「リーマンで、どんどんがどーん」
(2011年12月27日更新)
私がまだ、世間の酸いも甘いも立喰・ソのうまいもまずいも噛み分けられる前、と言いますと現在は噛み分けていると誤解されますが、便宜上噛み分けられることにしておきながら、まだ噛み分けられなかった1960年代も半ば、2012年1月21日に公開される「ALWAYS三丁目の夕日`64」のあの頃、1ドルは360円の固定レートでした。
なぜ1ドル=360円になったのか? 戦争が終わってやって来たGHQは「円はまるーいデ〜ス。英語でcirclesデ〜ス。Circlesは360°デ〜ス。だから1ドル360円でOKね。“円だけに角が立たずにまるーく収まります”OH! ワタシ上手いこと言いマシタヨ。Mr.Makoto matuzaki 座布団一枚 please!」という円=360°∴360円説が有力です。ホントは違うんでしょうけれど、話としてはこれで充分です。
私の記憶が正しければ、1ドルは365円だったはずですが、正しくないんでしょう。チータの365歩のマーチと混同していたんでしょう。あっそれ、人生はワンツーパンツ! 歩かないで休め〜♪
戦後の日本はどえらい勢いで頑張って驚異的な高度経済成長を続けました。対するアメリカはあっちこっちの紛争に首を突っ込みまくって、どんどん弱くなっていったのです。「戦争で負けて経済で勝った」とか「東洋の奇跡」などと言われたもんじゃ。
当時、紙幣はいつでも金と交換出来る金本位制度でしたが、ドルが弱くなると「ドルはもうあかん。金に替えてくれへんか?」という人が増えます。するとアメリカの保有する金塊=ドルの価値を支えていた大事な担保がどんどこ流出し始めたのです。
- 「えらいこっちゃ! アメリカが貧乏になってしまうでぇ!」ニクソン大統領は、「もうドルと金は換金しまへん!」と言いだします。寝耳に水のドルショック! このとんでもない宣言で金本位が大前提のブレトンウッズ体制は機能しなくなり、急遽ドルを切り下げたマイナーチェンジ版のスミソニアン体制へとシフトチェンジしたものの、アメリカのご都合主義では長続きするはずもなく、ついにキングストン体制へと移行します。
金による保証が後ろ盾となっていた固定相場制は崩壊し、自由圏の経済体制は紙幣そのものに価値をもたせる兌換紙幣制度と変動相場制に移行し現在に至るのです(はあ、はあ、はあ……ああ、しんど。これで合ってますか? 正解は、うぃき先生に聞いてください)。
ちなみに明治時代、1ドル1円からスタートし、昭和期に入ると日中戦争やら昭和恐慌やらで円はガタガタになり、太平洋戦争前は1ドル3円くらいの円安に。「そりゃどえらい円高じゃ!」と思ったあなたは素敵な経済ツウです。大円高の今でさえ70円台なのに、1ドル3円ですよ。
しかし冷静に考えると、貨幣価値がまったく違うんです。太平洋戦争に突入した1941年頃と現在を比べるとその差約7000倍ということですから、当時の1円は現在の7,000円相当。つまり1ドル=21,000円です。1ドル稼ぐのに21,000円も輸出しなくちゃいけないスーパード円安。これでアメリカと、いやイギリスとか中国とかほぼ世界中と戦争を始めたんですから……金もないのに……。
あっ、金がないから力ずくで資源を奪いに行ったのか。これが帝国主義ってやつですか。と、経済だけで手一杯お腹いっぱいなので帝国主義の話は置いときます。
このまま円高が進み、1ドル=1円どころか0円という、携帯電話屋さんの店頭POP状態になったらどうなるんでしょうか? どうなるもこうなるも世界恐慌まっしぐら、どえらいことになるんでしょうが、円をドルに交換すると、10円で何ドルもらえることになるんでしょうか? 0円なんだから好きなだけドルがもらえそうな気もしますが、そうすると円の実態はどうなるんですか?
