに気まずい対談はありませんでした。
「そういう意味では、ライバルとしてこちらも全日本時代からすごく意識をしていましたよ。コンプレックスじゃないけど、そういう複雑な感情もあったし」
―今もすごく印象に残っているレースがひとつあるんですよ。ツインリンクもてぎで行われたWGP250ccクラスで、加藤大治郞と中野真矢のふたりがトップ争いを繰り広げたレースです。中野選手が加藤選手をコンマ数秒の差で追う展開でしたが、最後までその差が詰まらず、加藤優勝、中野が2位という結果でした。レースが終わって、話を聞こうと思いTech3のガレージに入ったら、中野選手がすごく荒れていて、そのへんにあったバケツか何かを蹴っ飛ばすか何かしていました。いつも人当たり良くメディアに接してくれる選手なのに、珍しく激しい感情を露わにしていたので、「これは何も見なかったことにしよう」と思ってそっとピットから出て行ったんです。しばらく時間が経つと、いつものさわやかな笑顔で質疑応答に接してくれたのですが、あのときは、中野真矢の加藤大治郞に対するむき出しの激しいライバル意識を目の当たりにした思いがしました。
「2000年のもてぎですね。あのレースだけを切り出すと、『なんでそんなに感情的になるの?』と思う人もいるかもしれません。トップ争いで、僅差の距離が最後まで詰まらないことはいくらでもあるわけですから。でも、実はその結果に至る前にとても長い伏線、ストーリーがあるんですよ。
さっきも言ったように、僕はポケバイ当時から加藤大治郞さんのことを知っていて、ミニバイクでも彼はずっと僕の前を走っていました。全日本時代も、もてぎでずっと彼に勝てなかった。自分でもどうしていいのかわからなくて、もちろん自分自身にも何か足りない部分があるはずだし、開発面でも何かできることがあるはずだ。日々そればっかり考えていて、そしてあのレースの日を迎えたんです。それでも彼に負けたものだから、自分のなかで悔しさが爆発したんですね。よく憶えていますよ。絶対にやっちゃいけないことだけど、ピットの中にあったパイロンを蹴飛ばしてしまいましたね。で、その話にはさらに続きがあって、ドクター・コスタ(クリニカモビレのメディカルチームリーダー)がピットに来て、荒れている僕をなだめてくれたんです(笑)。
あの年はチャンピオン争いをしていたんですが、たしか残り2周くらいでチームが〈OK〉のサインボードを出したんです。順位をキープしろ、と。あの年は僕とオリビエがチャンピオン争いをしていて、大治郞さんはたしかランキング3番手で、その三人に計算上はチャンピオンの可能性があったんです。チームとしては、2位でも充分だと考えて、あのサインボードを出した。で、それを見た僕はカチンと来たんですよ。ふざけんじゃねえ、と。『オレは2位になるためにレースをやってるんじゃねえ』とスイッチが入って、それで最終ラップにたしかタイムを上げたんですよね(註:その最終ラップで中野はファステストラップレコードを更新、加藤も自己ベストタイムを記録した)。レースが終わってピットに戻ってくると、チームから『キープって言ってるのに、最終ラップにタイムを上げてどうするんだ』と怒られました(笑)」
―MotoGPとSBKの期間を通じて、最も印象に残っているレースはどれですか?
「いい意味で印象に残っているのは、カワサキ時代です。サーキットに行くのがあんなに楽しくて、レースが待ち遠しいのは初めての経験でした。それまでは、レースの前は必ず緊張するし心配事もあるし、逃げ出したくなるときもあったけど、カワサキ時代は自分の思ったバイクを作れて、本当に充実していました。僕が移籍した当初のカワサキは、ポイントを獲れるかどうかという状態でしたが、逆境だからこそよけいに燃えるものがあって、自分の力で何とかしてやろうという強い思いでモチベーションがすごく向上しました。たしか、アッセンで2位に入ったんですよ(2006年オランダGP)。予選ではポール争いをできて(フロントロー2番グリッド)、決勝の表彰台ではレプソルホンダの2台、ニッキー(優勝)とダニ(3位)がいて、すごく達成感があったレースでした」
―その後、ホンダ時代を経て2009年にSBKへ移りました。MotoGPでは250cc時代も含めてそんなに大きなケガをする選手ではない印象だったのですが、鎖骨を折ったのはあれが初めてではないですか?
