2019年3月22日
ホンダWGP参戦60年企画 グランプリ挑戦の軌跡・後編
●撮影:依田 麗
●取材協力:Honda https://www.honda.co.jp/
ホンダコレクションホール https://www.honda.co.jp/collection-hall/
1979年WGPへの復帰に際し、ホンダはあえて4ストロークのNR500で参戦した。革新的なマシンであったが新技術ゆえの試行錯誤も多く、実戦において結果を出すことは容易ではなかった。「レースは走る実験室」とは言え、勝てない技術には意味はあっても意義がないこともまた事実。ついにホンダ初の2ストWGPマシンNS500が製作された。フレディ・スペンサーとNS500は1982年第1戦アルゼンチンGPでデビュー。第7戦ベルギーで初勝利を飾り、勝てるマシンであることを証明した。1983年は参戦2年目で早くもチャンピオンを獲得、世界の頂点へと返り咲いた。
1984年からは新開発90度V4エンジンのNSR500が登場。以降NSR500はモデルチェンジする度にビッグバンエンジン、スクリーマーエンジン、Vスペックエンジンなどの愛称で呼ばれるほど注目される、WGPを代表するブランドであり、ライバルと切磋琢磨を繰り返し、ホンダのWGP通算500勝に大きく貢献した。また、NSR500のエンジンレイアウトを半分にしたようなNSR250もワークスマシンとして誕生。このモデルの公道版レプリカのNSR250Rもまた、レーサーレプリカブームを代表する人気車であった。NSRシリーズは、たぶん二度と訪れることはないであろう2ストロークエンジンの頂点にふさわしいワークスレーサー、市販モデルであったことは間違いない。
なかなか結果に結びつかない4ストロークのNR500と並行して2ストロークマシンの開発が本格始動したのは1981年初頭だった。1960年代のWGP参戦時からホンダは常に独自の道を選択し勝利を重ねた。もちろんニューマシンもそうだった。サーキットによっては500ccクラスと当時あった350ccクラスとのタイム差が小さいところに注目。プロジェクトがスタートした頃はクランク2軸の4気筒エンジンが主流だったが、パワーで負けても、コンパクトに作れば十分に戦える。そこで前が1気筒、後ろ2気筒の一軸クランク112°V型3気筒というこれまでにないレイアウトの小さなエンジンを作り上げた。
前面投影面積の小さいスリムなフェアリングの小柄な車体に仕上げられたNS500は、参戦初年度の1982年若き新人フレディ・スペンサー、前年チャンプのマルコ・ルッキネリ、NRで3年戦った片山敬済らに託された。
初戦からスペンサーが表彰台、第7戦ベルギーGPで渇望していた勝利を手にした。そして今でも伝説になっている1983年シーズンがやってきた。NS500とスペンサーは驚異的な走りを見せ、最終戦までもつれたケニー・ロバーツと激しい一騎打ちを制し年間チャンピオンを獲得。21歳8ヶ月のチャンピオンは、マルク・マルケスに破られるまでトップカテゴリーを制覇した最年少記録だった。強いホンダの復活である。
撮影した車両は、翌1984年にディフェンディングチャンピオンのスペンサーが4気筒NSR500と併用したもの。排気デバイスATAC装着やCRFPのパーツを使っての軽量化など進化と熟成を重ねたNS500は、その後も多くのライダーが乗りグランプリで素晴らしい戦績を残した。
3気筒のNS500は1983年、ライバルの4気筒勢を向こうに回してフレディ・スペンサーがチャンピオンになったが、小さく軽くしたことによる有利の反面、コースによってはパワーの差が不利に感じることもあった。毎戦ごとに強くなっていく相手と戦うために、さらなるパワーが必要で4気筒化は自然の流れであった。
1983年のシーズンはNS500を改良していく一方で新しい2ストローク4気筒の開発も進めた。NR、NSと前例のないものに挑戦するホンダのチャレンジ精神はここでも発揮された。誕生した最初のNSR500は、低重心化を狙いガソリンタンクをエンジンの下側に配置、チャンバーは一般的に燃料タンクのある位置を通る革新的なレイアウトを採用していた。太もものようなチャンバーが上部に美しく並び、アルミダイヤモンド型フレームの下側に取り付けられるアンダーカウルをかねたアルミ燃料タンクに誰もが驚いた。90°V型4気筒エンジンは、ライバルの2軸クランクよりコンパクトな1軸クランク。