もっと円高が進んで1ドル=マイナス100円になると、100円を1ドルに替えるとさらに100円もらえるんですか? おかしな話になっていますが、こういう場合も想定しておかないと……そうならないようにアダムスミスさんが「神の見えざる手」で最終的にはなんとかしてくれるということになっています(このへんも昔、学校で習いましたね。内容は忘れましたが)。
まったく理解していない経済の話を延々したのかといえば、それはいつものこと。記録的苦言の山を構築した前回の新幹線の話に比べれば、わずか1/3(当社比)です。一応本題の伏線なんですから、この程度は耐えてつかーさい。次の行から本編始まりますけーぇのぉ。
* * * * *
プリンスホテルとか水族館とか映画館とかよしもとシアター(は、閉館してしまいました)がある品川駅の高輪口。その駅前、国道15号線沿いの一等地に京品ホテルはありました。アットホームなサービスと手ごろな価格で定宿にしている人も多かったようで、1階のとんかつ屋とか串焼き屋とかレストランとかの飲食店も繁盛しておったそうな。
そして2008年、老朽化が、負債が、ハゲタカファンドが、リーマンショックが、労使交渉が、自主営業が、などあれやこれやありましたが(=もう難しい話はおなか一杯でしょうから)結局は廃業。当時大きなニュースになったので、憶えている方も多いことでしょう。
今ではホテルも取り壊され、ホテルになるような話もありましたが、どうやらパチンコ屋さんなるようで新しい建物が建ちました。1階の端っこに目立たずひっそりと立喰・ソがあったことなど、幻だったかのように……
- 「高輪どんどん」という素敵なネーミングの立喰・ソは、品川駅前という絶好のロケーションにありながら、意外と知られていなかったようです。
品川駅前のホテルに立喰・ソがあるとは思いませんし、外観も立喰・ソというよりも否立喰・ソ=一般的なおそばやさんという雰囲気だったことも影響しているのでしょう。
- バ☆ソ
私が「高輪どんどん」に初めて右足を踏み入れ、次に左足を、やがてすっぽり全身が入ったのは、一連の騒動が起こるわずか1年前の2007年。そろそろ秋と思ったら残暑続きの熱っちちな10月初旬でした。
品川といえば、このコラムの第1回「おこのみそば」を始めとして、第4回でお伝えした常磐軒総本山の「あずみ野」、第7、8回と二回連続で全店制覇を達成したはぐれ立喰・ソ・チェーン店派「えきめんや」、そして現在も気を吐き盛業中の選べるダブル天ぷらが嬉しい港南口の「ふじ」、ホームに点在する常磐軒の伏兵たちが跳梁跋扈じゃなくて群雄割拠しており、ローラースケートで駆け巡りたくなる、ようこそここへ立喰・ソパラダイスでした。だから、「あんなところ立喰・ソらしき店があるけど、ホントに立喰・ソか? ワナか?」くらいの認識で、わざわざ国道15号を横断して「どんどん」まで遠征(たかだか2〜3分ですが)することはありませんでした。恥ずかしながら。
残暑のクソ熱いあの日、なぜ15号線を横断したのか? アダムスミス先生言うところの「神の見えざる手」に招かれたとしか思えません(※神の見えざる手は、世界経済全般を見なければならないので、ふらふら歩いているおっさんを導くことはありません。念のため)。
道路より一段低くなっていた店内は結構広く、厨房の前と背中合わせに椅子付きのそこそこ長いカウンターがありました。入ってすぐ左に券売機、右の棚には自家製天ぷらがずらずらーっと並び、残暑でへろへろなおっさんのストマックをきゅ〜っとわしづかみです。
券売機前で思案していると「冷やかけそば」なる見慣れない文字を発見。それが私の「冷やかけそば」との出逢い、そして初体験でした。
- 「やさしくしてね。あっ、つるつるしてる、あふっ、へほっ、くう〜っ」というボケは親戚のボウズがこのコーナーを読んでいるようなのでこのへんで。
今ではそこそこメジャーな「冷やかけ」、その名の通り冷たいそば+冷たいおつゆのかけそばです。もりや冷やしたぬき系でおなじみの濃く辛いおつゆではなく、あっさりすっきりとした夏(すでに10月でしたが)にぴったりのよく冷えたおつゆに入った細めのそばを、Hシステム(1990年代HOYAさんが考案したわさびをおつゆに溶かず、そば本体に付けて食べる画期的な方式)で食べると、つるつるしこしこと立喰・ソのレベルを凌駕した、生そばのやや香りと、わさび(もちろん生ではなく練りワサビですよ)のややツンとしたやや香りと、しょりしょりしたネギの風味がやや鼻腔をややくすぐります。その後、やや甘めのタレをしっとりまとった天丼を口に含めば、やや至極のマリアージュ(ほほほっ……)。ああ、やや泣かせんといてや〜やっの初体験でした。
そんな素敵な初体験をさせてくれた「高輪どんどん」は、自社の経営状態とか、再開発とか、老朽化とか後継者問題とか多くの立喰・ソが抱える諸問題とは無関係に、大人の経済事情という渦に巻き込まれ、消滅してしまったのです。
まさに「風が吹けば桶屋が儲かる」のレーサーシフト版(=逆パターン)、「低所得者層のみなさんでも簡単に家が買えるローンが出来たら、幻立喰・ソがまたひとつ」ということなのです。
経済は魔物、恐ろし話です。アダムスミスさん、ここはひとつ「神の見えざる手」で「どんどん」復活させてくれませんか?
■立喰・ソNEWS
●立石よおまえもか!
最近メジャーになっているオヤジの聖地の立石(東京都葛飾区)。久しぶり行ってきました。改札口を出たらなんかすっきり。あれ?
- 半年前はあったのに。(2011年6月10日撮影)
- きれいさっぱり。(2011年12月11日撮影)
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