2019年2月18日
苦境脱出、2018年のヤマハYZR-M1ラスト5戦で見えた光 ヤマハ MS統括部長 辻 幸一さんに訊く
2017年シーズンの開幕戦から、ひとつ歯車が狂ってしまったヤマハYZR-M1とふたりのライダー。
そしてヤマハは、長い苦境の期間を超えて、ついに復活への足掛かりを見つけたのだ。
●取材協力:YAMAHAhttps://www.yamaha-motor.co.jp/mc/
2017年6月25日から、2018年10月28日――。この1年と4カ月と3日、ヤマハYZR-M1は、たったのひとつも勝ち星を挙げることができず、ホンダとドゥカティというライバルメーカーに、ハッキリと後れを取ってしまっていた。
「エンジンも、車体も、それから電子制御も、ウチはライバルメーカーにぜんぶ負けてしまっていました」
そう言うのは、ヤマハのレース活動を統括する辻 幸一さん。’17年の第8戦オランダGPでバレンティーノ・ロッシが優勝し、翌ドイツGPから始まったこの不名誉な「連続無勝利記録」は、’18年の第17戦オーストラリアGPでマーベリック・ビニャーレスが優勝したことで、26レースで終止符を打つことになるのだけれど、ヤマハのファクトリーチームがこれほど長く、優勝から見放されてしまうのは初めてのことだった。
「2003年、世界グランプリレースがMotoGPと呼ばれる4ストロークマシンのレースになって2年目に、やはり長い間勝てませんでした。今回は、それに次ぐ2番目に悪いシーズンということになりますね」
しかし、’03年は確かにシーズンを通して未勝利に終わってしまったけれど、勝てなかったレースは1年6カ月と5日/18戦のみだったから、’17年の無勝利期間こそ’03年より短かったとはいえ、勝てなかったレース数でいえばかつてないシーズンだったとも言えるのだ。
YZR-M1の不調は、実は’17年シーズンの序盤から始まっていた。このシーズンから加入したビニャーレスが、シーズンイン前のウィンターテストからトップタイムを連発。さらに開幕を2連勝、ひとつ転倒、6位入賞をはさんで、第5戦もポールtoウィンで勝ち切った。前年、スズキで待望のMotoGP初優勝を挙げたニューフェイスが、ヤマハ入りしてすぐにチャンピオンへの階段を駆け上がり始めた――ファンも関係者も、みんなそう思い始めていたのだ。
「ところが、’17年シーズンは序盤からマシンに問題を抱えてしまっていたんです。大きな問題としてはふたつ。ひとつは、あまりにもリアグリップに依存しすぎるマシンになってしまっていたこと。これは’16年シーズンからの課題のひとつだったんですが、’16年にはレース距離の最後までタイヤグリップをキープできなかったのが、’17年にはやや改善したものの、タイヤグリップが落ち始めると、タイムの落ち幅が大きいマシンになってしまっていたんです。もうひとつはウェット路面でまったくダメだったことです」
’17年シーズン、快調なスタートを切るルーキーを横目に、チームメイトであるベテランにひとつの違和感があった。なにかちょっとおかしい、けれどマーベリックが勝っているんだから、自分の乗り方を修正しなければならないのだろう――そう考えていたのが、バレンティーノ・ロッシだった。
「バレンティーノは『ちょっとフィーリングがおかしい』とずっと言っていたんです。旋回のフィーリング、特にコーナーの入り口で思ったように曲がって行かない、と。それでもバレンティーノは違和感を持ちながら、本能でそこを補正した乗り方をしてくれていたから、我々に伝わるのが遅かった」というのは、’17年のシーズン終了時に、当時のYZR-M1プロジェクトリーダー、津谷晃司さんが話してくれたことだ。
’17年シーズン最終戦では、1年も前の、つまり’16年モデルのメインフレームを使用して決勝レースを戦う、ということまでしている。しかも、フリー/予選セッションが終わり、決勝レースを数時間後に控えた日曜朝のウォームアップ走行から、その「旧型」フレームを持ち込んだのだ。データ、走り込み、充分なテストが当たり前のMotoGP、いやすべてのレースシーンにおいて、もはや死語となりつつある「ぶっつけ本番」だった。
「’17年の最終戦で’16年型のフレームを使ったのは、’18年型をどっちの方向で行くか、という最終チェックだったんです。結果、もちろんそのままではありませんが、’16年モデルの方向性で行こう、ということが明確になりました」(辻さん)
