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「さあ、みんなの手持ちの“引き出し”を開けてくれ。総力戦を始めるぞ」 |
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当時すさまじいまでの開発戦争が「世界一」を自負するホンダに襲いかかっていた。これに対して朝霞研究所では組織を変更して開発システムもシンプル化、ニューモデルを連発すべく“全員攻撃”による『GOGO作戦』と名付けたプロジェクトをスタートさせる。世に言う『HY戦争』が大詰めを迎えていたのだ。ヤマハは「ナンバー1になる目途がついた」と公言し「世界一死守」はホンダの命題となっていた。「ヤマハの機種はすべて出せ、持っていない機種も出せ!」かくして1982年ホンダは年間47のニューモデル(モデルチェンジ、マイナーチェンジを含む)を市場に送り込む。何と1週間に1台、新機種が誕生していたのだ。 |
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1982年生まれのホンダ同期生たち。全部の車名を言えますか? |
しかし! オン・オフタイプ、スクータータイプ、スポーツタイプでホンダが弱かったのは意外にもスポーツタイプであることに行き着く。レースをやってないからだと見抜いていた入交は既に「レースはいろいろな意味でホンダの牽引力です」と河島喜好社長に直言。1977年、新聞に「二輪世界GP復帰宣言」が掲載されていた。 |
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入交が選択したのは4スト。かの “楕円ピストン”レーサーNRだ。ホンダが持てる技術を傾注し開発が続けられたNRプロジェクトではあったが、勝てない。レースは二番も三番もない。勝つことだけが目的なのだ。こうして連戦連勝のスズキRG−Γに勝つためNS500プロジェクトを急遽立ち上げる。 福井はあらためて驚いていた。2ストの図面の少なさ。NRの三分の一。「部品が少ないということは壊れる部品も少ない。GPですぐにでも勝つためにはNSしかない」。しかもホンダが2ストで参戦するからには、もう言い訳や酌量の余地はない。「勝たなければならない」のだ。 福井の“申し子”NS500は、いかにもホンダが造る2ストレーサーであった。主流が「効率が最も良い」とされていたスクエア・フォアでロータリーディスクバルブに対し、ホンダがは112度V型3気筒(前1・後2)。こうすればエンジン幅は2気筒分だし、コンパクトで軽量。しかも吸気はモトクロッサーに使われていたリードバルブ。レース・ブロックに在籍し、かつてモトクロッサー開発を手がけた宮腰信一の「レースはスタートでのリードが決める。リードバルブは押し掛けスタートでエンジンのかかりがいい。スタート命! これを武器に闘うべきだ」という論法が採用された。乗り手について福井は1980年に渡英した際にマロリーパークで「誰も通らないラインを通り、リアタイヤを滑らせて、驚異的な走りをするアメリカの選手」を見いだしていた。その名は、フレディ・スペンサー。 1982年シーズン。ホンダはNRと共にNS500をGPに送り込む。そしてこの年、急場しのぎとさえ揶揄されたNSとスペンサーは2勝しランキング3位を獲得。必然ホンダのGPマシンの主流はNS500になっていた。ちなみにこの年の王者は前年登場したスズキRG−Γを駆るF・ウンチーニ。スズキはメーカータイトル7連覇を達成。その開発技術はやがて量産車にも生きてくることになる。 |
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1978年、WGP参戦のために朝霞研究所で結成されたNR(New Racing)グループ。後にHY戦争で陣頭指揮を取った入交昭一郎、ホンダ6代目社長の福井威夫、HRC元社長の金沢 賢ら蒼々たるがメンバーが集結した。「ただ勝つためではない」というコンセプトを掲げ、製作されたマシンが楕円ピストンのV4エンジンのNR500。前後16インチホイール、フロント倒立フォーク、リンク式リアサス、カウルをフレームの一部とするアルミモノコックフレームなど、未来に向けた革新的なレーサーであった。 | ||
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1984年NS500の最終型(写真上)。最高出力は127ps以上/11000rpmにアップ、乾燥重量は113kgまで引き下げられている。すでに初代NSR500が投入されていたが、実績あるNS500も参戦し、フレディ・スペンサーが第5戦と第9戦で優勝している。動態保存確認テストの動画はこちらで。 | ||
この時の朝霞研究所は前述したように何が何でも「世界一メーカーを死守」すべくニューモデルを送り出していた。当時の研究員に言わせれば「産めよ増やせよ」時代。開発最前線を指揮する入交は“HY戦争”真っ直中で「朝霞研究所の開発能力を2〜3倍にする」と宣していた。それこそ技術者は自らの“引き出し”をフルに開けていたのだ。1982年には「マルN計画」が実行され、入交はHRCを設立する。研究所内のレース・ブロック(NR/NS開発)と耐久レースを統括する秋鹿方彦率いるRSCと本社のモーターレクリエーション推進本部の一部をひとつにまとめ、効率アップとパワーアップを研究所から独立させる形で大胆に図ったのだ。まさにイケイケの空気が研究所を席巻していた。 |
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その頃、営業から「NS500と世界チャンピオンにもなるであろうスペンサーの組み合わせを使わない手はない。若者ユーザーの主流250と、F-3(2スト250と4スト400によるレース規格)が人気の400クラスにも、ホンダが弱いとされるスポーツバイク市場を狙った2ストスポーツを」という“企画”が上がっても不思議ではない。そしてそれを受けある技術者の“2スト引き出し”が開かれた。
これに対して一方の雄、ホンダは1982年NR500の技術をフィードバックし、4スト王者の意地を注入し水冷V2エンジンのVT250Fで対抗。1985年に10万台突破リミテッドエディションが登場するほど別の方向で売れるバイクとなっていた。 |
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最後の2ストになるかもしれないと、2スト屋ヤマハの思いが結集したRZ250。市販レーサーTZ250を目指して開発されたRZは、カウルやアルミフレームなど、後にマストとなった装備こそないものの、1980年代大きな社会問題にまで発展したレーサーレプリカブームの原点であることに間違いない。 | 打倒RZを旗印に4スト屋の威信をかけ製作されたNRレプリカVT250F。超高回転でありながら、素晴らしく扱いやすく、当初の思惑とは裏腹に初心者や女性ユーザーに大いに受けた。驚異的な販売台数だけでなく、エンジンは今日のVTRにまで続く超ロングセラーへと発展した。 | |
それはさておき、2スト250/400は「何でもあり」という勢いもあってか、開発が急がれ1983年2月1日にMVX250Fが登場する。NS500と同じ2スト・水冷・90度V型3気筒。ただしNS500が前1・後2気筒レイアウトに対しMVXは前2・後1気筒だった。後1気筒の慣性マス重量をコンロッドなどの往復運動部分で前方2気筒とバランスさせるなど理論上1次振動ゼロを達成し、RZを上回る40馬力、価格は42万8千円。カタログではNS500と並べられた写真が使われ「RACER—ISM」(レーサー・イズム)のタイトルが踊る。しかしVTのパーツが多用された外観はNSとは異なり、この写真は否応なくそれを見せつけてしまった。ただホンダは「250ccスポーツバイクシリーズは、2ストロークエンジンと4ストロークエンジンなどにより、9機種13タイプと充実」と2スト版VTのMVXに自信を持っていたようで、2ストが影を潜めた北米、ラスベガスでも発表会を開いた。
ところがMVX250Fを“悲劇”が襲う。朝霞研究所に1本の電話が入った。それは予想したものではあったのだが。 |
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