このNSR500を与えられたのは、誰も真似できない独特のコーナーリングをする天才と呼ばれたフレディ・スペンサーひとりだけ。急激にトルクが立ち上がるエンジン特性も含め彼の専用機だった。最初から速さを見せ、第2戦にポールポジションから大差で勝利したが、新技術ゆえの熟成不足などにより、安定した走りに結びつかなかったもののNSRは3勝を挙げた。最終的にはスペンサーのケガにより残り3戦を欠場。チャンピオンは逃してしまった。
革新的なこのマシンを、ランディ・マモラ、ロン・ハスラム、レイモン・ロッシュらもライディングし、第10戦イギリスGPでマモラが優勝した。その独自性から、初代NSR500は、記憶に強く残るマシンとなった。
1984年の7月、ラグナ・セカで開催されたAMAのレースにNSR500で出場したフレディ・スペンサーは、予選中に転倒し鎖骨を折ってしまう。このためWGPの残戦を欠場し、チャンピオンを逃した。それでも最速のライダーとしての評判は下がることはなかった。
ケガが癒え万全の体調で挑んだ1985年シーズンは後世まで語り継がれる500ccクラスと250ccクラスのダブルエントリーに挑戦をした。1960〜70年代はダブルエントリーが普通だったが、各クラスの専業化が進んだ1980年代中頃では、拮抗したつばぜり合いを繰り広げる250ccを走ったすぐ後に大パワーをねじ伏せるように操る高速化した500ccのレースに出るなど、体力面だけでなく精神面でももとんでもないことであった。
この年のNSR500は90°V型4気筒というエンジンレイアウトは踏襲したが、燃料タンク、チャンバーが逆のレイアウトは通常に変更。すべてのシリンダーが前方排気となり、チャンバーはエンジン下を通り左右2本出しされる。出力をアウトプットするまでクランクを含め4軸のレイアウトは、プライマリーシャフトを取り除き3軸となった。クランクはタイヤとは逆回転していたのがタイヤと同回転方向となった。
RS250RWと呼ばれた250ccマシンはそのNSR500のエンジンを真ん中で割ったような、ボアストロークが同じV型2気筒のまさにスペンサースペシャル。ロスマンズ・インターナショナルがスポンサーになり、スペンサーは両クラスとも通称ロスマンズカラーのマシンで出走。蓋を開けてみれば500ccクラスは12戦中4連勝を含む計7勝、250ccクラスは6連勝を含むこちらも7勝でダブルタイトルの偉業を成し遂げた。スペンサーがトップクラスで年間チャンピオンを獲得したのは2回。これよりもチャンピオン獲得回数の多いライダーはいるが、このアメリカ出身のライダーが語り草になっているのは、誰もが認める圧倒的な速さでNSRを走らせたからだろう。
地元オーストラリアのレースに出場しているところをモリワキエンジニアリングの森脇護氏にスカウトされたことが、ワイン・ガードナーが表舞台に出るきっかけだった。1981年の鈴鹿8時間耐久ロードレースの予選でアルミフレームのモリワキモンスターを限界まで走らせ、当時としては驚異的なコースレコードを出しその才能を示した。それが目に止まり1983年のオランダGPでイギリスのホンダチームからWGP500ccクラスにデビュー。その翌年はイギリス国内の選手権に参戦する傍らでRS500に乗って5戦にスポット参戦。結果を出し続け、後半にはNS500のエンジンを与えられ、スウェーデンGPでは3位表彰台に登るなど全てでポイントを獲得した。ホンダワークスと契約し1985年からはNSR500で出走。翌1986年に開幕戦のスペインGPで初優勝し計3度の優勝。手首の痛みを訴え戦線離脱したスペンサーの穴を埋めるべく奮闘し、ランキング2位でシーズンを終え名実ともにトップライダーの仲間入りをした。