「一番苦しいときでしたね。アプリリアのSBKでは、鎖骨を折って首も傷めました。たしかドイツのレースウィークで、朝、起きられないことがあったんです。手で支えなければ首を動かせない状態で。でも、ファクトリーライダーだから休めないので、ガッチガチのテーピングをして痛み止めも打って、泣きながらレースを走りました(笑)。そのときですね、『引退しよう……』と思ったのは。それくらい、あのときはキツかった。
250cc時代は準ファクトリーのTech3に行けて、そのあとがルイ・ダンティンのチーム(ダンティン・ヤマハ)でカワサキのファクトリーへ移籍して、その後ホンダで2年。コニカミノルタホンダと、翌年がファウスト・グレシーニさんのチーム。グレシーニ・レーシングは大治郞さんのいたチームで250cc時代は直近のライバルだったから、まさかそこに自分が行くことになるとは思わなかったですね。
その後、アプリリアが声をかけてくれて、MotoGPからSBKへ移ることになったわけですが、イタリアのファクトリーチームが自分に声をかけてくれたことを本当に意気に感じていたので、彼らの期待に応えられなかったのは本当に情けなかったですね。あの一年が一番キツかった。ジジ(・ダッリーニャ、現ドゥカティコルセ・ゼネラルマネージャー)もいろいろと工夫をしてくれたけど、まったく期待に応えられなくて、最後は体がいうことをきかなくなり、走れなくなって終わってしまった。皆にありがとうと言えずに引退してしまったので、それがとても心残りです。この場を借りて、あのときのチームの皆に感謝を述べたいですね。期待に応えられなくてゴメンね、でもありがとう、と。あのときのアプリリアのスタッフは本当に温かい人たちばかりでした。そして、チームメイトのビアッジは、すごく速かった」
―数奇な運命だと思うのですが、中野さん自身はヤマハでスタートしたライダー人生で、いまは自分の育てた選手をHARC-PRO.の本田重樹さんのところへ預け、その名越哲平選手は青山博一監督のもとでIDEMITSU Honda Team Asiaの選手としてMoto2に代役参戦しました。現在、Red Bull Rookies Cupに参戦している埜口遥希選手がATCのセレクションに合格したときも、アルベルト・プーチ氏のところへ挨拶に行く際に間をつないでくれた当時のHRC担当者が、宇川徹さんだったのだとか。
「そうそう、そうでしたね。同じレースを一緒に走っていた人たちが、今はそれぞれ重要なポジションで活躍されている。現役時代に睨みあっていたライバルと、今は若いライダーのことで話し合っている、というのも面白いものですね」
―現役時代には、宇川さんとはあまり話をしなかったのですか?
「しなかったですね、ライバルでしたから。プライベートでは話をしないですよ。実は、宇川さんのMotoGP最後のレースで突っ込んだのは僕なんですよ(笑)。2003年最終戦のバレンシアで、前に宇川さんが走っていて、『宇川さんの最後のレースか……。でも抜くよ』と思って抜いたら僕が転んじゃって、宇川さんを巻き込んでしまった。でも、その前の250cc時代には、僕がチャンピオン争いをしているときにエストリルのレース(第12戦ポルトガルGP)で、宇川さんが目の前で転んで僕が飛んじゃったこともありましたけどね」
―今の仕事のウェイトは、レースと56designの比重はどれくらいですか?
利益を得ていません。だから、主軸はあくまでもこのブランド、56designです。このショップがしっかりしていなければ、レース活動もできませんからね」
―では、今の中野真矢の肩書きは?
「56designプロデューサー、ですね。56designはSPIDIの日本正規代理店で、RIZOMAの輸入代理業務もやっているんですよ。RIZOMAに関しては、カワサキ時代にチーフメカニックをやってくれていたフィオレンツォ・ファナーリさんが先方の開発責任者なので、その縁で今も仕事をさせてもらっています。ライダー時代にやってきたことは、その意味でも今につながっているんですね」
―最後に、56designの将来的なビジョンを聞かせてください。
「モーターサイクルのイメージが、日本でもっとファッショナブルでかっこよくなってほしいし、地位も向上してほしい。それを追い求め続けることですね。アジアでは、中国やタイ、台湾等で少しずつですが展開が始まっているのですが、かつて自分が現役時代に挑戦したように、56designでもいずれはヨーロッパに挑戦したい。そして、イタリアに店舗を出したい。それが目標です。イタリアの街でカフェを持ちたいんですが、カフェはイタリアが本場だから、日本らしくお茶のほうがいいかもしれませんね!」
web Sportivaやmotorsport.com日本版、さらにはMotosprintなど海外誌にもMotoGP関連記事を寄稿する他、書籍やDVD字幕などの訳も手掛けるジャーナリスト。「第17回 小学館ノンフィクション大賞優秀賞」「2011年ミズノスポーツライター賞」受賞。