そして、すでにランキングが確定したとはいえ、最終戦で旧型フレームを使用したのは、ライダーに自信をもってライディングしてほしかったからだ、とも辻さんは言う。調子のよかった、また欠点がそれほど顕著ではなかった’16年型のフレームとはいえ、その時に使用していた’17年型エンジンとのマッチングも取れていないし、タイヤスペックだって変わっている。ヤマハのスタッフも、この付け焼刃の対処療法が上手くいくなんて考えていなかったに違いないのに、使わざるを得なかったほど、ヤマハのふたりは自信を喪失していたのだろう。
’17年の失敗を超えての’18年モデル
決してうまくいかなかった’17年シーズンが進むのと並行して、ヤマハは’18年型YZR-M1を開発していくことになる。狙いはもちろん、やや’16年型に寄ったキャラクターの、リアタイヤのグリップ依存の高くないマシン。その方法は明白なはずだった。
「’18年型は’17年型とは決定的に違うところがひとつだけあります。もちろん、それはまだ明らかにはできませんが(笑)、大きな変更をするというより、引き続きマシンのアップデートをし、’17年シーズンに上手くいかなかったことを改良したかった。具体的には、やはりリアタイヤへの依存が高くなりすぎないように、ライダーが自信をもってライディングできるマシンですよ」
ライダーが自信をもってライディングできるマシンとは、やはり「ヤマハらしいマシン」ということになるのだろう。近年はそこまで単純ではないけれど、かつてヤマハvsホンダのライバル対決を語る時に、よく「ハンドリングのヤマハvsパワーのホンダ」といわれることがあった。現在では、そこにドゥカティも加わり、表現を複雑にしてしまっているが、ハンドリングがいいというキャラクターがヤマハの武器であるのは変わらない。
「ヤマハの強みっていうのはずっと変わらないと思っています。つまり、ブレーキングからコーナリング、そしてターン、そこしかない。これはもう、2ストローク時代からずっと一緒だし、ヤマハはそういうバイクしか作れないんです。そうやって差をつけてきて、勝ってきて、チャンピオンを獲ってきたんです。それがヤマハなんです。去年も今年も、そして来年だってこれは変わらない」
例えば、と辻さんは興味深い話をする。ホンダ、ヤマハ、ドゥカティに、まったく同じバイクを与えて、ハイこれで1年間レースをしてください、といったときに、ヤマハはきっと、やはり同じようなマシンに育てていくし、ホンダはホンダ的な、ドゥカティはドゥカティ的なバイクになっていくんだろう、と。ヤマハはホンダのようなバイクは作れないんです、つまりホンダもきっと、ヤマハのようなバイクは作れないんじゃないか、というのだ。
だから、’18年型の方向性も明確だった。
「これはもう『ヤマハ的なバイク』です。もう少し言うなら、例えばル・マンの3~4コーナーで敵のインを刺して、そのままクルッと曲がって行けるような、もてぎの最終コーナーで、前の車のインを刺して、そのまま先にフィニッシュラインまで加速していくようなマシンなんです。だから、大きく変えたというより、例えばフロントとリアの重量配分を0.1フロントに寄せたり、リアに戻したり、そういう繰り返しと積み重ねです。そうやって細かいセッティングを入れてみて、敏感に変わっていくマシンにするのか、鈍なマシンになるのか――」
それでも’18年は結果が出たとは言い難いシーズンインだった。開幕戦こそ、ロッシが3位入賞を果たしたものの、上位を走りながら優勝争いに絡むような位置を走れず、シーズンを通して3位4回、2位1回と優勝はなく、ランキング3位。ビニャーレスは開幕から6位→5位スタートで、アメリカズGPでは優勝したマルク・マルケス(ホンダ)に3秒差をつけられての2位、以降は4レースも表彰台を外し、初優勝は第17戦オーストラリアGPまで待たなければならなかった。シーズンを通して3位3回、2位1回、優勝1回でランキング4位。結局、ふたり合わせてコンスタントに成績を残したシーズンともいえるが、ふたり合わせて1回しか勝てなかったシーズンだともいえるのだ。
「シーズン中にも細かい変更を重ねて、フレームを3種類使いました。それでもなかなか修正し切れないで、タイGPで大きな変更を加えたんです。ここが、今シーズンの大きな変化、大きな効果でしたね」
何をどう変更したかは明らかにしてくれなかったが、その前戦のアラゴンGPで加えた変更は大外し。この変更にはライダーも怒ってしまったのだという。
「制御のセッティングを変更したんですが、タイヤがスピンして進まない、と。そこでトラクションコントロールを加えると、今度は進まないと、ライダーふたりに怒られました。それで、次のタイGPでまた大きくセットを変えて、パーツも変更したんです。タイが第15戦でしたから、その後の5レース、遅ればせながら上向きのレースができた。ここに’19年モデルのヒントを見つけられましたね」