スライディングをものともせずスロットルを大きく開ける彼の走りは見るものを熱くさせた。1987年はエースライダーとして挑んだ年。NSR500のエンジンは4気筒すべてが前方排気から、後ろの2気筒を後方排気に変更。Vバンク内にキャブレターを収めるスペースの問題もあり、挟み角を90°からNS500と同じ112°へと広げた。これにより各部品を設置の自由度が上がり、後ろ2気筒が地面と垂直近くになるよう目の字断面材を使ったツインスパーフレームにエンジンを搭載し、後方の排気はほぼストレートにテールカウル後端まで伸びる形状にできた。理論的に振動が出にくい90°から112°になったことでバランサーシャフトの役割をするプライマリーシャフトが復活して3軸から再び4軸になった。
ガードナーは、この新型NSR500を操り15戦中7勝するだけでなく、全レースでポイントを獲得し世界一の王座に登りつめた。1988年はディフェンディングチャンピオンとしてゼッケン1を付け大きな変化をせず熟成したNSR500を走らせたが惜しくもランキング2位。1992年を最後に引退するまでシリーズチャンピオンは1987年の1度だけとなったが、豪快な走りに多くのファンがいた。
1990年モデルでそれまでの90°に1回の等間隔で爆発していたものから、隣り合う気筒が同時に爆発する180°等間隔爆発を採用。これは大きなトピックだった。コーナーからの脱出時にいかにしてトラクションを失いにくくするかを追求した回答であった。そのひとつの到達点が1992年モデル。112°V型4気筒のレイアウトは変わらずだが、1番、3番の気筒が同時爆発し、少し間をおき2番と4番、こんどはあまり間をおかずに1番と3番が爆発という、位相同爆の不等間隔爆発、通称ビッグバンエンジンである。スロットルを開けた時に唐突にトルクが立ち上がらずリアタイヤがスリップしにくい。目指したのは4ストロークのような扱いやすさ。
これでWGPを無双したのがマイケル・ドゥーハン(エントリー名はミック・ドゥーハン)であった。同じオーストラリア出身のワイン・ガードナーの後を継ぐかたちでエースライダーになった彼の速さはビッグバンエンジン初年度から4連勝を含む5勝と2回の2位とその速さを示したが、8戦目の転倒で負った足の大怪我が長引いた影響もあり、年間タイトルには届かなかった。9勝して初めてチャンピオンとなった1994年から1996年まで怒濤の3連覇を達成。ドゥーハンとビッグバンエンジンのNSR500は圧倒的な強さを誇り、ライバル車も不等間隔エンジンに追従した。
ところが、1997年、エンジンを以前の等間隔爆発に戻したのである。電子制御技術の進化もあり以前の等間隔爆発と同じではないとはいえ、スクリーマーと呼ばれたこのエンジン積んだレプソルカラー(1995年から契約)のNSR500をレースで使ったのはドゥーハンだけだった。テストした他のホンダライダーは従来のビッグバンエンジンを選択している。それでもドゥーハンはなんと15戦中12勝、2位2回という恐ろしいほどの強さでチャンピオンに。続く1998年もランキング1位で終え、5連覇を成し遂げた。ドゥーハンは右足の怪我から足首の可動範囲が狭くなり、彼のマシンはその後、右足ではなく左手親指でレバーをプッシュする左手リアブレーキを採用しているのが特徴だ。
絶対王者として君臨していたミック・ドゥーハンが、ディフェンディングチャンピオンとして挑んだ1999年。第3戦スペインGPの予選でヘレスサーキットの高速コーナーで転倒し、体の各部を骨折する大怪我を負い戦線を離脱。彼はこの怪我がもとでその年の12月に引退を正式に表明、ひとつの時代が終わった。
NSR500は、1997年の圧倒的な勝利からドゥーハンだけでなくチームメイトの岡田忠之、アレックス・クリビーレもスクリーマーエンジン仕様にスイッチした。以後NSRは最後までこの仕様となる。王者が突然いなくなったシーズンは、チームメイトのアレックス・クリビーレ、岡田忠之とスズキのケニー・ロバーツJrが争った。その中でもアレックス・クリビーレが優勝6回、2位2回、3位2回と抜きん出て自身初のシリーズチャンピオンに輝いた。クリビーレは、小排気量から結果を残しステップアップしてきた1970年生まれのスペイン人ライダー。1989年に125ccクラスでチャンピオンを取ったが、その後の250ccクラスでは優勝もなく、ランキングも5位以内に入ったことがなかった。
転機となったのが1992年、同じスペイン人のシト・ポンスが率いるチームでトップカテゴリーにステップアップしてからだ。クリビーレとNSR500は優勝含め表彰台に上がれるほどの速さを見せ、1994年からホンダワークス入りしドゥーハンとチームメイトになる。しかし1強時代とも言われるほど連勝していたドゥーハンのセカンドライダーという立ち位置で、ランク1位には届かなかったが、トップ争いをする実力は確実にあった。アレックス・クリビーレはドゥーハンのあとを継いでホンダに6年連続のメーカーチャンピオンをもたらしただけでなく、スペイン人ライダーとして初めてのトップクラスのチャンピオンになるという偉業をはたした。マルク・マルケスやホルヘ・ロレンソなどスペイン人チャンピオンの先駆者である。
2002年は2ストロークエンジンを主体としたGP500から4ストロークエンジンのMotoGPクラスに変わった最初の年。暫定処置として2006年まで2ストローク500ccとの混走を認められたが、ワークスチームは排気量上限990ccの規定の中で新しい4ストロークマシンを走らせた。しかし、いきなりサテライトチームまで切り替えることはできず、新開発の4ストロークV型5気筒のRC211Vを初戦から走らせたレギュラーライダーは、レプソル・ホンダチームのバレンティーノ・ロッシと宇川徹のみ(伊藤真一がスポット参戦で初戦の日本GPでRC211Vを走らせている)。他のホンダ系チームは2ストロークのNSR500を使った。そしてこの年が世界中のロードレースシーンで多くのライダーが駆り数々の栄冠を掴んできたNSR500が走る最後のシーズンとなった。
このマシンはフォルトゥナ・ホンダ・グレシーニチームから念願のトップクラスで走ることになった加藤大治郎のNSR500。幼少からポケバイでレースを始め、全日本GP250ccクラスでチャンピオンを取り、2000年からグレシーニ・レーシングでWGP250ccに参戦。日本で走っている頃から物怖じしないクレバーな速さは折り紙付きで、翌2001年に250ccクラスチャンピオンを獲得してからのステップアップであった。小柄な体で公称180PS以上という2ストロークのモンスターマシンを巧みに操り、ヘレスサーキットで開催された第3戦スペインGPでは、記念すべきMotoGP元年のチャンピオンになったRC211Vのバレンティーノ・ロッシに続く2位表彰台を獲得した。シーズン後半からは加藤にもRC211Vが与えられので、このNSR500に乗ったのは第9戦ドイツGPまでである。なんとRC211Vでの初戦となったチェコGPでも2位に入り適応力の高さを発揮した。
2000年の4月にFIM(国際モーターサイクリズム連盟)は2002年シーズンからロードレースWGPのトップクラスを、それまでの2ストローク、4ストローク問わず500ccまでから、4ストロークの990ccまでに移行すると発表した。NR以来となる4ストロークエンジンを手がけることになったホンダは、すべてのエンジンレイアウトを検討しながらレギュレーションで4気筒と5気筒の最低重量が変わらないことに注目。得意なV型4気筒エンジンに1気筒追加し、前側を3気筒にしたV型5気筒20バルブというこれまでになかったレイアウトを採用。。とはいえ、VバンクはRVFなど90°だったV型4気筒とは違い75.5°。この挟み角なら90°V4と同様、理論上の一次振動を打ち消せてバランサーシャフトは不要。さらに気筒数を増やすことによって高出力に繋がる高回転化をしやすく、ピストンを小さくできるのでシリンダーからヘッドまわりをコンパクトにすることができるなどのメリットもあった。
2ストローク500ccと同じタイヤを使うが、車重は重くなり、パワーも増大するためタイヤには厳しくなる。そのために車体は徹底したマスの集中化やフレーム剛性の最適化などを追求した。リアサスペンションのクッションユニットをフレーム支持せずユニットプロリンクを採用したのも話題になった。2001年の第24回鈴鹿8時間耐久ロードレースの決勝直前にミック・ドゥーハンと鎌田学が完成したプロトタイプで3周の走行デモンストレーションを実行、RC211Vが一般に披露された。さらに開発が進んだ2002年モデルは、バレンティーノ・ロッシが操り16戦中11勝、2位4回という抜きん出た速さでシリーズチャンピオンを獲得。2003年はさらなるパワーアップを果たし、トラクションコントロールを装備、バレンティーノ・ロッシが9勝して連覇を成し遂げた。メーカーランキングもホンダが2年連続の1位を獲得し圧倒的な強さをみせつけた。