終盤5戦で見えた苦境脱出のヒント
タイではビニャーレスが3位入賞、ロッシが最終コーナーでややオーバーランしつつも、僅差の4位フィニッシュ。続く日本GPではロッシ4位、ビニャーレス7位だったとはいえ、走りの内容は悪くなかった。その次戦オーストラリアGPで、ビニャーレスが念願のシーズン初優勝を挙げるのだ。
「もてぎの後かな、マーベリックが悩みに悩んで『これはもう走れないかもしれない』って言ってきたんです。それからじっくり1時間くらいミーティングをして、いいから走ってみて、君のいいところは走りまくることだろう、と。マーベリックって、もともと『鈍』なところがあって、セッティングを変えようが変えまいが、99%までタイムを出してくるんです。これはホルヘ(・ロレンソ=2016年までヤマハに在籍)もそうだった。そこで、迷っているようだから走りまくれ、と。セッティングなんかいじらずに、走りまくれ、と。それがオーストラリアGPだったんです」
そのオーストラリアGPで、ビニャーレスはFP1から走りに走って周回数を増やし、FP1でトップタイム、FP2で3番手、FP3/FP4で2番手タイムをマークすると、予選でもフロントロー2番手を獲得。決勝レースでは、フロントロースタートから1周目には9番手と大きく出遅れてしまったが、周回ごとにペースを上げ、ひとつずつ順位を上げるや、8周目にはなんとトップに浮上! そのまま2番手以下との差を広げ、最大で4秒以上の差をつけてトップでゴール。念願の今シーズン初優勝は、ヤマハの連続無勝利の不名誉な記録に終止符を打つ意義の大きなものだった。
「あのオーストラリアのマーベリックの優勝は、バレンティーノにも刺激になりましたね。その次のセパンでは、今度はバレンティーノがフロントロー3番手で、序盤からずっとトップを走ってくれました。残念ながら、ラスト4周で転んでしまいましたが、いい走りがよみがえっていた。あの転倒は、バレンティーノが焦ってしまった。いや、われわれがバレンティーノを焦らせてしまったんです。ついに勝てる、いよいよ勝てる、って思わせすぎてしまった。そういうマシンを早くから渡してあげられなかった我々の責任です」
タイ→もてぎ→オーストラリア→セパンと、結果が出ようが出まいが、ロッシもビニャーレスも、そして辻さんも復活の手応えを感じ取っていた。残念ながら最終戦は雨になってしまい、ビニャーレスもロッシも転倒してしまったが、ふたりのライダーもピットも、もう来年を向いていた。最終戦のわずか2日後に行なわれたウィンターテストの1回目では、ビニャーレスが2日連続のトップタイムをマーク! ロッシも初日3番手と、’19年に期待を抱かせる形で’18年シーズンを終えたのだ。
「ラスト5戦は、明らかに前を向いて終わることができたと思います。自分たちが目指す方向が見えたかな。タイGP以降の仕様ですが、この5~6年であそこまで大きくマシンを変えたのは初めてじゃないかな、って程です。’19年モデルは、その方向性へ伸ばしていきたいと思っています。私が考える『ヤマハらしい』マシンは、ライダーふたりが自信をもってライディングできるバイク。それができれば、またチャンピオンを狙えると信じています」
2シーズンにも及ぶマシンの不調は、ヤマハのスタッフからも、ふたりのライダーからも、自信と信頼をそぎ落としていった。
「バレンティーノが言うんです。彼はマシンのことを『She』って呼びますから、『She doesn’t give me confidence』って。あんなにすごいライダーでも、マシンを信じないと走れない。マシンのことを理解して、信頼して、自信をもってライディングできるマシンを、私たちが提供しなきゃいけないんです」
エンジンも車体も電気も、ライバルに負けてるんです、と辻さんは言った。けれど、高度に進化した現代のMotoGPでは、ほんの少しのきっかけで、マシンの完成度がグンと上がり、見違えるような成績が出ることも、辻さんは知っている。
「’03年に続く悪いシーズンだったからね。やり返さなきゃ、先がないですよ。やってやりますよ」
2019年の初テスト・セパンの3日間の走行では、ビニャーレスが初日3番手、2日目にトップタイム、そして最終日に5番手タイムをマーク。ロッシは初日と2日目に6番手、3日目に10番手でテストを終えている。もちろん、このテストでの順位はさして意味を持たないが、ビニャーレスはこの3日間で参加選手中最多の205周を走り、ロッシは同じく5番手。
このテストでの周回数の多さが、きっと年末に花開く――。