NSR500のエンジンをちょうど半分にしたようなV型2気筒エンジンを搭載したホンダのワークスマシンNSR250は、前年500ccとのダブルエントリーが大きな話題となったフレディ・スペンサーのRS250RWをベースに開発され、1986年にデビュー。以降16年間に渡りWGPをはじめとして全日本選手権でも活躍した。WGPではアントン・マンク、アルフォンソ・ポンス、ルカ・カダローラ、マックス・ビアッジ、加藤大治郎がライディングし、7度のタイトルを獲得している。全日本でも清水雅広、岡田忠之、宇川徹、加藤大治郎がチャンピオンを獲得した。
1993年、ロスマンズホンダチームから念願のWGP250ccに初挑戦した岡田忠之のNSR250は、前年にフルモデルチェンジをした2世代目であった。一軸V型2気筒のエンジンのVバンクは、90°から75°に狭められコンパクト化。フロントフォークは正立から倒立に。リアスイングアームがプロアームになり、ドライブチェーンは右側になった。1993年モデルではカーボンブレーキディスクを採用。岡田のこのシーズンの最高成績は2位のランキング8位。ホンダNSR勢は残念ながらチャンピオンを逃しロリス・カピロッシがランキング2位で終えた。
イタリア・ローマ生まれのマックス・ビアッジがオートバイのロードレースを始めたのは1989年の17歳。幼少の頃からレースに出ていたライダーが多い中では異例の経歴である。1990年イタリア選手権125ccチャンピオンを獲得し、1991年にヨーロッパ250ccチャンピオン、1993年にはWGP250ccデビューという間違いなく天才肌のライダーだった。1994年に世界チャンピオンになるとそこから破竹の勢いで4連覇を達成した。その最後の年となった1997年から4年ぶりにホンダに復帰。この車両は2世代目NSR250の最終型。お尻が下がったテールカウルは、後続にスリップストリーム効果を与えにくくするとして当時流行していた。
NSR250は強いライバルに対抗するために1998年モデルから3世代目になった。2ストロークV型2気筒エンジンはそれまでとまるで違うもの。一軸クランクから単気筒エンジンを繋いだような二軸クランクにして、Vバンク角は110°に広げられた。クランクは前後逆回転。登場した時はピボットレスフレーム、サイドラジエターだったが1年後のこれはその両方ともやめている。1996年からWGP250ccクラスに参戦した宇川徹は初期モデルから3世代目に乗ったライダー。2001年からトップカテゴリーにステップアップするが、これに乗った1999年シーズンが250ccクラスランキングでのベストでバレンティーノ・ロッシに次ぐ2位だった。
イタリアのグレシーニ・レーシングと契約してWGP250ccに参戦するようになった2年目の2001年シーズンは、加藤大治郎のひとり舞台だった。1993年に世界チャンピオンになったアプリリアに乗る原田哲也と争いながらも、このクラスのシーズン最多優勝記録にならぶ16戦中11勝をあげて世界チャンピオンを獲得。その功績により文部科学省からスポーツ功労賞を受けた。NSR250は前年モデルのフレームとは違う完全に新設計した別物。2軸の110°V型2気筒エンジンは熟成型だ。
2018年シーズンで惜しまれつつ現役を引退してしまったダニ・ペドロサが、テレフォニカ・モビスター・ジュニアチームからトニ・エリアス、ホワン・オリベと一緒にWGP125ccクラスに参戦したのは2001年。まだあどけない15歳の時だった。デビューシーズンは2位を2回でランキング8位。2002年は優勝3回、2位3回、3位3回でランキング3位と着実な成長をして、アルミフレームのRS125RWに乗る3シーズン目となる2003年に優勝5回で125cc世界チャンピオンに輝いた。小柄なライダーが多い中でもとびきり小柄な体で最終的にはMotoGPマシンまで操った。ビューから2018年に引退するまでホンダ一筋であった。
[前編・RCレーサーの時代へ]